ロマネスク建築の象徴性



ロマネスク時代の宗教建築物の象徴性について記述した多くの著者の中で、 オータンのホノリウス(12世紀の前半に住んだ)が、最も深遠である。今日、彼は余り知られていない著者である。1095年から1135年の間の人気のあった期間の理由の一つは、彼の4巻からなる『De gemma animae(魂の宝石)』に起因する。この作品において、特に第一巻において、ホノリウスは、教父の足跡に従い、キリスト教の寺院を新しきエルサレム(天国)の予兆として考える為に、新約聖書の一節を利用した。他のの中世の文筆家のように、彼は、新約聖書に教会の各要素の象徴的な意味を求めている。

宇宙の一部としての建築は、神の事業の永続的な顕現である。それを建てる芸術家(熟練工)とそれに入るキリスト教徒は、建物の構成に、神に支配された世界の調和と彼らを待ち受ける来世の相似体を感じることができる。

12世紀末と13世紀最初期、クレモナの司教であり偉大な典礼学者であった(1155年〜1215年頃)シカルドゥス(Sicardus)は、彼の作品であるホノリウスの理論を引用しているMitraleあるいは教会文書を編纂した。それにおいて、彼は、教会と修道院のそれぞれのエレメントに関わる、神秘的な神学的な象徴主義に関する探究を、広げ深めた。後に(13世紀の後半)、Mande の司教、長老 Guilelmus Durandus(1230年〜1296年頃)は、『Rationale divinorum officiorum』或いは儀式の作法、を書いたが、これは教会の機能と象徴主義、そして礼拝式に関する完璧な論文であった。

オータンのホノリウスによれば、神殿或いは教会は新エルサレム(天国)の栄光の神殿の現世に於ける象徴である。天国の神殿において、教会は、永久の平安中で神性を祝福する。それは2分される(天国の法廷である神殿は天使と人を識別するからため)。

教会は、太陽が登る東の方へ方角へ向けられる。なぜなら、『正義の太陽』は東で崇拝され、そしてまた東に楽園(ホノリウスによる我々の家)があるからである。物質界の教会は、その神の家(the Church)を象徴している。:すなわち、忠実な信者の共同体は、神の奉仕(礼拝)のために集結した。物質界の教会は、ちょうど、神の家(the Church)がキリストの礎(the rock of Christ)の上にある様に、石の基礎の上にある。それは、4つの壁の形態をとりながら、天国の方角へ立ち上がっている。一方で神の家(the Church)は4つの福音書の美徳を介して成長する。固い石で建てられた信者の家は、信仰と教会の働きによって創られた堅固さを象徴する。モルタルで接合された石材は、愛によって結ばれたよる忠実な信者である。その聖所は、(ユダヤ人から生まれた)初期の教会を象徴する。一方で、その身廊は、現在(active life)の神に奉仕する者たちを表している。

透明な窓 ( 嵐を除けるが、光は入る) は、異端と戦い、教会の教えの光を広げた神学者である。光明が抜ける窓のガラスは、恰もガラスを抜ける様に神の本質を悟る、神学者の思想である。

神の家を支持する柱は、彼らの上に教会の組織が載る、(正しい道へ導く)司教を象徴している。建物の安定を保証する梁は、それらの保護を教会に与える、現世の力である。屋根のタイル(雨が建物に入るのを防ぐ)は、異教徒と外敵から神の家を守る兵士である。

天井と壁を装飾する絵画は、正義を例証し、教会の慣例的なしるしを表現している。それらの絵は、3の理由で制作される。 :一番目は、俗人に読まれるため;二番目は、建物を飾るために ;そして、三番目は、我々の祖先を記念するために。

舗石は、教会の活動を維持してくれている人々である。地下聖室(地階に建設された)は、精神生活を磨く人々である。供物が捧げられる祭壇は、キリストである(彼のおかけで、教会の供物が、寄進される)。キリストの体は、祭壇にとても明瞭に表れるため、人々は彼を信仰する。;そうして、彼らは(彼のおかげで)再生し、彼と一つになる(個々の石材が祭壇を構成する為に結合される様に)。

聖遺物は、祭壇の内部に隠されている。なぜなら、英知と知識の全ての宝は、キリストに含まれるからだ。祭壇上には、キリストのために苦しんだ12使徒と殉教者の聖骨箱が置かれている。祭壇布は、告白者と聖母である。そしてその行為はキリストの装飾である。

十字架は、3つの理由のために、祭壇に立っている。:最初に、それは神の家の我々の王の徴であるためで、それは、兵士によって崇拝される王の都市にある。;二番目は、絶えずキリスト受難を表すためである。;そして最終的に、そうしてキリスト教徒は、キリストに倣い、彼ら自身の身、彼ら自身の理性なき感情、そして欲望を十字架にかけるのである。

聖餐式を開催する、祭壇に置かれた祭壇天蓋(シボリウム)は、人類のために犠牲となって召されたキリストの神性である。人が祭壇に至る階段は、我々がキリストに近づくことによって得られる美徳である。宗教式典の参加者の手の儀式的洗浄に使う祭壇に添う手洗いばちは、キリストに由来する慈悲であり、そのおかげで、人類は、(洗礼と悔悛を経て)その罪業の苦しみから開放される。

教会に掛けられた布は、キリストの奇跡であり、その訓戒が読まれる読経台は、正義の再生を表す。その教会には、ランプによってによって絶えず明かりが採られている(ちょうど、キリストの教会が聖霊の炎によって永久に照らされる様に) 。

異なる種類の金属から作られたシャンデリアは、功徳を象徴する :殉教者の金、聖母の銀、理性なき感情を抑える者たちの銅、そして配偶者に仕える者たちの鉄。宝石は、それらの美徳に秀でた人々を象徴する。

建物の扉は、敵の侵入を妨げ、友人たちのために道を開くことを意図している。;それは、従って、キリスト (神の家から不信心者を追放し、忠実なものに対し自らを開く) である。

搭は、2つの慣例である(そしてそれによって、恰もそれらが、地上(世俗)のものの真上にある天界の高さから吊るされた様に、説教師 (鐘)が神の王国を告げる)。鐘の音は、説教を表す。搭の頂部に登るロープは、天国の主題を如実に物語る祈りである。司祭の様に、鐘楼の頂点に設置された風見鶏は、眠る人々を起こす。共同墓地(死者の安息の場)は、教会の胸である。

回廊は、修道院の教会の隣接して立っている (ソロモンのポーチが神殿そばに立っていた様に) 。それは、天国を予示する ;修道院は、従って、エデンの園である(エデンの園のパラダイスで最も揺るぎない部分は、生命の泉である ;修道院には、洗礼盤がある。天国(パラダイス)には、生命の木がある(ちょうど修道院で、我々が主の像を見る様に)。修道院は(天界のイメージの閉じられた回廊を持つ)天国(パラダイス)の予示である。そしてそこで正義は罪深い者から分けられる(ちょうど、信仰生活を告白する人々が世俗世界とたもとを分かつ様に)。

教会の形態に関して、オータンのホノリウスは、非常に明確である。十字形の教会は、教会の人々が世界のために抑えなければならない方法を明す。集中式プランの教会は教会が(愛によって) 天球(Orb)の完全な辺周部に立っていることを示す(永久不変の真理の王冠の様に)。オータンのホノリウスと彼の12世紀の追随者は、象徴主義に立脚する宗教建築を覆う神学的、神秘的な構造を打ち立てた(その全ての構成部品が神の秩序の解釈を正確に表象することを示している)。

ギスレベルトゥスの作品 

Saint-Lazare
。オータン、西玄関のティンパヌム。1130年頃。最後の審判の日が、中央の栄光の座にあるキリストと両側の地獄の亡者たちと救済された者たちで表現されている。その長い身体、膨らんだ布、そして平行の強調は、ギスレベルトゥスの幾つかの独創性の示している。その芸術家は、キリストの足に彼の名前を署名した。:『Gislebertus hoc fecit'』-ギスレベルトゥス、これを創る。


参照

THE ROMANESQUE
Towns,Cathedrals And Monasteries
XAVIER BARRAL ALTET
第5章図説

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