パルテノン神殿の残存、破壊、そして復元


アテナ・ポリアスの神殿は、紀元6世紀に教会に変えられた。これは、コンスタンティノープルに運ばれた、フェディアスの巨大な像を廃止することを意味した。十字軍は、その後、その建物を1208年カトリック崇拝に捧げ、そして、トルコ人は、それを1460年にモスクに変えた。

それまでに、パルテノン神殿は、生き生きとした2000年の歴史を立派に切り抜けてきた。残念なことに、トルコ人は、アクロポリスを要塞に変え、パルテノン神殿を軍需品のための倉庫として使った。スウェーデン人 Koenigsmark によって導かれたベニス人によって、1687年に仕掛けられた攻撃の間に、砲弾が火薬庫に飛来し、その建物は、爆発によって広く損傷した。最終的に、1802年に、スルタンとの協定で、エルギン卿は、フリーズの56のパネルと15のメトープ(彼が大英博物館に送った)を手に入れた。

19世紀に、その復元作業が、実習生(そのモニュメントの重要性に注目した、アレクシス・パッカード(1845)と Benoit Loviot(1879) の様なビラ・メディチの学生たち)によって作成された「絵画」を元にして、行われた。考古学に関して言うと、キリスト教徒とトルコ人の時代以来それを妨げてきた、様々な建設工事から、アクロポリスが解放されてるまで、発掘を始めるのは不可能であった。その神殿に建てられた旧キリスト教徒のアプスと小さなモスクそのものは、解体され、そして、オスマン朝の要塞は、破壊された。適切な作業は、ギリシアの独立が宣言された直後の、1835年に始まった。1885年び、広範囲に渡る活動が、結果的に旧パルテノン神殿のアーカイック期の彫像の発見に繋がった。1923年と1933年の間に、ギリシアは、再びコラム群を立ち上げるという課題に着手した。今日、1981年の地震を受けて必要とされる、別の主要なプログラムが進行中である。このプログラムは、元の材料を大幅に活用して、一定のコラムを再び立てる為に、そしてプロナオスのコラムの再建を支度する為に、その間に発見されたドラムとブロックを使用することを可能にさせた。


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