集落



11世紀から13世紀半ばまで、村落は、一人の君主あるいは二人の君主(領地を共有する)が率先して建設された。小作農の集団は、その時(彼らが移住しなけらばならなかった)その土地の中央に住んでいた。中世における田舎の住居者達の主要な特性のうちの1つは、彼らの移動性であった。これは、特に北のヨーロッパに当てはまる。;南では、田舎の住居者たちは、より定住的であった。村の中心には教会と墓地があった。

発掘調査は、我々が中世の村落の3つのカテゴリを確立させる手がかりとなった。一つは本通りを成した(そこでは、私有地は、櫛の歯の様に直角に、あるいは、矢筈模様の45度の斜線状に、配置された。)他の村落は、グリッドプランであった(そこでは街路と私有地の配置は明快であり、同じ大きさの土地が村の各家族に割当てられたことを示している)。最終的に、いくらかの村は、中央集中式プランになった。しかし、これは、まれで、特に発掘の過程では、識別することが困難である。最早期に、我々は、周囲の土地より上に立ち上げられた南部地域の村落を見る。それらは、通常、家々に挟まれた大通り(街路の反対側の端に礼拝堂と搭持つ)からなった。北部地域では、我々は、小屋基礎を持つ大きな田舎の集落、サイロ、溝、そして様々な他の種類の建物を見る。

総括的的調査と地域調査は、我々に、12世紀来の有益な中世の城と砦に関する知識を与えれくれている。しかし、 10 世紀の防御施設と防備が固められた村落の部分は、幾分不明瞭なままである。一般に城に付随する村落は、防御を目的としたそれら自身の外周壁をもち、これは、孤立した村落にも言えることであった。そのような壁には、 3 つの種類があった。一つ目は、搭を持つカーテンウォールであった。二番目は、切れ目なく隣接する村の家々によって形成されたが、搭はなかった。三番目は、あまり知られていないが、一つあるいは多数の空堀を持った。小さな防御の壁の場合は、教区教会(時には、それ自身が要塞化した)が、村落の中心を形成した。

村の家々のデザインは、部分的に土地の状態によって決定された。それらは、泥あるいは木、そして時には、粗石で建てられた。それらは、一般に暖炉と最低限の家具があり、装飾のない単一の部屋からなった。納屋、水槽、そして礼拝堂は、対照的に、一般的に整然と建てられた。アーチ状の屋根、材木の屋根、そして、タイルを張られた屋根も、見られた。最も大きな建物は、時には階が重ねられ、ドアと(採光の為の窓を持つ)階段があった。13世紀までには、石材の使用が、村落がもはや、それらがかつてした様な移動を行わなかったであろうことを示唆した。

発掘で発見された家内の品々は、多種多様である。陶器とタイルの破片に加え、多くの鉄製の品々がある。:ナイフ、釘、締め具、そして三脚の器。コイン、ガラス、そして骨で作った品々、そして石製の砥石車、そしてモルタルも、見られる。当然、北部ヨーロッパの村落の日用品は南部のそれらとは、幾つかの点で異なる。

文献、遺跡、遺骨、そして中世以前の考古学的文書調査は、全てが総合的に研究されなければならない ( 我々が考古学によって与えられた像を完成し、中世の防備された村落に関する我々の理解を向上させようとするならば ) 。このような村落の知識は、我々が、中世の人口統計学、田舎の歴史、そして領主の収入に関して理解する上で極めて重要である。;新しい村落を建設した支配者は、新たな富を生み出すために、そうした。

中世の村

カオールの近く。Saint-Cirq-Lapopie。急な場所は、家々を段々に建てさせた。教区教会の周辺に建物が密集していることが分かる。;活用可能なスペース全てが、使われている。(村の)構造は、行き当たりばったりという訳ではない。:最も大きな家々は、本通りに沿って位置し、より小さな家々は、中央地区に集められている (急斜面である為段状に、曲がりくねった小路に沿って建てられた) 。

参照

THE ROMANESQUE
Towns,Cathedrals And Monasteries
XAVIER BARRAL ALTET
第4章


inserted by FC2 system