ロマネスク時代の建築現場



ロマネスク時代の建築現場は、時として、合理的な組織性に欠けていたと考えられているが、これは、的を得ていない。芸術家たちの地位は、社会的に既に明確に認知されていた。我々が多くの(主な、石工、彫刻家、モザイク職人、画家、そして貴金属工芸の職工たちの)残存する銘から知る様に。現場の組織構成、材料の手配と現場への搬入、配置計画(特に年のそれぞれの季節に関して)と建設の手順は、十分に考慮された。

これらの事実の証拠を挙げるよりむしろ、私は、12 世紀の最後の四半期の一つの文書 (その中で、カンタベリーのゲルヴァシウスは大聖堂の聖歌隊席の再建について述べている(それは、1174年に火災で焼け落ちた))を示したい。それは、(我々が知ることのできる、12世紀における、資材調達と建設方法について記述された)最も完全で、詳細な文書のうちの 1 つである。その文書は、1184年の幾分後に書かれ、フランスの建築家(ギョーム・ド・サンス ( 1174〜1178年に現場監理を行った))の到着を詳説する。その文書はまた、後期ロマネスクから初期ゴシックまでの遷移によって誘発されたれた建築論争をも浮き彫りにしている。

「火災の後」修道士たちは聖人たちの墓を開け、崩壊した聖歌隊席から石棺を除去した。;彼らは、それらを身廊内に置き、薄い壁によって信徒とそれらを分離した。修道僧たちは、その後、教会を修理に関して助言を求めた。この状態は、5年間続いた(助言を求められたイギリス人とフランス人の建築家は、火災によって弱くなった聖歌隊席の柱の補強に関する、矛盾するアドバイス提示した)。結局、ギョーム・ド・サンスが、誉れ高き者として選ばれ、木工事と石工事の双方に携わった。修道僧たちは、崩壊した聖歌隊を解体することに同意した。ギョームは、船に積荷し降ろすための便利な機械を設計し、その石材は、フランスからもたらされた。彼は、彫刻家たちの為に、かれらが彫刻時に使うモデルを用意し、そして他の準備をした。最初の年に、その聖歌隊席が、解体された。次の年に、柱が列ごとに建てられ、これらの上と側廊の外壁の上にアーチとヴォールトが造られた。3年目(1176-77)に 、 さらに2本の柱が両側に建てられた。そしてトリフォリウムと明り層の建設が始まった。翼廊の建設は1178年に始まった。しかし、5年目の初めの大ヴォールトの建設中に建築足場が50 フィート ( 15 m ) の高さから崩落した時のギョーム・ド・サンスの傷は深く、工事の完成の後任を賢明で勤勉な修道士に、託すしかなかった

1179年に、イギリス人ウィリアムが、ギョーム・ド・サンスの後任となった。ウィリアムは、背の低い男で、正直で、賢明であった。彼は、翼廊の両袖を完成し、主祭壇の上のヴォールトを結合し、聖トマス(Becket)に捧げられた新しい礼拝所を持つ東側への、教会の拡張部の基礎を用意した。基礎が建設されている間に、ウィリアムは修道士の遺体を発見した。これらは、南の公共の墓地へ移された。そして、地下聖室の壁は、窓まで造られた。

6年目の初め、1180年、冬の後に、建設が再開された時、修道僧たちは、復活祭の日に竣工することを望んだ。建築家はそれに応じ、聖歌隊席( その中に3つの祭壇と、様々な墓が作られた ) の周りの壁の建設を急いだ。3つの艶出し加工した窓を持つ木製の間仕切りが、事故から未完成部分を保護するために、聖歌隊の東部分に建てられた。

この点において、ゲルヴァシウスは古い建物と新しい建物の違いを記述している。そうして12世紀末の建築論議を次のように完全に例証している。『古い柱と新しい柱は形態と直径は似ているが、高さは違っている。新しい構造のために、それらは、 ほぼ12 フィート ( 3.65 m )に伸ばされた。古い柱頭の彫刻は浅いが、新しいものは、優れた彫刻を表している。聖歌隊聖の周りには、22本の柱があった ;現在、28本がある。全てのアーチと全ての装飾の形態は、平らであった(それらが鑿ではなく『石材化粧 』ピックでカットされた為)。今や、至る所に彫刻がある ;以前は、大理石の柱はなかった、しかし今や、非常に多くある。聖歌隊席の周りの、ヴォールトは平らであった。;しかし今や、リブとヴォールトがある。以前は、柱に付けられた壁は、聖歌隊席から翼廊を分離した。しかし今や分割されていない ;聖歌隊席と翼廊は、(4っつのメインリブに載る巨大なヴォールトの中心に位置する)1つのボス(突起)の下に集まっている様にみえる。以前には、木製の天井には大きな絵画があった、しかし今や、そのヴォールトは、石造である。以前は、 トリフォリウムギャラリーが一つだけ(教会建築の側廊上部, nave のアーチと高窓の中間のアーケードの部分:訳注)あった ;しかし今や、聖歌体席に二つ、教会の身廊に三つある。』

カンタベリーのこの建物の特権的目撃者から、我々は、ゴシック時代の建築現場がロマネスク時代と同様に、組織化されていたことを学ぶ、一方で、建築の形態は次第に修正され、新たな趣味が付加された。そして、これが、我々が突然遷移としてではなく漸進的推移として、様式の展開を考えるべきである理由である。


描写された教会の建物


Vitae et passiones apostolorum 。(12使徒の生涯と受難) 。赤と茶のインクの画。マタイの生涯の経緯がここで表されている:『敬虔な人々は、30日で間で教会を造った。』 そのミニチュアは、石切りと建物の異なる表情を示し、その柱頭の彫刻に特別な注意を払っている。(Bayerische Staatsbibliothek.ミュンヘン。Clm 13074.fol.90v)

ロマネスク時代の彩飾(模様)


Sant Pere de Rodes の聖書。11世紀末。羊皮紙上のテンペラ画。この聖書は、3人のアーティストによって造られた。リポルとレオンの聖書と共に、これはヨーロッパで最も豪華に装飾された写本の一つである。 (Biblio-theque Nationale.パリ。 Ms. lat.6,3;fol.89v)

ロマネスク時代の彫刻家の作品


ヘロナ大聖堂。12 世紀後半。回廊のレリーフの詳細。柱頭の彫刻に向く滑らかに加工された石材の異なった面に刻まれた二人の彫刻家を示している。我々は、一種の流れ作業が、柱頭を加工する工房で採用されていたことを知る。彫刻家は、石工頭と石材彫刻師と共に装備をつけて作業した。ロマネスク時代のアーティストは、承認してもらう為に、彫刻された装飾の真ん中で彼の作品を説明した。

参照

THE ROMANESQUE
Towns,Cathedrals And Monasteries
XAVIER BARRAL ALTET
第7章図説

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