比較建築研究会中世イスラム編の研究目的

なぜイスラム建築なのか?

 我々がイスラム建築として思い描くのは殆どの場合オスマントルコの時代の玉葱型のドームであろう。しかし、トルコ人が勢力を持つ以前アラブ人による偉大な文化の創造が行われたことはあまり知られていない。
 ヨーロッパがローマ帝国以降文化的に後退し未だ野蛮の地であった時代、西方世界の文化の中心はアラビア圏にあった。粗野なプレロマネスク建築の時代に、円熟期を謳歌したイスラム建築は、後のゴシック建築の源泉ともなっていったのであった。
 周知の様にゴシック建築はヨーロッパの建築の代表格であり、その建築思想は近代建築へも多大な影響を与えている。そうして我々の時代にもそれは受け継がれてきている。
 そういった間接的な例だけではない。異彩を放つアントニオ・ガウディーの建築は直接的なアンダルスの建築文化の後継者であり、思想的には例えば現代建築の巨匠である、ル・コルビジェやルイスカーン等が直接的なインスピレーションの多くをイスラム建築から受けていることは良く知られているところである。
 このように、イスラム建築はその発祥から今に至るまで西欧圏にそして我々にまで、多大な影響を与え続けている。
 我が国でも、間接的にはガウディーの建築に似せた作品を持つ今井兼次(無機質な現代建築へのアンチテーゼとして設計した?)がおり、特に注目すべき、我が恩師、建築家木島安史は、その事実はあまり知られていないものの、その建築作品の多くをイスラム建築から、それも様々な時代・多地域に渡る多種多様なモチーフからの直接的な引用に負っている。
 もっともコルビジェを信奉した一世代前に活躍した建築家達の殆どは、無自覚のまま、間接的にイスラム建築の影響を受けているのではあるが。

イスラム建築のパワーの源泉

 このように現代に至るまで多大な影響を与えたきたイスラム建築も実は、全てがそのオリジナルではない。ゴシック建築がそれにより直接的・間接的にインスピレーションを得たように、イスラム建築も実は以前の建築文化から多大な影響を受けつつ、またそれらを含有しつつ成熟していったのである。イスラム建築の偉大さは、アラブ民族のみの天才に因るものでない。イスラムはその黎明期に、僅かな期間にペルシャやローマ帝国の領土を制圧して行った。それらの地は当時もっとも文化的先進地であり、なおかつ古代四大文明と言われるものの内、エジプトとメソポタミアを含んでいた。そうして、また交易により古くから関係のあったインド・東南アジアと接触を持ち国家を建設、さらにジンギスハンによりシナ文明と深い関係を持つ様になるのである。つまり、イスラム文化は世界四大文明の正統な後継者であるとも言える時代があったのである。

研究の発端

 このような興味深くも重大な歴史事象にも係わらず、我が国においては特に建築においてはその姿が全くといって良い程知られていない。細部はおろか、その概要についても殆ど知る術さえない。(調べてみると分かるが、イスラム建築史についての研究邦書は殆どない。私も以前その事実に愕然とした。)どうゆう訳か我が国に建築研究者には、その重大性にも係わらず、興味の対象とはならなかった様である。しかしながら、これを避けては建築史の潮流を理解するのは不可能である。(近年、湾岸戦争、アフガン侵攻、イラク侵攻、といった不幸な出来事故、わが国においても、その文化理解の必要性から公的機関での研究も進み、漸くそれが一般に理解しやすい形で公表、出版されてきている。2003/08/25追記)
 西洋建築史の邦書を読むと暗黒の中世世界に恰も天命を受けたかの様に突如としてゴシック建築は登場する。それは系譜としはロマネス建築からの発展型として記述されるが、技術的にも、思想的にも雲泥の差がある建築様式が、ある一時期に降って湧いたように結実するものだろうか?
 そういった素朴な疑問からこの研究は始まった。

イスラムの特性

 さてイスラム建築を理解する上で、イスラムという宗教について理解しておかなければならない基本的な事項がある。
 まずイスラムはユダヤ教やキリスト教とは本来的に全く別の宗教ではないということである。イスラムもユダヤ教もキリスト教も信じている神は同じものである。キリスト教がユダヤ教の聖典である旧約聖書と新約聖書を聖典とするように、イスラムも旧約聖書とコーランを聖典としている、そればかりか、キリストでさえ、イスラムにおいては偉大な予言者の一人として見なされている。どうゆう事かと言えば、イスラムにおいてはモーセ、キリスト、ムハンマドは共に神から信託を受けた予言者であり、モハメッドはその最終ランナーであるとされているのである。つまり、本来神は絶対一の存在であるが、ユダヤ教やキリスト教は時代とともに、神の言葉が風化し歪められてしまったので、最終予言者としてモハメッドが遣わされたという理念である。イスラムにおいてはユダヤ教もキリスト教も同じ聖典の民であり、兄弟であるとされている。
 この様な、理念は同一地域でのイスラム教徒とキリスト教徒とユダヤ教徒との共存を可能とした。カトリック圏においては中世には魔女狩りさえ行われていたが、信じられない話であるが、実際イスラム圏においては、イスラム教徒とキリスト教徒(カトリック教でさえ)とユダヤ教徒とは共存し、それぞれが社会的にも重要な役割をになっていた(例えば、名高いエジプトのトゥルーン朝の大モスクはキリスト教徒(恐らくコプト教派)の建築家によって計画されたとされている)。
 中世においてはこの状況が顕著であり、それは文化のレベルを押し上げ、交易により他地域との交流を促した。モハメッドが自ら自身を神ではなく予言者であるとし、コーラン(聖典)に記された。(これがキリスト自身を神と同一視するキリスト教と大きく違うところである。)中世のイスラム圏の文化的繁栄は正にこれに負う所が大きい

文化伝播・伝承の中継地

 イスラムの文化が西欧に伝播していった主要なルートには、ビザンティン帝国(東ローマ帝国)、シチリア王国(イタリア)、後ウマイヤ朝(スペイン)があげられる。一般的に思われているように、イスラム圏とキリスト圏は始めから対立し、交流がなかった訳ではない。これらの地は、東方世界の中国との交易の中継地であり、その交易により大いに栄えた地であるとともに、東方文化やアラブの文化のキリスト教国西欧への文化の中継地でもあった。 ビザンティン帝国において、文化の伝承者としての役割は商人であるユダヤ人が担った。
 シチリア王国においては、フリードリヒ2世等ノルマン人のその王朝の長及びその側近であるアラビア人がその役割を担った。 
 そして後ウマイヤ朝においては、賢帝アブド・アルラフマーン三世等王朝の長もそうであるが、土着民とアラビア人の混血であるムワッラドゥーンやキリスト教徒のままアラブ化した土着民モサラベやイスラム教徒のままアンダルシアに居残ったムデーハルら民衆によってその役割が担われた。
 この中で、特にシシリー王国と後ウマイヤ朝は、直接的な文化の伝承体として、非常に大きな役割を果たした。 シシリー王国、後ウマイヤ朝ともに、賢帝のもと大学が創設され、古代ギリシャ哲学の文献の翻訳・研究・注釈がなされ、後にそれはスコラ哲学に繋がる。シシリー王国はキリスト教国であり、後ウマイヤ朝はイスラム教国であるという違いはあったが、これらの地においては、宗教的・人種的な差異より、むしろその人間の能力が重視された。そして宗教的な寛容さが優れた人材と文化を次々と生み出していったのであった。コスモポリタニズム的志向がこれらの地の特徴であった。( アブド・アルラフマーン三世の側近にはムワッラドゥーンがいたし、フリードリヒ2世の側近にはアラブ人がいた。またフリードリヒ2世は6カ国語に長け、公用語の一つにはアラビア語があった。彼が十字軍に消極的であったのはそう言う理由である。因みに彼は神聖ローマ帝国の皇帝でもある。)

現代に繋がる文化の源泉としての中世イスラム

 その後、イスラムとキリスト教との対立は激化し、原理主義に走ったイスラム側はそれゆえに芸術・文化・技術ともに硬直化し、停滞化していく一方で、今までカトリック教のもと抑圧されていた知識への欲求が解き放たれ、ルネッサンス期を迎え、大航海時代、技術革新、資本主義という潮流の中で以前イスラム圏にあった前述のコスモポリタニズム的志向を加速していった西欧の発展は知っての通りである。

 ただ、このような前向きの潮流の契機となったのは、やはりイスラムに違いない。野卑なゲルマン民族にとって当時(中世イスラム)のイスラムの文化・芸術は眩いばかりであったろう。優れた技術者・芸術家・建築家・文学者であれば、それに内在する可能性はまさに宝の箱であったに違いない。一目見れば、一読すれば、影響を受けざるをえないものであったことは容易に想像できる。(例えば、半円形のアーチしか知らなかった西欧の建築家がイスラム建築ではありふれたポインテッドアーチ(多様なアーチの種類の一つに過ぎない)を一瞥すれば、それがいかに画期的か(技術的にも造形的にも)、そして造形の無限の可能性をひめているか、一瞬にして雷光のごとく理解したであろう。)

 中世イスラムの時代は現在に繋がる潮流の契機となった最も重要なクリチティカルポイントの一つであることは明らかである。そしてその時代、なにがあり、なにが起こり、それがなにを誘発していったか、を究明することことが本比較建築研究会中世イスラム建築編の目的である。

2023/03/06一部改 

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