比較建築研究会中世ゲルマン建築編の研究目的

なぜゲルマン建築なのか?

なぜロマネスク建築、ゴシック建築、キリスト教建築ではなく、ゲルマン建築なのか?

 ある機宜を得て、建築史の教科書を読み直していった。大学の授業のように、四大文明から、下っていくのではなく、お馴染みの現代建築から遡っていった。近代建築、リバイバル建築、ロココ建築、バロック建築、ルネッサンス建築、ゴシック建築、ロマネスク建築(11世紀)と来たところで一気にローマ建築(5世紀)、ギリシャ建築とそして四大文明の建築へと。あれれ?ローマからロマネスクの間は?教科書を見ると、アーヘンの宮廷礼拝堂を例外として特筆に価する建築はなかったとある???その間建築はなかった??さらにテキストをみるとその期間ビザンティン建築、イスラム建築はその最盛期を迎えたとある??エ!

 以前過去から未来に向かって学習した時は気にならなかったことが急に疑問だらけとなる。過去から未来へと歴史を見ていくなかで、知らず知らずのうちに建築を進化論的な見方をしていたのでは?建築を後に形態的に分類されたに過ぎない様式論的な見方をしていたのでは?我々が良く知る建築史は西洋建築が主軸として、イレギュラーと思えるもの、その文脈から都合の悪いものを排除した歴史ではないのか?という疑念がふつふつ!と湧く。

 近代建築以前、リバイバル建築が主流であった時代があった。そこでは、建築の教育はエコール・デ・ボザールに見られるように、いかに過去の建築を正しく?豊かに組み合わせ表現できるかが重視された時代であった。当然、それには過去の建築を正しく?整理し様式化(形式化しパーツとして)する必要があった。ネオが付けられるネオクラシシズム、ネオルネサンス、ネオバロックはまさにそういった建築であった。遡れば、ルネサンス(古典復興)以来、西欧で主流といわれる様式は絶えず過去を規範としている。

 それに比して、ゴシック建築、ロマネスク建築はどうであろうか?決定的に違うのは、ルネッサンス建築がルネッサンス(ギリシャ・ローマ様式のリバイバル)を標榜した建築家が設計をおこなったのに対してゴシック建築、ロマネスク建築は、先にある様式のコピーではなく、それまでになかった特有性の強いものであるところである。それらの名称は後の時代に様式の分類上つけられたにすぎない(ロマネスク・ゴシック様式については、下記のロマネスク様式その名称の由来を参照)。様式的分類だけから建築史をみていって良いのだろうか?一見明快に見えるそれにより、かえって見えなくされているものがあるのではないか?

 再度空白の期間を見る。なぜ空白に見えるのか?本当に建築活動はなかったのか?単にその多様さ故に一定の様式を見出せないでいるのではないか?そうであったとしても、そもそも同じヨーロッパ圏にある、アンダルシアの建築やビザンティン建築を後の建築と無縁のものとして建築史上から除外してよいものだろうか?地理的に極めて近接しイスラム教徒の国からキリスト教の国に転身したスペイン・アンダルシア、同一の宗教を主軸とした国、東ローマ帝国・ビザンティンこれらとの関係を再点検すべきではないのだろうか?(THE EARLY MIDDLE AGE from late Antiquity to A.D.1000 XAVIER BARRAL ALTET著にはまさにこの点が指摘されており、僕も同意見。)

 ローマ建築からロマネスク建築に至るまでの躊躇?カオス的?時代、ロマネスク建築の多様性、そしてゴシック建築の独創性、この経緯はゲルマン民族の大移動に始まり、自ら政治的に創り上げていったカトリック教のもと、国家を確固としてものにしていったゲルマン人の歴史そのものの表徴化であるように見える。そしてゴシック建築とはその集大成ではないか?そういった視点から建築史を再点検する、そういった意味でこの項を、中世ゲルマン建築編とした。

ロマネスク様式・その名称の由来

 ロマネスク様式とは、西ヨーロッパで主として11〜12世紀におこなわれた中世の美術様式をいう。ロマネスク Romanesque は英語で、フランス語でロマン roman、ドイツ語でロマーニク Romanik、イタリア語でロマーニコromanicoという。これらの名称はフランスの考古学者コーモン A. de Caumont が1825年その著書でラテン語から分岐した〈ロマン語〉にならって〈ロマン〉の語をもって中世建築の様式を名づけたところに由来する。「平凡社世界大百科より」

 フランスのロマン主義者、ド・ジュエルヴィルがロマン語との類推から1818年に命名したとの説あり。「dtv-Atlas zur Weltgeschichte:邦版平凡社カラー世界史百科より」

 ラテン語から分岐した諸ロマン語のように、これらの建築が半円アーチや重厚な壁体やボールトを用い、古代ローマ建築からの直接間接の派生関係のあることを意味させたものである。

 しかしながら、実際は、ロマネスク建築は、古代ローマ様式のみを継承したのではなく、様式?が展開したその地方のバナキュラーな特性を合わせ持つ。その為、ロマネスク建築と一括りに言ってしまうのを躊躇させるほどの多様性に富んでいる。近年の研究では、それらは、在る場所では、西ヨーロッパ特有なケルト的あるいはゲルマン的芸術要素がみられ、またある場所では、ビザンティン美術の影響、さらにエジプト、シリア、アルメニアなどの東方キリスト教美術の影響、異教徒であるイスラーム美術の影響が見受けられることが指摘されている。

ゴシック様式のその名称の由来

 ゴシック様式とは、地域によって差異はあるが、ほぼ12世紀後半から15世紀にかけての約3世紀を覆う中世の美術様式をいう。その呼称の由来時期には諸説あるが、一般的には元来〈(ゲルマン人の一派である)ゴート人の〉を意味する語であるといわれている。ゲルマン人の未洗練な流儀に対する蔑称の語調をもつ。当初特定の教会建築様式を指すものであったが、のちに美術様式全般に拡張して用いられた。近年さらに、たんに美術ばかりではなく、文学、音楽、思想など多様な文化領域においても〈ゴシック的〉なる概念の使用が提唱されてきている。

 樺山氏の指摘するように、ゴシック様式、南方ではイタリア・ルネサンス、北方では宗教改革の波及をうけて後退したともいえるが、その精神は西欧の知的世界の基底をなし現代にまで受けつがれていると考えることもできる。

 ゴシックなる精神は、その特質は「厳密な論証手続を要求し、特定の権威や公理から出発して、主知的で合理的な理論構成をうちたてようとする。しかも認識しうるすべての可視的現象を総体として矛盾なく、かつ空白なしに説明しようとする。(樺山紘一氏:日経新聞日曜版)」ところにあるが、この精神は殆どモダニズムの精神そのものである。

現代建築のルーツとしてのゴシック建築

 先に述べてきたように、それを創造過程の集大成と見るならば、それは単なる歴史上の一様式ではなく、モダニズム建築の根幹的思想に繋がる西欧的建築観のルーツがここにあるのではないかと僕は思っている。そして本比較建築研究会をつくるきっかけは、このゴシック建築を僕なりに再検証しようとしたことにある。

 歴史的背景を探るうちに現代建築はヨーロッパ人の基本的な思考スタイル自体に起因するのではないか?という疑念が浮かぶ。そうであれば、そしてそれを成しめた社会背景を検証しなければならないのでは?中世という時代?ゲルマン民族の大移動?そしてその時代に起こったもう一つの巨大な文化圏イスラーム?ローマの解体?西ローマ帝国はその後いったいどうなったのか?神聖ローマ帝国って?様々な素朴な疑問!が湧きおこる。

 ゴジック建築とは後のたんなる建築の一様式ではなく、実は現在のヨーロッパ文化の起源であり、カオスの状態からキリスト教というツールを借りて秩序を形成していった一つの文化の到達点であった。偉大なる創造過程、その結晶がゴシックといえるのかもしれない。

 振り返れば、学生時代「様式ってなに?どうして様式となったの?様式となるべき条件?だれが?」という素朴な疑問から、人間の心性にまで手を出し、結局纏まらず空中分解してしまったテーマ(その節はご迷惑をおかけしました>恩師)が再び頭をもたげる。歴史を検証しなければという思いが、学生時代時間が足りなくて及ばなかったテーマが、ふつふつと、、、、今にいたっている。今や長編大作映画「ベンハー」を観る時以上の興味と感動をこれに感じている。ある出版社の方にも言ったのだが、僕にとってこれはスターウォーズよりずっと面白い(呆れられた?)。

〈ゴシック精神〉生成の社会的背景

(1)従来まで,精神的自立性の乏しかった北方のヨーロッパが、先進的地中海文化からの離脱を意識しはじめ、〈北方的〉という特質を身に帯びはじめ(この場合の北ヨーロッパとは,北フランス、ライン地方、低地地方(ネーデルラント)、イングランドなどを指す)、11世紀以来の社会的発展が精神的自立を促した。

(2)地中海沿岸地方と異なって都市的伝統を欠いていた北ヨーロッパに都市が形成され、都市民が精神的主導権の一端を担ったこと。いわゆる自治都市が制度的に成立し、この潮流は南ヨーロッパにまで新しい刺激を与えた。商業活動の活発化から富が都市に蓄積され、文化的発展の担当者と手段とが豊かに出現した。

(3)キリスト教会の制度的整備と世俗諸国家の台頭によってコミュニケーションの組織化が促進され、またそのような制度・組織自体が考察の対象とされるにいたったこと。このような政治や制度の確立はヨーロッパ各地の精神的共通性を意識させるとともに、個々の地方・地域の土着的(バナキュラー)な特性の強調にもつながった。

(4)ヨーロッパ人の文化的受容力が向上したため、先進的文化圏からの情報摂取が進行したこと。とりわけ古典古代の著作の直接もしくはアラビア語を介しての間接的受容。イスラム教徒から提供されたテキストと技術が翻訳や直接接触によって西欧にもたらされた。

(5)大学をはじめとする高度な専門的研究・教育機関が創設されたこと。ボローニャ、パリ、オックスフォードなどの大学は12世紀末までに基礎を固め、また国王や教皇庁の官僚機構、托鉢修道会などが新たな知的センターとして登場してきた。

(以上樺山 紘一氏の著述より)

偉大なる創造の始まり
ゲルマン人の民族大移動

 一般的に、それは黒海北岸にいたゲルマン系のゴート族が4世紀後半に西進して来たフン族に押され、376年に西ゴート族がドナウ川を渡って初めてローマ帝国領に移住したのをきっかけに、ライン川、ドナウ川などローマ帝国の国境線の北東方一帯にいたゲルマン人の諸部族が相次いで移動を開始し、とくに東ゲルマンに属する諸部族が西ローマ領内深く移住・定着して各地にそれぞれの部族国家を建設したほぼ6世紀末に至る二百数十年間の過程のこととされている。

ゲルマン民族大移動の末、疲弊するキリスト教圏と隆盛を誇るイスラーム圏

 2世紀にゴート族の移動で始まったゲルマン民族の大移動も、ヴァンダル族は535年に東ローマ軍に制圧され、ブルグンド族は534年にフランク族に制圧、東ゴート族は553年に東ローマ軍に制圧された。6世紀中ごろにはヨーロッパは、一旦、西ゴート族(スペイン)、ランゴバルト族(イタリア)、フランク族(ドイツ、フランス)、東ローマ帝国、そして、イングランドのジュート、アングル・サクソン族により勢力図が形成される。
 一方で、ムハンマドによるムスリム軍(ウマイヤ朝)は622年より勢力図を拡張させ、711年に、西ゴート族を制圧、ランゴバルト族は774年にフランク族(フランク王国)に制圧される。こうして8世紀のヨーロッパの勢力図は、大きく、西よりウマイヤ朝、フランク王国、東ローマ帝国に集約された。
 8世紀はムスリムが勢力図をスペイン、北アフリカ、中東、西アジアに拡大させた時期であり、ローマ文化・文明を継承したイスラム帝国は独自の文化・文明を発達させる黎明期にあった。一方でフランク王国勢力圏内では、ローマ文明の破壊と消耗により荒廃し、所謂「暗黒の時代」が到来する。地中海はイスラームの海となり、アッバード朝の時代に経済・文化・文明の最盛期を迎え栄華を誇ることになる。地中海を中心とした地域は隆盛を極め、北ヨーロッパは文明冬の時代となった。
 この時代、荒廃の中でカトリック教会が勢力を伸ばしたが、妄信された教義故に科学を顧みることがなく疲弊し後進国の体を成し、一方でイスラーム圏では、ギリシャ・ローマ時代の哲学、医学、天文学、技術、芸術が盛んに研究され発展され先進国の体を成した。
 ※現在の価値感覚であると理解しがい状態であるが、いち早く産業革命を行い世界の中心に躍り出た西欧諸国と遅れをとった中東諸国が逆の立場であったと理解するのが分かりやすいかと思う。

  アッバード朝の時代に、ウマイヤ朝はアッバー朝、後ウマイヤ朝、ファーティマ朝に分裂をみるが、3帝国競って世界文明の中心としての栄華を誇った。そのなかでも、直接ヨーロッパに影響を与えたのがスペインの後ウマイヤ朝である。後ウマイヤ朝は、ウマイヤ朝のカリフの血筋をひく王子アブド・アッラフマーン1世(在位756-788)を始祖とする王朝である。彼から数えて8代目のアブド・アッラフマーン3世(在位912-961)の時に全盛期を迎え、スペイン北部のキリスト教国や北アフリカのマグリブ西部を従えた。この時期にコルドバのモスクの拡張や城砦都市メディナ・アッ・ザフラーが建設され、これは後にキリスト教国の建築に多大な影響を与えることになる。また、皇太子時代より彼の事業を監督した第9代アミール、ハカム2世は、後世にキリスト教様式に影響を与えることになる芸術家であった(軍事力・政治力はさておき)。

※この城砦でアブド・アッラフマーン3世は、ナバラ女王、東ローマ帝国皇帝の使節、南仏、イタリア、ドイツの使節、神聖ローマ帝国のオットー一世の使節など多くの外国の君主や使節に謁見し彼らを圧倒した。

文明の仲介者・伝道者としてのノルマン人(バイキング)

 ノルマンコンエスト以降、イングランドに(スペイン以外の)西欧の他の地域では見られない特異な様式が突如登場する。それがノルマン様式である。
 ノルマン様式は、一般的に「11世紀にフランスのノルマンディー地方で確立され,ノルマン人のイングランド征服(ノルマン・コンクエスト)以後はノルマン朝イングランド全体に統一的にみられたロマネスク美術の一様式。カロリング朝のキリスト教的伝統とノルマンの北方的伝統とを源とする同様式は,ノルマンディー公国の国家建設とベネディクト会修道院改革運動を背景に,教会堂建築に最も典型的に表れている。ノルマンディーに豊富に産出する良質の截石の組積みによって,厳格純粋な線と壮大かつ律動的な空間が生み出された。(出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版)」と言われている。
 この記述の中で特筆すべきは、「ベネディクト会修道院改革運動を背景に,教会堂建築に最も典型的に表れている。」の部分である。「ベネディクト会」当時、その会派で最も有力であったのが、「クリュニー修道会」であった。その様式でイギリスに建設された教会堂と最も類似していたのは、意外なことにスペインのムーア建築様式であった。

 突如として圧倒的なレベルの建築美が登場する時、そこに外的な要因を勘考する必要があるのではないか?

はじめに中世イスラーム建築編

 先に比較建築研究会として中世イスラム建築のホームページを立ち上げたので、はじめから見ていてくれている方々は、主催者がイスラム教徒とか?イスラム建築オタクだと思っているかもしれない。しかし、実はこれまで述べてきたそういったコンテキストの中でもっとも資料が不足していたのがイスラームに関してであった。乏しい知識のなかでもイスラームの建築に関する知識は皆無。取り敢えず乏しいながらも同レベルにしないと、偏見なしに考察することができない。そうして比較することによってはじめて偏見のない(イスラム教徒でもないキリスト教徒でもない一日本教徒である私(笑)が)考察ができそうな?そういう思いから、はじめに中世イスラーム建築編から始めたという訳だ。

創造の過程という観点からの建築史

 もっともホームページに完成予定を西暦2050年(おそらく僕が死んでしまう年)と記載しているように、僕自身このテーマが10年やそこらで、できるとは思っていない(もちろん、僕はこれを職業でやっているわけではないので、なおさら)。

 幸運なことに近年科学技術も進化し、それを生かした特に考古学的研究には目を見張るものがあり、続けているうちに様々な大発見がある。さらにインターネットによりその成果がホームページを通して、またインターネット書籍販売のシステムによって、以前にくらべれば遥かに簡単に資料を入手できるようになっている。それとともにこのホームページも増補していくことができる。コンピュータも進化し、アプリケーションもどんどん高度に安価になっているので、いずれは三次元的プレゼンテーションもできるのではないかと、、、。

 そう、賢明な方々?にはもうお分かりだろう?このホームページのテーマは「創造」であり、このホームぺージが成長していくこと自体もその目的となっている(笑)。

2023/03/06一部改

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