エレウシスのテラステリアン(宗教的秘儀に供された部屋)


ギリシャの、アテネの近く、エレウシスの秘儀の場所(デメテルとペルセポネーの秘儀に捧げられた)に、ギリシャの多柱様式の部屋の美しい例がある。その末期の状態において(紀元前440年の終わり頃)に、この空間はアケメネス町によって建てられたアパダナと類似していた。エレウシスのテレステリオン(入会者initiatesと司祭mystae の会合の場所を提供した) は、実際、段々によって四面全てが縁どられた、51.20m×51.55mの大きさの正方形の建物の形をしていた。

その建物は、7本の柱の6列の42本のコラムを持っていた。ペルセポリスの「イオニア式の」コラムと比較すると、エレウシスのそれらは、本当に控えめであった(高さ11.65m、直径1.97m、の小ささで、ドーリス式の柱頭を戴く)。我々は、材木で作られた現実の屋根に関する正確な知識を持っていない。それは多分、内部の空間(その総面積は約2600m2であった)の為に光を入れる為に、中央に一種の光塔を形成している、トラスを持つ構造から成っていた。

エレウシスのテラステリアンは、ミュケナイ時代に遡る小さな構造からス始まる、何段階もの建物を経てきた。僣主ペイシストラトス(525) の治世に、それは、既に22本のコラムを持つ、正方形の形をしていた。後に、キモン(470年頃)の下で、それは、拡大されが、未完成のままであった。その後、イクティノス(パルテノン神殿の建築家)が、二重の同心状の列(周囲の段の前に14本、そして中間に6本) に配置された、20本のコラムを持つ正方形の部屋の建設の為の計画を立てた。そしてそれは、naiskos(小神殿)の形をした、もっとも神聖な場所或いはアナクトロンの側面に位置していた。

この計画は、既に述べてきたレイアウト(7本の柱の六列を持つ、建築家Coroebusによって設計されたもので、彼はそれをアーキトレーヴの高さまで立ち上げた)が支持されて、放棄された。その作品は、MetagenesとXenocles によって継承された完成させられた。少し後(330年頃)に、その建物は、東南のファサード(二本の隅柱を持つ)に12本のドーリス式のコラムから成るエントランス・ポーチが加えられた。建築家 Philon によって設計されたこの回廊の結果、テレステリオンは、とても威厳ある様相を呈した。

尊重された割合を持ちながら、エレウシスにおいて、その機能はアパダナのそれと全く同じであった。これは、大衆に一般参加形の儀式を可能にするエリアを提供することを意味した(時には、ギリシャの秘儀の為の、他方では、神聖なペルシャの祝宴の為の)。

クセルクセスのテント(プラタイアでの彼の敗北の後にアケメネス朝に放棄された)は、ギリシャ軍の手中に落ちた。それもまた、ギリシア建築に影響を与えた。様々な会合場所は、アテネのペリクレスのOdeon、そしてアルカディアのメガロポリスのThersilion (エレウシスのテレステリオンのような正方形の多柱式の建物であった)の様に、 アパダナの部屋との類似性を明らかにしている。なぜなら、クセルクセスのテント(それは、紛れもない可動式の宮殿であった)は、おそらく常設の宴会場の様相を再現していたからである(プトレマイオス二世Philadelphus(紀元前3世紀)のSymposion のテントに関するケースと同様に)。50本のコラムを持つ、この仮設構造物の形は、いずれにしても、(ギリシアの会合建築における)頂部に光塔を持つピラミッド形の屋根の存在を説明するだろう。


ギリシアの多柱式のホール
ペルシアが、その宮殿でコラムのあるホールと部屋を発達させた様に、ギリシアにもまた、正方形の会合場所があった。そして、そこでの、屋根或いは天井は、柱の列によって支えられていた。良い例の中に、ペリクレスのOdeon、メガロポリスのThersilion 、そして特に、エレウシスのテレステリオン(入会の秘儀に出席する、宗教的な集会の為に設計された)がある。naiskos(或いは、最も神聖な場所)の部分が復元された景は、ドーリス式のコラムによって支持された複合的な木造枠組があったことを示唆している。
エレウシスのテレステリオンの平面図
紀元前4世紀に立てられ、囲み階段の列、そして42本の柱とエントランス・ポーチを持つ。
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