バシリカのエレメント(構成要素)


古代末期のキリスト教徒にとって、「バシリカ」という言葉は聖体( Eucharistic )崇拝に行う為の建物を意味した。これは、単純な長方形あるいは集中形式のプランの建造物であり、最初は礼拝式に参加する者たちを収容することが目的であった。バシリカ様式の権威はコンスタンティヌスの下で確立され、その後次第に権威をもつようになっていった。

バシリカの方向はある規則に従っていた(方向によって、アプスの軸によって示された基本地点が意味づけられた)。最初は、特定の規則は遵守されず、建物は単に土地の形状に沿って計画された。幾つかの建物が、殉教者の墓のような、神聖な場所に単純に集められただけであった。8世紀に、東への方向づけが流行するようになり、9世紀までにはスタンダードになっていた。

初期キリスト教徒のバシリカは、異なった建物から構成される建築的複合施設(それぞれが厳格な礼拝あるいは社会の機能を果たす目的で建てられた。)であった。礼拝の間の、異なった集団内部の宗教的共同体の分類とそれぞれの領域に特別空間を提供する必要性は、特別な区域の外観を生じさせて行った。例えば、洗礼志願者(catechumens:教授を受けたものは、洗礼を受けた為所属していた共同体から締め出された)は教会の外に残っていなければならなかった。ただ洗礼を受けた信者だけが聖体礼拝の儀式に出席することができた。教会の入口で洗礼志願者(catechumens)を受け入れるために考案された建築形態に関して、最も一般的なものがアトリウムであった。これは、少なくとも3面のポルチコによって囲まれた巨大なオープンスペースであった。コンスタンティヌスの下で、(ローマの邸宅のものに影響を受けた)バシリカのアトリウムは地中海全体に広がり始めた。例外は、シリアと北アフリカで、そこでの例は、ほとんど見られることはない。覆いがない中庭を囲んだポルチコには、連続して屋根の架かった歩廊が付けられた(時々2層で)。上の階は壁によって囲まれたたり、列柱回廊として開け放たれたりした。拝廊はファサードの前面に配置されたポーチである。それは横切りることができ、教会によっては外部であり内部でもあったろう。

拝廊(narthex)は、最初は宗教的な建造物に入ることを許されなかった洗礼志願者(catechumens)と懺悔者( penitents )を収容するように意図された。7世紀に、このかなり限定的な使用目的は姿を消した。;その代わりに、(嘆願、そして修道院においては、礼拝の祝賀儀礼のような)他の機能を持った。中世の教会では、それはただ玄関であった。

ファサードの配置は、扉が一つであるか三つであるかによって決められた。その扉の上の中央の巨大な窓と時には二つの横長の開口部は、(建物に)光を採り入れ対称性を与えた。拝廊(narthex)あるいはアトリウムのある建物では、ファサードの記念碑的な表情はその上層部が担った。そしてその役割は機能的であるというよりむしろ審美的であった。

その大建造物内部では、身廊と側廊が教会を分割した。一連のコラム(円柱)あるいはピラスター(角柱)は、それ自身で完結する、小さなユニットを形成した。反り上がった船体との身廊の類似性(その言葉はラテン語の(navis)から生じる)は船としての教会 (Church) の象徴性を強めている。身廊と側廊はほとんどが1と5の間の偶数ではない数を形成した;(側廊より高い中央の身廊を持つ)三部構成は最も一般的に採用された。初期キリスト教のバシリカにおいて身廊と側廊は木造垂木と葺屋根に覆われた天井で閉じられた。集中形式プランの建造物はしばしば一つのドームを持っていた。バシリカの横廊は、翼廊(trans saepta "beyond the enclosure「囲いを越えて」"が語源)と呼ばれた。それは、キリストの十字架を象徴するT或いは十字形を生じさせる、クワイヤ(聖歌隊席)から身廊(側廊も)を分離した。翼廊は、その建物の残りの部分或いはそれから突き出した部分と同じ幅であったかもしれない。

クワイア(聖歌隊)はメインアプスを含有するかその前に置かれた礼拝式の空間である。それは礼拝式の祝典の間に聖職者によって独占的に使われた。それは、時に見渡すために身廊の床より高かった。クワイア(聖歌隊)は内陣あるいは他の区域を制約する。そしてそれは神聖なエリアの象徴的な隔離を強調する。それは、アプス、祭壇、 カデドラ(catedra:司教の座)そして聖職者のための座席、アンボ(読経台:ambo)、内陣(chancels)と地下聖堂(crypt)を包含する。

祭壇(バシリカの焦点)は、キリストの最後の晩餐のテーブルを象徴し、ゴルゴサの丘を思い起しながら、定期的に十字架の犠牲を繰り返し語る。この二重の意味は、それが採る形態(それらの中にあるテーブル、石棺そしてチェスト)の多様性を説明する。祭壇はまた、遺物を保管する用に供した。それは、シボリウム(ciborium)或いはそれぞれが高い祭壇の側面に立つ4本のコラムによって支えられた天蓋によって構成された象徴的な、保護部位によって覆われている。これは、墓の屋根、王位の天蓋、そして住まい(tabernacle)の覆いを表現した。

アプスはクワイアと教会の末にある。ローマの公共建築バシリカと邸宅や宮殿のレセプションルームの特徴、初期キリスト教バシリカにおいての大聖堂に内包されたアプス、或いはアプスの曲面に位置し、subselliaに挟まれた、第一司教座、聖職に充てられたベンチ(助祭は立ったままであった)。アプスは、教会の階層制度によって成された、勝利の教会(Church triumphant)と戦闘の教会(Church militant)の結びつきを象徴化した。

地下聖堂(crypt)は、聖歌隊の下に位置させられて、神聖な遺物を包含した。その言葉は元来、穴あるいはそれの上に祭壇が作られた小さい長方形の小部屋を名した。建築的に定義された地下聖堂は、しかしながら、少なくとも6世紀まで発展しなかった。それは中世のバシリカの核になった。pastoforae 、あるいは absidioles 、は側廊のそれ類似した役割として、アプス或いはくわいあの脇に配置された小さな空間であった。

schola cantorum (聖歌隊席)は、しばしば1、2段床から上げられ、クワイアのすぐ前に配置された長方形の囲いであった。そsてそこでは聖歌隊あるいは聖職者たちが厳粛な式典の間に居る場所であった。この場所はしばしば、内陣に沿った単一の空間を形成するクワイアに隣接した。それは最初に6世紀に現われた。

アンボ(読経台:ambo)(一種の聖職者が神聖な sariptures を読経する説教台の一種、説教がされ、或いは式典が告げられた)は、全てのバシリカで見られるというわけではない。

内陣(chancel)は囲い、あるいは、少なくとも、聖職者に充てられた区域と身廊を分割するために、礼拝と実務的な必要に従って確保された。それは通常彫刻された石あるいは大理石の板石あるいは柱で構成されていた。

幾つかのキリスト教のバシリカには、側廊の上にギャラリーがあった。これがファサードの内壁に沿って延伸したとき、それはトゥリビューン(tribune)と呼ばれた。これらのギャラリーは側廊と同じ広さであったが、天井は低かった。それらはコラム(円柱)あるいはピラスター(角柱)によって分割されたベイの中の身廊に開かれていた。トリビューンは一般的に拝廊に配された階段によって下階に連絡していた。

アプスとトライアンフルアーチの統一性


Santi Cosma e Damiano。ローマ、内観、526-530。
バシリカの印象的な身廊は、アプスの theophany の主であるキリストの立像の荘厳さを高めている。後の付加にもかかわらずオリジナルのボリュームは維持されている。

補足的建築と装飾


Santa Prassede。ローマ、セイント・ゼノ (Saint Zeno) のチ礼拝堂の内観。
このモザイクは、一方では、図像学の連続性、そして一方では、ヴォールトのリブに添う人物像における見た目にも明らかな、建築と装飾との密接な関係を強調する。

キリスト教バシリカのモニュメンタリティ


Santi Cosma e Damiano のバシリカのアプスのモザイク。ローマ 、526-530。
奇跡の治療者たち(Persia 、 Damian そして Cosmas。医師の守護聖人)は聖ペテロ (Saint Peter) と聖パウロ (Saint Paul) によって天国に導かれ、彼らの栄誉をキリストに捧げた。そして彼は天国の川の前に立ち現れた。

参照

THE EARLY MIDDLE AGE
from late Antiquity to A.D.1000
XAVIER BARRAL ALTET
第3章 キリスト教形式の表現

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