想像力


僕の読書法は少々?随分?変わっているかもしれない。

幼い頃から僕は本を読むのが好きな子であった。でもちょっと変わっているのはいつもその本の話の筋をおって読んでいるのではなかったということ。例えばある物語の中で少女が深い森の中で道に迷ったとしよう。本来の話の筋では目印を見つけ村に戻るのだが、少女が迷った時点で僕の思考も迷ったまま森を彷徨い続ける。物語の筋とは別に僕の頭の中では別の物語が展開する、森の中に兎が登場し僕をどんどん森の奥深く連れていく、そこには湖があったりお城があったりするやがて別の童話に登場する人物が登場し、彼らと遊ぶことになる。

読んでいた本は閉じられ、虚ろな目をした僕はニタニタと笑っている。外から見るとなんと気持ちの悪い子だったろう(笑い)。やがて想像の物語の一幕が閉じた僕は元の本の話に戻り、また活字をおっていくことになる。

読み終えた僕の頭の中には本来の物語の筋の数倍の話が展開したことになっている。僕が本が好きだったのは、本がそういった空想の世界に入る入口を提供してくれるからだった(素晴らしい快楽だった)。そんなことだから、周りの子供の数倍の本をよんでいる(小さな田舎の小学校の本を全て読んだくらい)のに、学校の国語の成績は極めて悪かった。というのも、そんな読み方をしているものだから、本来の筋と自分で創った筋が交錯しオリジナルの話がどこまでであったか分からなくなってしまっていたからで、当たり前であるが試験の設問というのはオリジナルの筋に対する理解力を問うもので、そこで展開した僕の物語のことなど聞いてはいない訳で、、、かなりとんちんかんな答えを書いていた様だ。読書感想文というのは苦手だった。なぜなら面白く感じているのは想像への入り口をうまく開いてくれる本で、本来のストーリーには殆ど関心がないからだ。でも僕はその時、みんなそういった読み方をしているのだと思っていた。

どうもおかしいと思い始めた(笑い)のは、幸か不幸か、受験という現実に直面した時期。国語の設問というのは物語に関して読者が何を感じたかということではなく、設問者が何を答えて欲しいかということなんだと気がついた時。そこには一定の価値観による法則みたいなものがあるということ(つまりは常識?)。誰から教わったわけでもなく、突然そのことに気がついた。国語の成績は飛躍的に伸び(偏差値40から70位まで(笑い))、点数を稼ぐには得意科目の一つになった。国語というのは想像力を養う?鍛える?といわれる教科だといわれるが、こと試験に関してはそれは当てはまらないなと思った。成績が良いというのは優越感を伴ったある種の快感がある。でもそういった読み方をすれば、小人や魔法使いは出てこない。とてもつまらなく思えて物語というものを読むのをしばらくやめてしまった。

僕にとってはであるが、単純に成績をあげるのであれば、想像力をしばらく眠らせておいて、技術力(狭義の)を鍛えるほうがずっと近道で簡単だ。ただ怖いのは、安易なその方向に流れてしまい、その状態に安住してしまい、そのある種の快楽の中に埋没し、それが全てであるような錯覚に陥ること、結果想像力が目覚めることが難しくなること。それはそれで甘美な快楽だから。

コモンセンスというのは確かに大切なことだと思う。でもそれは火のようなもので、使い方を誤ると全てを焼き尽くしてしまうように思える。想像力を欠如した世の中になっていっていないだろうか?想像力は全ての活力の源であるように思う。

01/02/18 (日)

inserted by FC2 system