第2章/ ミュケナイ期の建築



「ホメーロスの」世界の、要塞、墓、そして宮殿

イ−リアスとオデッセイ(ホメーロスの大叙事詩)が書かれた紀元前8世紀よりずっと以前の紀元前16世紀から12世紀にギリシャで建てられたモニュメントを「ホメ−ロス風なもの」として述べるのは、不適切とは言い切れないのではないだろうか。実際のところ、ミュケナイとティリンスの要塞、墓、宮殿は、トロイ戦争の時代の、戦争場面、葬儀、そして宮殿生活ライフを想起させる、その詩人の記述に完全に一致している。

さらに、独学のドイツの学者、ハインリッヒ・シュリーマン(かつて彼は、ダーダネルス海峡口で、 ヒサルリクの古代都市を調査した)を、まさに1876年のペロポネソスでの発掘調査の着工に導いた、ホメーロスの文書の解読は忍耐を要するものであった。ミュケナイで、彼は、彼が実在すると信じたアガメムノンの宮殿、クリテムネストラの墓、そしてアトレウスの宝庫を発見した。実際に、偶然行われたのは、ギリシアの世界の起源の発掘であった。

1952年まで、彼の判断の的確さは、認められなかった。考古学界は、実際、線文字B として知られているスクリプト(筆記文字)が、英国の建築家マイケル G.ベントリスとジョン・チャドウィックの協力を得て解読され、ミュケナイの居住者 (これまで古代ギリシャ以前の社会に分類されてきた) が実際はギリシャ人であったことが確定されるまで、待たなければならなかった。ピュロスで発掘された平板を根拠として、研究者たちは、ミュケナイ人によって話された言語が初期のギリシア語の形式であったことをなんとか示した。その瞬間から、ギリシア人の歴史の誕生をミュケナイに置くことが躊躇なく受け入れられるようになった。

ミュケナイ人は、長い間、(伝説のミノス王に統治された)クレタ島の文明、そしてクノッソスの芸術と密接な関係があるため、彼は同じ民族の血統にあるに違いないと思われてきた。しかし、線文字B スクリプト
(粘土板文書:訳注)の解読は、ミュケナイ人が新来者であることを示した (新たな到来者たちは、アカイアの侵入者たちと混同された)。

アカイア人(ギリシア起源の最古の集団を形成する)は、紀元前2200年頃にギリシアに着いた。彼らは、ペロポネソスに到達し、そこで1600年以前に、定住した。彼らが礼拝するパンテオン
(神々:訳注)は、古代ギリシアのそれと同じである:彼らの主要な神は、ゼウス、ヘラ、ポセイドン、エルメス、アテナ、そしてディオニソスである。ホメロスが彼の作品の中で描写する者たちとしての、ミュケナイ人は、実際は、アカイア人である。ミュケナイ人は、戦士であった。彼らは、頑丈な壁で囲まれた城砦に置かれた要塞地に居住した。彼らは、小さな領域に分割されたギリシアで、軍人貴族統治体を組織した。それらの小王たちは、主な資源が農業と畜産であった地域を統治した。それらは、交易と略奪に基づく「封建」制度を築き、自らを、贅沢品で囲んだ(それらは粗野で、雄々しい慣習とは対照を成す)。

エジプトの新王朝 、アナトリアのヒッタイト人、北のメソポタミアのミタンニ人の同時代人としての、ミュケナイ人の南部の隣人は、クレタ人の海洋帝国であった。ミュケナイ人は、クノッソス人の王国 ( 彼らは略奪目的で襲撃した ) と常に交戦中であった。

ミュケナイの軍隊は、また、ミノア人の突然の没落にもに関係していた。それらの軍隊は、 1450年から1400年に掛けてクレタ島に上陸し、大きな島に点在する宮殿に火を付けた。

エーゲ海の島テラ(サントリーニ) での、数十年前の、(ちょうど1500年後に、ポンペイとヘルクラネウムのローマ人たちの都市にふりかかることなるような)恐ろしい火山の爆発は、アクロチリの都市(1967年に考古学者マリナトスが、灰の下に埋められた、贅沢なフレス画と共に、 ミノアタイプの文化に関するまばゆい証拠を発見することになる場所)を平らに均した

恐らく、サントリーニを襲った、この自然災害の後に、巨大な津波 ( 余波がクノッソスの艦隊を全滅 させたように思われる) が続いた。その時以降、クレタ人の主導権は衰え、ミュケナイ人の船舶にその領海を明け渡した。アカイア人は、このチャンスを最大限利用し、クレタ島を支配した( 彼らは、彼らの前任者たちに特有の多くの特性を採用しつつ、それに取り掛かった) 。

芸術的融合

ミュケナイ人の建築を見る前に、この建築が繁栄した芸術的な文脈を定めることが、参考になるだろう。この点に関して、クレタ島とギリシア本土の双方における考古学的調査によって発掘された手工芸品には、学び得る多くのものがある。

ミノア人の芸術とミュケナイ人の芸術の間には、共通する近しい関連性がある。ミュケナイ、バフェイオ、Dendra 、その他の、墓穴と立て坑墓そしてトロスで発見された財宝は 、しばしばこれらの作りを識別することが不可能であるほど、クノッソスで発掘されたそれらと類似している。それらの類似性は、金、ブロンズ、象牙、そして水晶の細工においてとりわけ顕著である。聖杯、カップ、ゴブレット、 ライトン(角さかずきに似た底部が動物の頭の形をした古代ギリシアのさかずき:訳注)そして短剣は、時には、ミノア文明期のクレタ島から輸入された工芸品として、そして、時には、ミュケナイ文明期のギリシアに位置する工房で造られた物として、見立てられるかもしれない。専門家は、しばしばどちらか一方に確定することを拒む。

確かに、ミュケナイ人が墓で死者を囲んだ財宝の一部は、クレタ島で行なわれた略奪に起因すると思われる。しかし、他のシナリオも考えられる。ミュケナイの支配者がクレタ島の職人に、彼らが欲しった物を製造させたのかも知れない(ランプサクスのギリシア人の金細工職人達に華美な装飾品を注文した後のトラキアの富裕な指導者の様に)。

従って、可能な答はいくつも考えられる。クノッソスの工房は、要望に応じたし、実際の取引が成された時には支払いもされた(考古学は、我々にミノアの物が、キプロスとパレスチナからファラオのエジプトまでの、東地中海の至る所にたどり着いたことを示している)、或いは、遠征から帰ったミュケナイ人たちは、それらと共に (彼らが手に入れた物と共に) ミノアの職人たち(ギリシア本土でそれ以降に作られた宝石類と華美な装飾品の製造を任せられた)を連れて来た。

我々は、同時に、いかにクレタ人の金銀細工工芸師たちと交流のあるギリシャの徒弟たちが、ミノア人の技術を学ぶのが迅速であったのかも想像し得る。このように、島からの熟練した「親方」を頭として率いられた工房は、ペロポンネソス半島に突然現れ始めたのであろう。

それは、おそらく、この後者の仮説である(それは、製作中の、金の葬儀用のマスクの特別な事例にあった)。というのは、このタイプの象徴的衣装は、クレタ島において知られていなかったからだ。この儀式的なミュケナイ人の慣習のおかげで、我々は、現在、興味をそそる像(ミュケナイの芸術を非常に有名にした)を知っている。というのも、時代を下って、それらが、我々のために、それらの早期のギリシアの戦士たち(ホメーロスがとても好んだ)、アカイア人、の様子を再現しているからである。

一連の傑作

略奪の成果であれ、クレタでの製作され輸入されたものであれ、或いは、最終的にギリシャで作られたものであれ、ミュケナイ人の墓穴と墓所で発掘された財宝は、見事な遺産の目録を意味する。それらは、それらの所有者たちの芸術的関心事を明らかにする。黄金の一枚のシートで作られ、野生の動物で飾られた、脚のある聖杯の優雅さ ;打出し、或いは浮き出し技法を用いた、雄牛を描写するレリーフを持つ、バフェイオ杯(バフェイオで発見されたミノア文明後期 (c. 1500 B.C.) のものと推定される 2 個の黄金のカップ:訳注)の驚くべき様式美 ;短剣の刀身に現れるライオン狩りの場面の生命感;狩と宗教の場面で繊細に打ち出し模様が施された、金のリングの細工と嵌め込みの技巧;これ全てが極まって、ミノスの神話上の雄牛の彫像(金の角と額にバラ花飾りを持つ一方で、その鼻は、金箔で覆われている、雄牛の頭の形をした贅沢の銀製のライトン杯)になっている。この壮麗な対象 (その起源は、身元確認を拒んでいるように思われる ) は、またしても、特定の意味を持つギリシア芸術の起源の難問を呼び起こす。

その銀と金の工芸(それは指先の器用さの熟練した妙技ばかりでなく、伝統を継続する美学と芸術家の信頼できる目をも要求する)は、ミュケナイの建築の性質を気配さえ感じさせない。なぜなら、アカイア人によって作られた建物の芸術は、全く、クノッソス、マリア
(クレタ島東部の町;ミノア文明期の宮殿が発掘された:訳注)、グルニア(ギリシアのクレタ島北東部の村; 近くに古代ミノア文化期の都市および宮殿の発掘遺跡がある:訳注)、Hagia Triada の構造を継承していないからである。

ミーノータウロスの伝説の中で、神話上のダイダロスによって造られた混乱させる迷路を形成する無数の部屋を持つクレタ島の宮殿は、ミュケナイ人の巨石巨大石造建築とは全く正反対である。

軍用建築

クレタ島の巨大な港と不規則に広がる市街地とは異なり、ミュケナイ人の都市は、防備が固められた場所にある。それらは、しばしば戦略的に配置され、守り易い。彼ら自身の安全のために、ギリシアの王たちは、優位な位置に頑丈な堅固に身を固めた壁(立ち聳えるカーテンウォールと堂々とした入口を持つ)を配置した。この軍用建築は、紀元前13世紀のその頂点に達した(巨大な多角形の石材で作られた、注目に値する巨大石造壁となって)−ミュケナイは、この形式の最も優れた例を示している。

この要塞都市の防御のシステムは、2つの段階を通過した:最初の段階は、14世紀に遡り、防御柵によって形成された最も外側の外装材に、巨大な丸石と石材のブロックを使って生じたにちがいない(ホメーロスの記述によれば ) 。後の、13世紀に、そのエリアは、一連の墓を囲むために、南へ拡張された。それと同時期に、周囲の壁は、「ヘーラクレースの後裔の帰還」(詩人の言いまわしを借用すると)を示したドーリス人襲撃の脅威に対処するために、大幅に改良された。

この事業の二番目の段階の間、ミュケナイ人たちは、印象的な建築技術の使用を本格的に開始した:彼らは、巨大な多角形の石のブロックを配置した(数トンの重さで、モルタルなしで組み上げられた) 。各ブロックの完全なサイズの説明として、我々は、大きな石材の使用が最も経済的であり、最大の堅固さを提供する為であると理解している。青銅器時代に、金属は、まだ稀で、石切工の作業は、堅い石のハンマーによってなされた。従って、多数の(規則的な層を形成する) 平行6面体のブロックを建てることより、ローラ、小型そり、そして肉体労働の大集団で重い荷重を動かす方が易しかった。

ミュケナイの聳え立つ壁は、300m×200mの大きさの三角形のエリアを囲んでいる。それらは、急斜面の丘を覆っている。そしてそれは、特に深く切り開いた渓谷がある斜面に切り立っている。この優れた建造物(それを建てるのに使われた石のブロックのボリュームを理由に、ギリシアの伝統に従ったキュークロープス式(巨石式:訳注)によるものと考えられた)は、全て軍用建築の特徴が含まれていた。そしてそれは、Classical poliorcetics ( 包囲攻撃し、包囲攻撃に抵抗する技術)によって後に発展させられることになった。

攻撃者は、ミュケナイに達したとき、都市に入る正門に通じる、岩から切り出された通路に沿った最も険しくないスロープを選択するしかなかった。攻撃者は、そうして、メインゲートに通じる行き方に従った (それは、馬と荷車が通ることができた) 。その際、彼は頂上に建設された要塞を擁する岩の露出部の方へ進んだ。岩に堅固に固定された、連続したカーテン・ウォールは、彼の左に通り抜け道を示した。

彼の前に、その時、右手に、突き出た裏口(彼らに内部で追い詰められた攻撃者を集中攻撃で守ることを可能にする)の前に置かれた、獅子門が聳え立った。獅子門
(ミュケナイの城塞の入口にある城門;前14世紀ころの作で,まぐさの上に一対の獅子と思われる動物を浮彫りにした石板がはめ込まれている:訳注)は、正しく有名である。それは、驚くべき構造物である(そこでは、多角形のブロックが、巨大な同じ大きさの石と置き換えられている)。台形の開口部は、3つの巨大な石によって形成されている:2つの直立した石は、20トンの重さがある、まぐさが載せられている。この一枚岩の上に、両側に、水平な層に四つの巨大なブロックを持つリリービング・アーチ(隠しアーチ:開口部を覆うまぐさの上に隠され, 上部の荷重を支える:訳注)が聳える。これらの石材は持ち送り積みにされている(三角のベイを形成するために、一つがその次のものを越えて突き出している)。少しずつずらして配列された各層の影響を減少させることによって、ミュケナイ人は、その(みごとに彫られた石灰石の一枚岩のブロックから作られた) アーチの輪郭 を注意深く輪郭を描いた(そこに、彼らは、それから、風変わりなティンパヌム(まぐさとアーチの間のスペース:訳注)を設置した) 。

このティンパヌム(その後に、その門は命名されるのであるが)は、両側のコラムの上で、対称に、頭をもたげる二匹の大きな野生動物で飾られている。これらの、輪郭明りょうな体と生き生きした筋肉を持つ、ライオンたちは、残念なことに頭がない(その彫刻の頂部はミュケナイの権力のシンボルを破壊することを熱望した勝利を得た敵によって打ち砕かれてしまっている)。

中央コラムについて言えば、それは、三段階のベース(おそらくその都市自身を示している) の上に聳えている。このコラムは、クレタの建物の柱身と類似している;その滑らかな柱身は、頂部に向かって僅かに張り出している(クノッソスの宮殿の中のアーサー・エバンズ卿によって修復されたものの様に)。その柱身は、正方形のアバカスに載せられた、(突き出したすエキヌス
(饅頭刳形:訳注)を持つ)飾りが施された柱頭を支えている。上記の、アバカスの下に付けられた円筒のエレメントの列は、成形された梁を使った屋根葺きのシステムを思い起こさせる。入口の反対側にある、垂直材には、木製の(折り戸の)可動部分の背後にある付属補強バーの為の穴がある( それは、おそらくブロンズで覆われていた)。

最後に、ミュケナイ人は、包囲に耐えるために、手作業で、岩の中に深い泉へ通じる狭い地下道を切り出す為に多くの労苦を費やした。青銅器時代の鉱夫によって使われた技術の結果、その都市は、定量の水の供給を得ることができた。

ミュケナイは別として、他の大建造物も、これらの建築業者によって達成された技術を証明する。ティリンスのような砦(宮殿の前の最初の中庭まで2つの壁の間を上る階段を持つ)は、恐るべき創造物(6〜7mの高さまで聳え立つ壁を持つ) である。それらの要塞は、小窓で分断されている。そのコーベルヴォールト(持送りアーチ天井)の砲郭と、その隠れ通路は、印象的である。南で、その壁は、16mの高さに達する。これは、古代ギリシャの要塞ばかりでなく中世のヨーロッパの要塞をも先行する防御の建築の一例である。

トロス−墓と墓所

一旦、ミュケナイの都市の内部に入ると、我々は、階段の右手に、その場所を取り囲む大きな直立した厚板によって形成された、ロイヤル・サークルに気づく(その下には、一連の、いくつかの埋葬場所がある)。これらは、紀元前16世紀に遡る穴と立坑の墓所である(13世紀に行われた再建の間、注意深く保存された)。それらは、直径26.5mの囲いの中に位置している。それは、シュリーマンが一連の完全な埋葬場所を発掘したのはここである。そして、それらの財宝(同時にこれらの王の墓の中で、幾分ごちゃ混ぜになって、発見された)がミノア人とミュケナイ人の芸術と金銀細工を十分に明らかにした。

別の墓所サークルが、その都市の南方(壁の下で)で発掘された。建築の歴史に関していうと、これらは、いわゆる(コーベルドームを持つ)トロス(円形建造物)−墓であり 、それらは、ミュケナイ人のギリシアの最も驚くべき建造物である。それらの形は、時折、原始的な藁のミツバチの巣箱にたとえられた。ギリシア語のトロスは、元来、モノプテロス様式(単一のコラムのリングを持つ) といわれている、円形の、円柱がある宗教建築物を意味する。しかし、それは、またミュケナイの時代の大きなヴォールトが掛けられた埋葬場所をも意味する。

ミュケナイには、いくつかのドーム形の墓がある。シュリーマンは、2つの最も保存の良い例を「クリュタイムネーストラーの墓」と「アトレウスの宝物庫」と呼んだ。墳丘の下のこれらの構造は、およそ紀元前1250年〜1220年に遡る。このタイプの全ての建物は、本質的に同じレイアウトである:ドローモスと呼ばれる直線的な覆いのない進入路は、地面の中に深い溝を形成する。この水平の空洞は、美しい石造の高い壁によって縁どられている。それは、トロスそのものに通じる大きな扉に通じている。このドアの後に、埋葬場所を包含するドームの下に円形のエリアが位置する。

「アトレウスの宝物庫」は、これらのミュケナイの葬儀用のトロスの中で最も大きい。そのドロスは、長さ36mで、幅6m、そして、その側壁は、14mの高さで聳える。その堂々とした扉(高さ5.4m)は、印象的な一枚岩のまぐさを載せている。巨大な、大きさ7m×6m、厚さ1.4m、のブロックは、総体積約60m3、重さ120トン以上である。それは、獅子門と同様に、持ち送り積み巨大石で作られた、三角のリリービング・アーチに覆われている。

ミュケナイの建築家が、放射状のジョインを持つ正ヴォールトに関する知識がなかったか、精通していなかったということは注目に値する。同じ持出し構造の技術は、ドーム形の部屋のために使われている。これは、直径14.5mで、一連の33の同心の層を使って、建物の頂部(13.2 mの高さで) に立ち上がっている。

層の高さは、それぞれの一連のレベルと共に縮められている;それらの直径は、次第に狭くなっている。この「尖り」ドームの輪郭は、このように、対角アーチ或いはクロスアーチと類似している。各ブロック間の異なるレベルは、その内輪が厳密に滑らかで均一となるようにされた 。青銅色のほぞの跡は、金属の装飾の特徴 (星、おそらく) の存在を示唆する(嘗て、天を模して造られたこのヴォールトを飾っていた)。

この建物の安定性は、ドームの外に積み上げられ、そして、それを完全に覆う、多量の材料から生じている。その建物は徐々に持ち上がったので、埋設材は全て、その周囲に置かれた。墳墓の下へ埋められたドームは、このように、その外表面全体に均等に分配された圧力を得、これが、それをその結束作用と強度の双方に役立てた。

地面に沈められた後で、ドロモスは、埋められ、そして、王の埋葬場所は、この世の景から姿を消した。ローマの時代 (すなわち、1300年後-巨大な、煉瓦、トウファ、そしてコンクリートの皇帝の浴場のキューポラが建てられた時代) になるまで、 ミュケナイのトロスは、中間支持構造なしで、嘗て古代に建てられた最大の内部空間を包含することになった。それらの形態の完全性、それらの巨大石造物に対する技術的熟知度、そしてそれらの持ち送りヴォールト構造の質、その全てが、これらの葬儀用構造物を紀元前第2千年期の建築の見せ場としている。

宮殿そしてメガロンの謎

ミュケナイの高台を覆った宮殿は、様々なエリアの信頼に値する解釈を行うためには、不十分な保存の状態で、今日まで残存してきた。一方で、 ティリンスとピュロスのような複合体(この後者はBlegenによって発掘された) は、宮殿の構成 (その地上の待歯石は保存状態が良い)を明らかにした。それらは、我々が、ホメーロスがメガロンと呼んだものを形成するレセプションルームの特別な配置の理解を助ける。

これは、全てのミュケナイの都市がそのヴァリエーションをもたらした基準となったプランである。ピュロスのプラン(それはその殆どの特徴に共通している)を検討するには、十分な価値がある。その全体の形状は、軸状で、約40m以上伸びている。ポーチは、(貫通する軸状に配置された)エントランスを示している(その屋根は、単独のコラムで支えられている) 。扉の背後にある、軸方向のコラムを持つ、等しいエリアは、同じ形状を複製している。その全体が、ある種のピュロピライア(入口)を形成している。次に、長方形の中庭が続く。これは、2つのコラムによって支持された柱廊の後に開くヴェニス(玄関)に先行している。それは、ピュロスの、4つの面の各々に開口部持つアンティチェンバー(控えの間)への進入を促す。

大きな軸方向にある扉は、メガロンを適度に形成する殆ど正方形の大部屋に導く。このエリアは、10mの幅で約12mの長さである。4つのコラムは、円形のホールを囲んでいる。それらは、煙を排出すために、そしてまた部屋を換気するために、設計された頂塔を装備している屋根を持ち上げている。エントランスの右手の壁の中程に、王の王座がある。地面は、化粧しっくいが塗られ、壁は、フレスコで覆われている。

王のレセプションルームを形成する、この中央ぼ複合体の周りの、いくつかの部屋は、コリドール(回廊)からアクセス可能である。これらは、ワイン、オリーブ、そして他の食糧のために使われる(それらのうちのいくらつかは、大きな貯蔵瓶、或いはピトス(大瓶)を有する)貯蔵エリアと同様にバスルームと浴槽を持つ、プライベートな一世帯分の区画である。

その建物の残存部は、信頼できる解釈を許す範囲でいうと、ミュケナイの宮殿において、下部構造だけが、石工構造であったように思われる。一方、上部構造は、通常の住居の用に、材木によって建てられた。上のフロアは、ヒペローン hyperoonと呼ばれる女性の部屋が入っていた (それは完全に梁によって組み立てられた)。腐りやすい材料から作られたこれらの上部のエリアの消失は、我々から多くの情報を奪う。従って、部屋、そして特に王座を照らした光がどこから来たのか、を見分けるのは、興味深いだろう。仮に窓があったとすれば、それらは、堅固な基礎部の上にあったにちがいないが、その跡は残存しない。

これらの木造の建物(特に、ヴェスタビュール(玄関)の上にある頂搭と同様に、厚板と丸太で作られた天井)は、宮殿建築をバーナキュラーな建物とつなげた。我々がその詳細を想像することを可能にするにはあまりにも痕跡が残されていない。なぜなら、これらの建物は全て、ドーリス人の侵入の間に火災によって消滅させられたからである。

一列の一連のエリアを持つメガロンの特別なレイアウト(一組のコラムに先行されるヴェスタビュール、控え室、そしてメインルーム)は、ミュケナイ建築の本質的特徴である。叙事詩の伝承によって示された、この王の住居の典型的な構造は、このように、とりわけ宮殿に適用されている。ホメーロスの賛歌も、地下に住む精霊を祭る、ある種の地下の聖所を表現するために、メガロンという言葉を用いる。こういうわけで、現代の考古学者たちは、メガロンとギリシアの神殿のナオスのプランの間に、事実上の構造的連続性を仮定してきた。しかしながら紀元前12世紀のミュケナイ文明の凋落と9世紀と8世紀のアカイア芸術の開花の間には、、偶発的な、深い断絶期があった。ドーリス人の種族の侵入は、再度ギリシアを激変と破滅の期間に追い落とした惨事であった。

宮殿の部屋と神殿のセラの間の不確かな関連は、数世紀続く明白な沈黙によって疑問視されている。更に、我々が見るであろうので、これらの2つのタイプの建設物に特徴的なエリアの性質そのものが、異なっている。9世紀に現れる新しい建物のプランは、完全にミュケナイの建物の欠落していた、「アプスの」特徴(形が丸くなった)がある。最後に、8世紀以降の、主要な斬新さは、発掘者たちが「ベランダ」と命名した構造の創造にある。それらは、ある種の建物を囲んだ、木の柱群の周縁柱廊である。外から見る限りでは、これらの柱廊は、ギリシア建築の主たる特性であろう、周柱式の列柱の前兆であった。独自の特徴は、「ギリシアの神殿の起源」を扱う章において論じられるであろう。

ギリシアの聖所のナオス(神殿)が、ホメーロスによって言及されたミュケナイのメガロンの直接的な相続者であることを認めることは、いずれにしても困難であるように思われる。見られる限りの、いかなるそのような主張も、歴史的な連続をもたらすという願望に頼っていある(そこでは、ドリス人の種族の突発的出現の後に続く混乱が、伝承を揺るがした)。ギリシアを長期の無秩序と混乱の時代に落とし込むことによって、これらの劇的な出来事は、あらゆるそのような結び付きを全くありそうもない様にしている。

ミュケナイ文化の拡張

ミュケナイ人が1450年頃にクレタの支配権を得た後、彼らは紀元前1400年から1200年の間に拡大の期間に恵まれた。彼らの影響(イタリアまで達する東地中海における余念ない海運業によって拍車をかけられた)は、海軍の優位性に基づいていた。この点で、彼らは、最初にミノア人自身、その後、フェニキア人にとって代わった(彼らは「海の民」の侵入によって、1230年頃に、制覇された。しかし、彼らの主導権は、短命であった。というのも、ドリス人の襲撃(紀元前1150年から1000年の間)は、ミュケナイ文化を壊滅し、目ざましい民族の融合につながったからだ。ミュケナイ人の本拠地に対して仕掛けられた激しい戦闘と猛攻撃の後、その新来者たちは、アカイア人を南と東の方角に撃退した。イオニア人たちは、(彼らとして) 小アジアの沿岸を手に入れた。そこでは、9世紀に向けて、様々な非常に複合的な活動が続いた(それは、ある種の統一をギリシャにもたらすことになった)。

その時代以降、大移動の時代は、終わった。「エーゲ海はギリシアの湖である」、そして、異なる民族の名は、ギリシアの方言の呼称として存在し続けた・−アッティカ、エウボイア、そしてサモス島で呼ばれたイオニア人;アナトリアの北岸とレスボス島で呼ばれたアイオリス人 ;メガラ、コリントス、そしてアルゴスの周辺の地域で、そして、クレタとクニドスで使用されたドリス人;そして、アルカディとキプロスでは、アルカディア人。

それでもなお、侵入の最後の波動に起因する異なる種族が融合に続く、地中海におけるミュケナイ人の拡張は、ギリシア人に(紀元前8世紀の初めに始まった)大規模な入植活動を準備させた要因である。

04/12/08


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