第5章 図画解説

ディオニソスの崇拝に供された儀式様の壺
角の形をしたこの豪華な銀製のリュートンは、ドナウ川の近くの北部ブルガリアの王の墓で発見されたギリシャの品である。銘文は、それが おそらく小アジア出身の、(コテュス王(紀元前383-360年)に仕えた)Etebus と呼ばれる銀細工師の仕事であったということを示している。この富裕な支配者 (紀元前4世紀にトラキアを統治した)は、ギリシアの都市と、小麦と馬を芸術作品や特注の宝石類の物品を交換する、商売をしていた。このリュートンは、ディオニソスの神秘的儀式 (トラキアの王の宮廷で広く行き渡った) で使用のするためにデザインされた。( Rousse 博物館。Borovo の宝庫。)

コレー或いはアーカイック期のヘラ?
(エフェソスの北西にある)Clarosに由来あうるこの彫刻(紀元前580-570年頃に遡る)は、純粋な初期イオニア様式美術の好例である。それは、まだ粗く彫刻された木製の彫刻 (聖所の神聖して神聖な場所に置かれた) に近い、クアソノン、すなわち「偶像」として知られているタイプである。( イズミル。考古学博物館。 )

サモスのヘカトンペドン
最初は、とても控え目であったサモスのヘラの聖所。元来、そのセラは、32.86 m に相当するちょうど100 Saurian フィートであった。。
上:紀元前800年頃に、それは、石工と粗い煉瓦で建設された(幅6.5m)の細長い建物であった。そしてそこでは、屋根を支える木製の列柱(崇拝像を部分的に隠している)が、縦軸となっていた。
下 :650年頃の回廊、或いは外側の周柱廊は、セラの周囲に建てられた。軸方向の柱は(6柱式ファサードを持つ、その小さい方の面にある二重のポルティコが、その前に置かれた)セラの面側に押し上げられた。

サモスの巨大なヘーライオン
紀元前6世紀のサモスのヘラの神殿は、広大な規模であった。僣主ポリュクレイトス(538-522)の命令に従って、そして、ロイコスによって560年頃に建てられた初期に神殿の崩壊の後に、 サモス人たちは、52.5mx105mの大きさの印象的な聖所の建設に着手した(建築家テオドトゥスによって、大理石で実現された) 。その8本のコラム(高さ18.5m)を持つ、ファサードのエレヴェーションは、明瞭に、イオニア様式の神殿が成し遂げたとこを示している。そのプランは、ファサードに知った三つの柱の列とヴェスタビュールとセラにある二重の列柱廊から成る二重列柱堂(dipteros)を示している。

エフェソスの最初のアルテミスの神殿
サモスのヘラの神殿と同じ様な大きさの、エフェソスの女神アルテミスに捧げられたその聖所は、クロイソス(リディアの最後の王(560年頃))の治世に建てられた。その大きさ(55.1×115.14m)は、サモスの建築家 Chersiphron 、 Metagenes 、そしてソモスのテオドロスがライバル意識をもって取り組んだことを示している。しかし、セラの場所には、エフェソスの聖所の中の巨大な屋外の中庭があった。その前には、巨大な生け贄の祭壇が置かれた。

スーサのエナメル加工された煉瓦
スーサ(アッシリア人の影響を示す)のダリウス一世(521-486)の宮殿の装飾は、エナメル加工された煉瓦で造られた。このアーチのフリーズ(典型的なアケメネス朝様式)は、ペルセポリスでは、繊細に彫られた浅浮き彫りに置き換えられることになった(イオニア人とリディア人の彫刻家によって、殆ど成し遂げられた) 。( テヘラン。考古学博物館。 )

パサルガダエのキュロス大王の墓
パサルガダエの平原にある、キュロス二世(紀元前6世紀)の埋葬場所は、段状ピラミッドの形の台座の上に立っている。その形は、南小アジアのリュキア人の墓のそれと類似している。

Nakh-e Rustam にあるペルシア人の墓
断崖面に刻まれた、そのアケメネス朝の支配者たちの埋葬場所は、背の高い十字形の構成物(そのコラムがエントランスを形作る宮殿のファサードを模倣している)のように見える。
下:それらの上に載る装飾は、帝国の国家全土に王の中の王によって及ぼされた権力を象徴する浅浮彫りを示している。

ペルセポリスの黄金の建立の銘
純金飾り額の上にある、ペルセポリス(紀元前6世紀末期)のアパダナの建立の辞は、古ペルシャ語、バビロニア語、そしてエラム語の、くさび形文字で、書かれている。
( テヘラン。考古学博物館 。)

ペルセポリスのエジプトの感化を受けたたまぐさ
ペルセポリスの宮殿の門は、ファラオの神殿で見られた様な、エジプト風の溝彫りを載せている。アケメネス朝の芸術は、帝国の多様性を伝える、広範な融合現象の産物であった。

古代のグリフィンの様な
アーカイック期ギリシャのグリフィンに感化された、紀元前7世紀に遡るデルファイの博物館のこのブロンズ像の様に(上)、グリフィンの前部或いは頭部の形をした、そのペルセポリスの柱頭は、アケメネス朝の宮殿建築(下)で見られるギリシアの影響に関する疑念をほんの少し残している。

サモスからペルセポリスまで
サモスのポリュクレイトスの神殿の二本のイオニア様式のコラム(左)と、(同じ大きさの)ペルセポリスのアパダナのコラムとの比較は、明らかに、これらの構造物の出所が一つであることを示している。そしてそれは、直径と高さの間の似通った大きさ、そしてその溝の制作、その両方によって特徴付けられている。

ペルセポリスのアパダナの柱身の圧倒的な推力
紀元前520-510年頃のダリウス一世の治世に建てられた、ペルセポリスの宮殿の公の接見室は、36本のコラム(柱頭を含む高さ23.15m)と、3つのエントランス・ポルティコを形成する別の36本のコラムを有していた。この円筒形の柱身、縦溝の完成度の高さ、装飾的なベースに載せる、その技術は、典型的なイオニア様式である。

ペルセポリスの力強さと優雅さ
メディア人とペルシャ人の戦士(アパダナの階段を護っている)のフリーズの後に、ペルセポリスのコラム群が今日、ちょうどそれらが2500年にそうした様に立ち上がっている。

暁のペルセポリス
ここに、ペルシャの式典の儀式のために設計された最もモニュメンタルなホールが立っていた:ダリウス一世のアパダナ。この豪奢な建物(レバノンのシダーで造られた木構造の屋根が架けられていた)が紀元前330年に破壊されたのは、ダリウス三世に対するアレクサンダー大王の勝利の後、480年にクセルクセス一世の軍隊によるアクロポリスの破壊の報復の為に、放火された火災の間のことであった。

アパダナびコラムの頂部
ペルセポリスの接見室の柱頭は、ペルシア帝国の力を象徴する雄牛の巨大なprotomaiを有していた。ギリシアの神殿のように、アケメネス朝の建物は、災害を避けるようにデザインされた、厄払いの彫像で飾られていた。

ペルセポリスのアケメネス朝宮殿の中心部
アパダナ(100本コラムのホール、謁見室)の前には、幾つかの門を通って入ることのできた巨大な多柱式の区域がある。

ペルセポリスの宮殿のプラン
広大なエスプラネード(部分的に人工で、高い壁によって支えられたテラスが並べられた)に建設された、ペルセポリスの複合施設は、式典用の建物、宮廷儀式に充てられた建物、そして支配者と彼の従者の為の部屋から成る:

1.エスプラネードへの階段
2.クセルクセスの門
3.アパダナの北階段
4.36本のコラムを持つアパダナの多柱式の部屋
5.アパダナの東階段
6.未完成の門
7.32本コラムのホール
8.100本コラムのホール
9.三搭門(Tripylon)への階段
10.ダリウスの宮殿
11.クセルクセスの宮殿
12.宮殿
13.宝物庫の壁
14.宝物庫

ペルセポリスのモニュメンタルなエントランス
ペルセポリスのテラスの上部へは、クセルクセス(486-465年)によって建設された「諸国の門」に通じる、向かい合わせ階段の2つの踊り場を持つ、二重の階段を経由して、入る事が出来る。

クセルクセスの門
ペルセポリスの巨大な翼があり、ライオンの尾が付けられた雄牛の一つ、或いはクセルクセス一世の記念門。これは、テトラモーフ(tetramorph)の生物を結合する、それのアッシリロ・バビロニアの怪物の改作である : 雄牛の体、、ワシの翼、人間の顔、そして、ライオンのたてがみと尾。これらの不可思議な創造物は、象徴的な建物(神殿と宮殿)の前で見張りをした。

堅牢な「要塞」
これらの巧みに作られた壁(約20mの高さに達する)の頂部にある、ペルセポリスの宮殿は、周囲の平原を見渡す。

 

「不死の人(Immortals)」の監視の目の下で
アパダナのテラスと接見室に通じる東階段には、三層の浅浮彫りのフリーズが横に並らんでいる。ここで、帝国の見張番が、諸王の王を見守った。その手すりは、典型的な千鳥状の鋸壁が横に並らんでいる。(一種の symposion (それは、国家の統一を示し、固めることを意図した公的な祝宴であった) において、愛餐或いは親睦の食事に先行した、王の行進が行われたのが、この宮殿の区域であった。

三搭門の階段
宮殿の三つの玄関に通じる二重の階段の踊り場には、統治者によって開催されたレセプションに出席しているメディアとペルシャの代表団を描写している(それらの円形と垂直のに襞だが付けられた頭飾りによって、それぞれを識別できる)、フリーズが横に並べられた。ここでも、手すりには、千鳥状の鋸壁が載せられている。

アパダナのペルシア人の近衛兵たち
槍、弓と矢筒、そして、場合によっては、丸い縦で武装した「不死の人」は、アケメネス朝の支配者の帝国の番人を形成した。戦士たちの厳密なオーダは、ギリシアの浅浮彫りの一般に見られる快活さとは対照的である。そしてそこの、本質的特徴は、動きを伝えようとする試みにある。

パサルガダエとそのパラダイス・ガーデン
上:クセルクセス二世(559-529年)は、ペルシャの高原に、ポリュクレイトスのアケメネス朝帝国の最初の主要な宮殿施設に着手した時期に、彼は、二重の列柱廊を持つ二つのポルティコ(ストア)(その間には、30本(5本×6本)の背の高い石の柱を持つ多柱式のホールが立っていた)に挟まれた、宴会用の建物を企画した。
下:その宮殿建築は、灌漑用の水路(その幾何学のレイアウトは、ヒューマンスケールで庭を形成した) によって横切られた広大な公園「 楽園 」の中に配置された。ペルシア人が、帝国の西の首都である、リディアのサルディスで取り入れることになったものが、このタイプの庭園であった。 そしてそこから、それらの影響は、アッタロス朝の下、ヘレニズムの公園(paradeisoi)に広がっていく事になった。

権力の象徴に関する類似点
ペルセポリスの宮殿とデルファイのシフノスの宝庫(それは同時代である(紀元前525年頃)の双方共が、ライオン(その獰猛さの効力によって群を抜いた(par excellence)保護者))のテーマを含んでいる。その二つの表現の間の類似性(双方の事例において、同じ姿勢で、正面から描かれた動物に関する)に注目。
上:野生の雄牛を襲うアケメネス朝のライオン(原位置に)。
下:巨人を襲うディオニソスの仲間のライオン。
( デルファイ。考古学の博物館。 )

ミレトスのヒッポダミアン形式のプラン
古典都市計画の父、ミトレスのヒッポダムスによって設計された、そのイオニア様式の大都市(紀元前479年に再建された)のプランは、直交する街路を持ち、建築家とギリシャ社会の理論家によって設計された、グリッド或いはチェスボード状の配置計画の適用を示している。海岸の形状がどうであっても、直線のシステムは、平坦な地面で発達させられた空間的配置に適用されている。

1.獅子門
2.ローマ浴場
3.北アゴラ
4.劇場
5.パラエストラ(体育場)
6.南アゴラ
7.西アゴラ
8.アテナの神殿
9.スタジアム
10.神聖な門

Priene の厳格な配置
ヒッポダミアン・プランの適用が限界に至ることになるのは、同じ、Priene のイオニアでであった。街路のレイアウトを適合させる為に、その建築家は、非常に丘が多いと同時に急で、反り返った土地の区域に、彼の直交プランを覆いかぶした。これが適用された、低地にある競技場とアクロポリスの頂上の間の、都市壁は350m以上立ち上がったある場所では、ある南北通りが階段と段々に変えらた。傾斜地は、長い柱廊 (ストア)によって中断されている。

1.ヒッポダミアン形式に都市を見下ろすアクロポリス
2.デメテルの神殿
3.劇場
4.アテナの神殿
5.ブールーテリアン
6.ストア(柱廊)
7.アゴラとゼウスの神殿
8.ジナジウム(体育館)
9.スタジアム

Priene のアテナの神殿のモニュメンタルなテラス
その傾斜地は、Prieneで非常に険しい為に、整然とした石のブロック(水平の層によって時々中断されたルスチカ(田舎積)石造建造物を形造る)で巨大な壁を築く必要があった。これらの構造基盤の上に、紀元前4世紀の後半の期間、マケドニアの征服の直前に、建築家 Pythius は、アテナ・ポリアスの聖所を建てることになった。

古代の有名な傑作
アネナの神殿は、古典様式の6柱式のファサードを持つ、イオニア様式の建物である。それは、 Pythius(ハリカルナッソスの霊廟の建築家) の作品であった。今日、神殿のコラムの内の5本が、Priene のテラスに再び建てられている。しかし、このanastylosis(そこには、それぞれのコラムに誤った円筒石材が使われている)は、実際には、本来の建物の優雅さを実物どうりに表していない。

周囲の環境と結合した劇場
Priene の劇場(紀元前5世紀と4世紀の間に建設された)は、その風景に欠く事が出来ない。その観覧席はその山の側面に対して後ろ向きに登っており(上)、同心状の席の列が、貝殻の様な盆(下)を形成している。ここからの、景色はMaeander川が横切る平原全体に広がっている。そのオルケストゥラの円は、プロセニアムの端に近接していおり、そこでは舞台建築の前にある構造物が識別できる。

議員の為の名誉席
ぜいたくな石の椅子(そのデザインは、帝国様式を先触れする !)は、ブール(boule)或いは評議会の地位の高い議員の為の、Priene の劇場のオーケストゥラ端に設けられた。

Labranda の儀式用の宴会場
Labranda(カリアの山中の高巣の様な場所)の、アンドロンAの名前を持つ建物は、symposion或いは神々への献酒を付けた神聖な食事の為に建てられた。王族と司祭の団体のメンバーが使う様に設計された、この建物(紀元前4世紀中頃に遡る)は、(柱廊の後ろに位置する大きな扉の両側の窓から明かりが採られた)広大なメガロンの様なホールの中に、これらの収集物を収容した。

ヴォールトが架けられた葬儀用の部屋
(紀元前4世紀に遡る)Labranda のこの墓は、最も古いギリシアのヴォールトが架けられた建物の1つである。その葬儀用の部屋(U字形に配置された3つの石棺が並べられた)は、(非常な精密に接合された大きなブロックを含む)、とても印象的な切石法(stereotomy)が特徴である。

ハリカルナッソスのアマゾンの戦い
紀元前353年以降で、最も有名な古典芸術家が、(その僅かな痕跡だけが今日まで残っている)名高い霊廟(ペルシャ人の総督マウソロスの墓)に取りかかった。様々な文書(特に、大プリニウスとウィトルウィウスのそれ)が、このモニュメンタルな作品にぷりに何の異論もなく賞賛を浴びせた。浅浮彫りフリーズ、そして特にアマゾンとの戦いは、荒々しいダイナミズムで波乱の出来事を賛美している。( ロンドン。大英博物館。)

クサントスのイオニア様式の驚異
紀元前420年頃に建てられた、ネーレーイスのモニュメントは、南リュキアの、クサントスの場所で発見された痕跡から復元された。それは、細長いイオニア様式にコラムによって分割された大きな開口部を持つ、そのファサードに特徴的な優雅さを持っている葬儀様の建物(ヘローン)である。これらの支持材の間に、(死後の故人の魂に付随する役割を持った)踊っている女性たち(ネーレーイスたち)の優雅な像が立っている。そのスタイロベートは、イオニア様式の重ねられたフリーズで覆われている。

仮説に基づいた建物
ハリカルナッソスの霊廟の復元断面図と平面図は、古代の著者によって与えられた情報で、近年の発掘の調査結果を集大成しようと試みている。しかし、多くの特徴は、依然として、その不思議な形をしたこの建物の中で、神秘に包まれている。

GREECE

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