地域の流派とその提唱者たち



中世の芸術の歴史は、歴史的事件と社会や宗教の歴史だけに依っているものではない。さらに二つの学問、地理学と年代記学も、それに資している。それらの助けにより、我々は、様式の誕生とその影響の拡散 ( それらは共に地方の様式の確定につながる ) を確認し得る。1840年にはすでに、 Arcisse de Caumont は、フランスのロマネスク様式の芸術を地方の流派に分類している(教会の外観とそれらの装飾関する分析をベースとして) 。彼は、7つの流派に区分した。:シャンパーニュとオルレアネを含む北フランス ;ノルマンディーとブルターニュ ;ポアトゥーとアングモア ;アキテーヌ;オーヴェルニュ;ブルゴーニュとプロヴァンス;ラインラント地方。19世紀に、考古学者 Jules Quicherat は、彼の地方様式の理論をヴォールトの研究に基礎に置いた。記念碑の考古学的研究における一般的な手法は、当時、建物を文書であるかのように扱うことであった。続いて、 ユージン・エマニュエル・ヴィオレ・ル・デュク は、彼独特の地域的流派のシステム ( ロマネスク様式とゴシック様式の双方の教会を含む) を確立した。

20 世紀の前半に、多くの国家主義的流派が、起こった ( 強い地域特性に先導されて) ;その一人が、Josep Puig i Cadafalch ( ロマネスク様式の起点を定義しようと試みた ) であった。建築家であり政治家であった彼は、(系統として、また国家的分派の表現としての)これらの建物の起源を定義する為に、カタロニア、北のイタリア、南アドリア海のモニュメントを非常に詳しく研究した。フランスにおける、他の流派は、ロマネスク様式の地域とその様式が先行した地域的様式の問題について論じた。注目に値する研究者には、 Eugene Lefevre-Pontalis 、 Jean -Auguste Brutalis 、そして Jean Vallery-Radot がいる。フランスにおける地域的様式の年代学に関する論争は、国家様式を巻き込んで拡大した。 :論争は最初に、フランス型のロマネスク様式か、スペイン型のロマネスク様式かでおこった。ここでは、 Emile Maleの名が有名である。;同じくアーサー・キングスレー・ポーターのような米国の学者も、これらの討論において重要な役割を果たした。

1934 年に Henri Focillon の La vie des formes(形態の生命)は、自律的生命を建築的形態に帰する事により、地域の論争を、完全に超越した。Focillon にとって、形態は、芸術作品の本質であり、その発達を統括する。光り輝く中世賛美者である彼は、 Art des sculpteurs remans(ロマネスク時代の彫刻家の芸術)、1932年、において、そして、(多くの版を重ねた) Art d'Occident (西欧の芸術)においては、一般建築に対する、ロマネスク様式の発展に注目した。この形式主義者に対抗する流派が、ピエール・フランカステル の流派であった。(彼は、その作品だけではなく、作品そのものに向く前に、パトロン、観客、制度、芸術家、を研究し、それが生じた、社会的、経済的、地理的、地域的文脈にその芸術作品を統合しようと試みた。)これは、芸術社会学と呼ばれた。


正面ファサード


サン・エール。アングレーム。12 世紀初め。西ファサード。その壁の表面は、(その上部に小さなアーケードを持つ)三つの区画にある五つのアーケードによって表現されている。光塔と三角の切妻は、後の追加である。

最早期のノルマンディーのロマネスク様式


ノートルダム。ベルネー。1050 年に完了。元来、7つのはベイを持つ身廊は、(それぞれが1つのアプサイディオレを持つ)狭い突き出した翼廊に開いていた。二つのベイの聖歌隊席は3つに分かれたアプスにより拡張された。1963年の改築では、除かれ、身廊と統合された。これは、ノルマンディーの最早期のロマネスク様式の建物の1つである。

キリストを賛美する装飾

Saint-Pierre。アングレーム。ファサードの装飾の詳細。権威の象徴であるキリストは、マンドルラ(神を取り囲む後光)と4 人の福音伝道者のシンボルでで囲まれている 。天使が、周囲ぐるりにいる。:キリストの真上、雲の中、そして、アーキボルト上。ロマネスク様式の装飾は、19世紀に修復された。


参照

THE ROMANESQUE
Towns,Cathedrals And Monasteries
XAVIER BARRAL ALTET
第5章図説

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