カロリング朝時代の礼拝式と建築


礼拝式は、その形式が教会により異なる、いくつかの儀式と礼拝から構成される。カロリング朝の時代、定例礼拝式は部分的に巡回儀礼の役割を担った。決められた日「定例(station)日」には、司教と聖職者が教会から教会へ渡り歩き、礼拝が行われた「定例(station)教会」へと出向いていった。

Centula或いはSaint-Riquierの修道院は(日常的にも特別な時にも、そしてそれは修道院複合施設の二つの極(東のSaint-Riquierと西のSaint-Sauveur)の間を巡回した)大行列を編成した。途中で、その行列は幾度も、朗読行われた或いは礼拝が挙げられた祭壇で、留まった。この巡回する礼拝式は1日2度、朝の祈りと夕べの祈りのために教会を満たした。これはカロリング朝の礼拝式の典型であった。そしてガリアの伝統を起源するそれは行列の式典を豪華なものにした。それはまた、Alcuinによって8世紀末と9世紀初期に導入されたある特定のローマ式の取り決めにも見る事ができる。カロリング朝の礼拝式は、歴史上のある決められた期間に地理的に限定された地域内で、とりおこなわれた。

最近の発掘調査は修道院教会の二極(性)を確証した。Saint-Riquierの Savior(救世主)の塔は、(アーヘンの宮廷礼拝堂を手本とした)地上より持ち上げられた基壇をもつ8角形の地上階プランである。この文脈によれば、身廊はなりよりもまず礼拝形式に必要とされた様々な行列に充てられた場所であった。この二極性はフーラ (Fulda) でも見られる。
修道院教会は、9世紀初期にローマの聖ペテロ大聖堂 (Saint Peter)を模してそこに建てられた。その建築的、礼拝式的中心部は西端にある。そしてそのよりローマ的な奥廊は聖ペテロの庇護の元に置かれた。それはSavior(救世主?)を捧げられたクワイア(聖歌隊席)に面していた。そのカウンターアプスの礼拝式の機能は、Saint-Riquirのものと類似した礼拝式的、記念碑的対称性を意味する。

オーセール(Auxerre)においては、建築、礼拝形式、そして文化はカロリング朝の時代に収束する。オーセールのマイスターたちは活発に9世紀の後半に主流であった概念に積極的に参加した。その時期のすべての知識人のように、彼らはネオ・プラトニズムに興味を持っており、古代に魅せられていた。カロリング帝国のルネッサンスの枠組みにおいて、オーセールの芸術的中心は、彼らが更新し復活させることのできる、有用な例と素材を求めていた。オーセールのサン・ジェルマン(Saint - Germain) の地下聖堂はこれらの知的な流れを例証する。例えば、柱頭は古典の柱頭の模倣であった。スクリプトリウム(scriptorium:原稿を書く或いは写本を写す為の離れ)と古典の研究は、異教の作品からコピーさっれたまた帝政ローマの記憶を呼び起こす装飾の選択を引き起こした。しかしオーセールのマイスターは自信が存在するその時代にも依っていた。また840年頃に設計された地下聖堂は、先の20年の主要な建築的発展の大部分に関する深い知識を示している。そうして、その地下聖堂は、単純な輪状のデザインから、聖遺物のために置かれた中央の小さな部屋の周りに発達していった、完結した複合体を持つ、ずっといっそう複雑な用途を持つ空間に変わっていった。地下聖堂内の遺物へは、元来、大行列には不適当な狭い廊下を抜けてアクセスした。おそらくその行列の様な礼拝形式の影響の下で、その回廊は一連の祭壇(それぞれが、その儀式に供する独自の場所、そしてそれら自身の独立した小礼拝堂を持つ)に置き換えられた。その地下聖堂の複合施設はこの配置を満たすために拡張していった。

Centulaの教会のプラン


完全な規範。Centula の教会(790-799年)のプラン。
カロリング朝の時期の初め、礼拝の規範の変換から、まさしくその修道院の教会の構造の修正が迫られた。Centula の教会は、これらの変更を完全に反映した。

1:ポルチコによって囲まれる中庭。
2:小段小搭によって枠取りされた西の turris 。
3:翼廊の袖に似たlateral。
4:多数の祭壇のある身廊と側廊。
5:アプス。

参照

THE EARLY MIDDLE AGE
from late Antiquity to A.D.1000
XAVIER BARRAL ALTET
第7章 カール大帝の帝国

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