その他の教会関連施設


最初のバシリカが建設される以前、初期のキリスト教徒はdomus ecclesiae と呼ばれる家屋に集まった。その時から、その言葉は、単に教会だけではなく、大聖堂の近くに建つ、聖職者と司教そして修道会共同体の主要な地位を占めるスタッフが入る建物或いは建物群を指すようになった。考古学者がしばしばこれらの住居を見落とした。しかし近年の発掘調査と公文書資料はよりはっきりと domus ecclesiae の様子を示している。ツールのグレゴリー (Gregory of Tours) は domus ecclesiae を司教の邸宅と定義した。司教は彼自身の部屋、 cubiculum を持っており、彼の死の後に、彼のベッドは時々奇跡を起こす力のある聖遺物とされた。domus ecclesiae には、聖職者は一堂に会して同じの食事を食べた食堂(refectory)、そして司教が来訪者を受け入れることのできた巨大な部屋もあった。ツールのサンマルタン(Saint-Martin)とClermont-Ferrandでは、その文書はサルタトリウム(salutatorium)について語っている。これは、広大なレセプションルームであったように思われる。チャールズ・ボネット(Charles Bonnet) は、ジュネーブ (Geneva) で発見された、床暖房されたモザイク細工の床のある長方形の部屋が、salvatorium であるいとしたが、確定はされていない。ルーアン大聖堂(Rouen Cathedral)での発掘調査は、tricliniumあるいは司教のレセプションルームと目されるアプスのある部屋に光明をもたらした。その隣は、複合浴場施設のような、温熱室であった。それは、要するに、これらの教会の複合施設が、ビザンティンの時代に見られる様な、伝統的な、あるいは簡素な入浴複合施設を所有したであろうことを推測させる。

domus ecclesiae は、そういったわけで、その時代の上流階級の住宅のようであった。いくつかにはオラトリウム( oratorium;祭壇と聖遺物をもつ小礼拝堂或いは個人所有の礼拝堂)もあった。これらの小礼拝堂(oratories)は中世の司教区の礼拝堂を誘発していった。

4世紀以降、司教の邸宅は貧しい者たち慈善を施す主たる施設であった。これは食物と衣類の配給のために施設を必要とした。巡礼者たちと貧しい旅行者たちは邸宅に保護を求めることができた。そして今まで簡易宿泊所であると思われていた、ポアティエ (Poitiers) で発見された、巨大な部屋はこの目的を満たしたと思われる。

最終的には、図書館、神学校と学校が、時折これらの複合施設に見られ、そうして domus ecclesiae は、初期の半公共の eternal life(永遠の生命?:訳者)の形式をとる場所であった。

中世の大聖堂下の考古学的発掘調査


司教施設群。ジュネーブ。スイス。遺跡の全体計画。
この司教施設群は元来、東の洗礼堂と西の中庭(アトリウム)によって切り離された、平行に配置された2つの教会から構成されていた。次に6世紀の大聖堂(ロマネスクとゴシックの時代のものにその後を継がれた)が建てられた。

司教施設群は、しばしば双子教会である


ジュネーブ(スイス) の司教施設群の再現 。
現在立っているゴシック様式の大聖堂の元になった教会は、洗礼堂の主軸に建てられた。共用のアトリウムがそれを南の教会に繋げた。そしてそれはMaccabeesに捧げられた礼拝堂になった 。
(水彩画:Service cantonal d'Archeologie, ジュネーブ )


参照

THE EARLY MIDDLE AGE
from late Antiquity to A.D.1000
XAVIER BARRAL ALTET
第3章 キリスト教形式の表現

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