ステンドグラス窓−ゴシックの光の形而上学的表現



ゴシック様式の教会において、窓は空間のデザインの重要なエレメントである。窓は、光を入れることを可能にする為の壁の開口部としての役割をしてきたという点だけについて言うと、それらは、大きさの異なる、単なる穴にすぎなかった(それを通して光が空間に導かれ、様々な方法で空間を照らし分割する)。しかしながら、ゴシック建築において、窓は、空間的分界の構造からその効果を引き出している(この分界は、それ自身が空間の構成物となり、光源として現れる)。この過程において、窓はウィンドウ・トレーサリーの彫刻の部位の後ろにあるにも関わらず、それらが伝える色付きの光は、それらにも、空間の表情を与える(硝子の平らな面を別の大きさに拡大している)。空間の中への光の浸透と硝子窓の明度は、たちどころに人目を引く。

盛期ゴシックの壁の構造への発展の過程において、窓の表面は、石造の壁の構成が分割されるに伴って、段々と大きくなっている。;このように、その窓の重要性は、壁の一部ではなく、さらに壁面全体を支配するようになるということにある。分節された壁同士の関係は、硝子窓(それ自身が壁になっている)同士の関係と同じように、次第に少なくなっている。(例えば、トロア、サン・ドニ、ケルン、メス、そしてストラスブールの広い硝子の壁に見られるように) 。その結果が、壁のアーティキュレーションの中でのそれらの一体化である。そして、そのエレメントは窓の中に延ばされ、そうして一体化された統一体を作り出している(その中の、石造の構造物は、また大きな窓の表面を分割し、そうしてそれらを建物の構造の中に溶け込ませている。)壁全体を横断して伸びる網状組織は、空間分割の構造を形成している(重要な役割を果たし続けている窓からの色付きの光と共に) 。

1140年にサン・ドニの修道院長シュジェールによって書き留められた様に、光は、教会の内部のデザインに於いて決定的な要素となるべきである。彼は、放射状の祭室について述べた。「そして、それを通して教会全体が、内部の美に広がる、燦然と輝く硝子からの素晴らしくも果てしない光のために、輝きに満ちて現れる」。Jutta Seyfarth によって1990年に出版された、ケルン都市公文書館の Speculum virginum の当時の写本の中の、ある対話が、これを物語る:「ステンドグラス窓の装飾で火が付いたっていう教会には入ったかい?」答え:「からかっているのかい!このやり方は、今やどの教会でも流行っているから、それじゃない、他のやり方の装飾なんて、あり得ないだろう?」最初の語り手は続ける。「日の光が、光輝に包まれて色硝子に差し込む時、その壁の色は何のせいだろう?窓硝子を通して差し込んでいると思っているものは何だろう?」答え:「間違いなく、壁の光の美しさと色は、日の光のせいだね。硝子じゃなく、、、もし日の光がなかったら、色硝子は、それが捕えた芸術性が何かを表現できないんじゃないかな」

この美の解釈は、中世の思想にに重大な影響を与えた光の象徴主義の、アレオパゴスのデオヌシオの教示(偽ディオニシウスとも呼ばれる(550年頃))に由来する。彼は、色が、光とのその本質的な結合を通して、それに起因する高いレベルの美を持っていると考えた(なぜなら、光は、その特性を色に与えるパワーであるからだ)。この概念は、プラトン(彼は「1つのシンプルな美、すなわち色、がある」と主張した ) に遡る(なぜなら、色は、闇に対する光の勝利を意味するからだ)。神は、光である。他方で、しかしながら、Robert Grosseteste によれば、光は「本質的に美しい。なぜなら、その性質はシンプルであると同時に、その中に全てを含んでいるからだ。従って、それは、高い次元で、均一であり、その均一性を通して、極めてバランスよく均衡させられている。美は、均衡の調和である。」ここで、燦然と輝くステンドグラス窓の色は、絵画の色を超えている。なぜなら、それらは、それらの色付き光によって、空間的次元に美を与え、そうして、光の実相と効果を高めることができるからである。

ゴシック大聖堂の広いガラスの壁は、建物の新たな経験則の結集とネオ・プラトン主義とスコラ哲学の光の形而上学の結合と見なされるべきである。スコラ哲学の実存学において、「最も重要で普遍的な形相(forma prima et communis)」としての光は、また、「完全な実体の形相(forma perfectionis corporis) 」を象徴する。:光によって形成されるものは、真実の美 (そこでは、神学的意味で、神或いは神性もまた啓示される)と見做されるので、そのパワーを介して、質料に、即ち教会の建築にも、美と神性を与えのが光である。従って、建物の中に、更に一層、光と神性を充満させる為に、神の家である教会の窓を更に大きく造る傾向があったことを理解するのは容易である(天国の教会或いは贖罪の期間の前兆として)。ストラスブールのウルリヒ(1277年没) (彼の目前で、ストラスブール大聖堂の身廊が建てられた)は、美に関する論文を次の言葉で始めた。「形態は、あらゆるものの性質であるのと同じ意味で・・・、それはまた、あらゆるものの美でもある・・・・美が、その形態に内在する気高さを介して、形成されるものの上に流れ込む光のようであるという、限りにおいて」

Mende の Durandus は、教会の窓を、「風雨を寄せつけないが、真の日の光、すなわち神に、教会(言い換えれば、信者の心に)に入ることを許し、教えを彼らの内にもたらす、聖書」として見た。13世紀の光の象徴主義が、慣例のレベルまで下がり、(建築に意識的に適用されることなしに)制度化された高度なスコラ哲学の分野の教えと思想にだけ受け継がれたかどうかは、不明である。

しかしながら、「古典的な」、イル・ド・フランスの大聖堂、ひいては、同じくストラスブールとケルンの建築に拠点のある光と色は、一般的な現象ではなかったことは、留意されなければならない。フライブルク教会堂の例の様な 壁の開口部としての小さな窓が、より一般的であった(そこでは、建築業者たちは、ストラスブールに由来する形態を利用したが、窓を持つ1つのユニットに統合する穿孔トリフォリウムを選択しなかった)。同じことが、ニュルンベルクのSt Lorenz 教会の身廊でも言えた。この場合、そのデザインにおける主要な影響が何であったかを言うことは、不可能である(知識或いは建設技術、または、単なる空間構成のより伝統的な視点の欠如 ?)。そして棟梁が、装飾的なそして構造的な形態を支持し、神学的をベースとした典型的なアプローチを、放棄した理由も不明である。


色の付いた光の幾何学
サンスのサン・テティエンヌの大聖堂の巨大な南側の窓は、末期ゴシック様式の一つの例である。棟梁Martin Chambiges が、それをアミアンの南側の窓の後に、1500年頃にデザインした。
光で打ち抜かれた壁
上 :シャロン・シュル・マルヌのノートル・ダム・アン・ヴォーの巡礼・共住聖職者団教会の内観。その身廊は1183年までに造られたが、その内陣は、1200年頃まで建設されなかった。
下 :パリの近くのサン・ジェルマン・アンレの王城礼拝堂(サン・ドニの影響を受けて1238年に建てられた)のこの南側の景に、その建物の北側のトレーサリー窓全体を見ることができる。


05/05/23
05/09/17
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