大霊廟(Mausoleum/Martyrium)


「mausoleum(大霊廟)」という言葉は紀元前377年〜353年にハリカルナスス(Halicarnassus)で小アジアの国王の一人であるマウソルス(Mausolus)によって建てられた記念碑のような墓に起因する。有能な芸術家がその建設に心血を注ぎ、世界の7不思議の一つに挙げられる程のものが完成した。それは一つのquadrigaと幾人かの王の像によって頂に載せられたピラミッドが立ち上がる基壇を持つ正方形の構造物であったと考えられている。初期キリスト教の建築において、「mausoleum(大霊廟)」という言葉は記念碑(大建造物:訳注)のような墓を指す。

ベツレヘム (Bethlehem) の生誕教会のmausoleum(大霊廟)は、生誕の岩屋の真上に皇帝コンスタンティネの命により建てられた。八角形プランのそれは、モザイクで豪華に飾られた床の中央の真上に立ち上がる大きな円形の開口部に閉じていた。それはピラミッド状の屋根に穿たれた開口部で明かりが採られていたに違いない。その大建造物のプランは基本的な部分の機能を反映している。前庭は巡礼者に休む場所を、商人に商売の場所を提供した。そのmausoleum(大霊廟)は、その構内に住んでいた聖職者により運営され、キリストの生誕の地を追悼したマートリアム(殉教者廟)の役目も果たした。キリストが誕生したと考えられていたその場所は、その岩屋(grotto)の天井が割られた開口部を通して知ることができた(しかしながら、その聖なる岩屋へは、もともと8角形の前から入ることができたに違いない)。その屋根の開口部と地上の開口部はキリストが生まれた大地と彼が約30年後に召された天空を結びつけている。礼拝儀式の前と後に、礼拝者、特に巡礼者は大霊廟の内部を周回し、その岩屋の内部を格子を通して見下ろすことができた。その大霊廟・殉教者霊廟はバシリカと結びつけられたにもかかわらず、二つの構造物は同時に明らかに異なった役割を担った(ローマの聖ペテロのもののように)。

ゴルゴサ(Golgotha)のアナスタシス(Anastasis) のロトンダはもう一つのコンスタンチネ (Constantine) の事業であった。コンタンティンの母親、ヘレナは325年にローマン・エルサレムの中心にある切石の墓をキリストの墓であると認知した。コンスタンチンはエルサレムの司教に、そこに「他のいずれよりもいっそう美しいバシリカ」を建てるように彼に指示する皇帝令を送った。325-326年に建設が始められた、そのバシリカ(殉教者廟の役割も担った)は336年に奉納された。(行列がバシリカからカルヴァリーの岩(Rock of Calvary)、聖墓 (Holy Sepulcher) 、そしてそしてバシリカの背後にある巡礼者廟にまで続くほどの)ミサの儀式が挙行された。複合施設全体がキリストの殉教、彼の犠牲と復活を象徴し、思い起こさせた。

その大霊廟は規則的に(その他の多くのモニュメントで採用された規範となった)放射状のプランに沿って、中心部の周りに配置された。八角形の建造物は度々古代末期の仰々しい帝国の大霊廟に採用された。ディオクレティアンのスピリトの大霊廟は、例えば、八角形の外観と円形の内部プランを持った。そして半球状のドームによって飾られている。

一般的に、古代末期の大霊廟は墓だけのためのものではなかった。彼らはしばしば2層を誇り。墓はより低い層にあるいは地下聖堂に位置していた。上の部分は瞑想、平穏、崇拝の場所の役を果たした。大霊廟或いは殉教者廟は時には、ヘロア(heroa )(英雄の神殿あるいは聖堂)の様に死亡した皇帝記念として建てられた記念碑であった。ローマのパンテオンは、特にその円形のプラン、内部の無数のニッチ、高いドーム、一般的な建築言語に関して、 度々模倣された。

大霊廟・殉教者廟は時折キリスト教徒のバシリカと隣接し、その装飾的要素を共有しさえもした。それはしばしば教会のポーチの側面に隣接した。ヘレナ (Helena)の大霊廟は、例えば、Marcellino e Pietroのバシリカに物理的に共存していた。記念碑的スケールでキリストの受難を記念するために、その皇帝の霊廟はデザインは受難を象徴する記念的建物となっていった。集中式プランは、それから、キリストの人生と受難を記念する基本的な全ての教会の要素となった。バシリカを経てその入口は 信者を(地上にキリストが存在した証を保存した)「heroon - martyrium 」に導いた。多くの次世代の記念碑的なキリスト教徒の墓はこの建築様式を採用した。

皇帝の霊廟

サンタ・コスタンツァ(Santa Costanza)の霊廟。環状側廊からの内観。中央の列柱はドームを支える窓が穿たれた壁を支持している。そのバランスのとれた構成と素晴らしく緻密な装飾により、この建造物(皇帝コンスタンティヌスの娘に捧げられた)は以前古代ローマの葬儀用ドームの直系の末裔といえる。その円筒の上に聳えるドームは外からもはっきり分かる。


参照

THE EARLY MIDDLE AGE
from late Antiquity to A.D.1000
XAVIER BARRAL ALTET
第2章 古代末期

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