比較建築研究会中世ローマ建築編の研究目的
なぜローマ建築なのか?

 先にイスラーム建築、ゲルマン建築について述べてきたが、いよいよ、本当にいよいよローマの建築について探索することになった。

 当ホームページを読んで頂いている方々は周知であろうが、イスラーム建築もゲルマン建築も、その黎明期の基盤のほとんどをローマ建築に負っている。いったいそれはなぜだろうか?彼らは、異教徒的建築様式であったローマ建築を好んだのか?否。当時、宗教や慣習、好みを超えた、建設技術(計画・工法)として、またある意味で建築的権威として完成された建築物がそこにあったからではないだろうか?
 例えば、建設技術に関して言えば、今日の我々が建物を設計するときにはラーメン構造という(構造形式は一緒でも形態は全く異なる)現在最もポピュラーな構造を採用するかの様に、当時最も完成度が高く、ポピュラーであった、ローマ式の建築工法(計画設計から構築の工程に至る)を、その建築を手本としたのではなかったのだろうか?
 そのシステムの勝利、それがローマ建築の特筆すべき性格であった様に思う。

古代ギリシャ建築とローマ建築の差異

建築の存在目的の違い(個性と標準化)

 ローマ建築はギリシャ建築の亜流に過ぎないと、しばしば耳にする。確かに、建築物を美術作品として観た時、ローマ建築はギリシャ建築に比べて、なんとなくキレがなく、ぼんやりした感じがぬぐえない。まるで有名なミロのビーナスの模造品のような、何度も型を採られ、しまいに角(微妙なテクスチャ)がとれて丸くなってしまった石膏像な印象を受ける。

 ただしかし、建築は美術品としてのみ或るのではない。ローマ建築を我等の時代の工業生産品として観てみると、どうだろうか?規格化による素晴らしい生産性、ある一定以上のそつのない完成度、短期間に大量に供給するにはまたとない特質をみることができる。そこでは芸術家である建築家が不在であったとしても、特別な才能が要求されない建築群が瞬く間に建設されていく。ウィトルウィウスのいう建築の三つの立脚点ratio、強firmitas、用utilitas、美venustasについていうならば、ギリシャ建築は美を成す為に、強と用が必要とされ、ローマ建築は、用を成すために強と美が必要とされたとも思えるほどだ。そもそも建築に対して求めた価値観自体が違っていたのではないだろうか?あくまで芸術作品の延長上にあり、建築家が神という個に捧げる為、その個性の究極が求められた建築と、ローマ市民という群に捧げる為、全てに共通の価値感覚が求められた建築、その違いが差異としてあらわれてきたのではないだろうか?ギリシャ建築はギリシャたらんとし、ローマ建築はローマたらしめんとしたように思える。

ローマ建築の共通言語化(様式化)

模倣・融合そしてシステム化 

 ローマ人が用utilitasの建築(大きな意味でローマ化を達成させる)を求めたとすれば、それはエトルリアの技術の強firmitas、ギリシャの芸術の美venustas、によりローマ建築が完成されたと考えられる。ローマのオリジナリティーは、すでに完成されたそれらを建築の構成に欠かせない謂わばパーツとして自らの建築に取り入れその文明を模倣・融合し、新たに自らのものとして再編、普遍化(システム化)するという、その優れた過程にあった。

 ローマ的なその三つの立脚点に支えられた建築は、抜群の建設能力を持ち、ローマ帝国の政策と連動し、迷うことなく建築でのローマ化を進めていった。まるで戦後のインターナショナルスタイルのように、、、

 数の上でも規模の上でも、そして完成度の上でもあまりに強烈なその図式は、ローマが拡大すると同時に帝国全体に広がり、ローマ語(ラテン語)が共通言語化したように、建築=ローマ様式という共通言語の態を成す。 

建築自体としての権威化

  ローマ人の価値観により、洗練された建築は、The Archtecture?としてある種の建築自体の権威をもつ。ローマ帝国の政治的権威が失墜して、キリスト教やイスラム教という異教の文化が出現した時でさえ、バシリカ(会堂)やテルマエ(大浴場)は、教会やモスクに改造され、その構成や、コリント、イオニア、ドリース、のような柱頭の装飾なども、そのまま残され、彼らにとっては異教の文化であるにも関わらず、それらは、ずっと後まで、新たに建物を建造する時でさえ、用いられている。素晴らしい建築と言えば、ローマ帝国の某の建築といった時期に完成され様式化した権威は、政体としてのローマの権威を離れ、建築自体の権威として存続していった様にさえ思える。

 そうして、宗教や政体の権威を離れたシステムとしての様式だけが残った。

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