第4章 図画解説


オスマン朝装飾の夜明け
ターコマン族のエミール国の時代のその最初期の兆候から、オスマン族の台頭と同時に起こった芸術は、ペルシャ人の影響を示した(特に、装飾的な花のレパートリーを持つ、ティムール朝のそれ) 。この時点から、形態は、角が減り、セルジュークの様式は、完全に刷新された。ミレトスの古代の都市の近くの、バラトのイルヤス・ベイ・ジャミ(1404)のレリーフのカーネーションのこの扱い方は、オスマン王朝の古典主義の慣例として定着することになった。

幾何学の触発
形態の軟化に平行して、異なる形のタイルの拡散が起こった :6角形、8角形、12角形、等。色の微かな演出が、そうして、可能となった。双方の発達が、1426年に遡るブルサのムラディイェのこのパネルにおいて十分に引き出されている。そのパネルは、三角形、正方形、六角形を基本とし、白色、青色、黒色を混ぜ合わせている。

成熟した建築
Manteseのエミール国のバラトに、1404年に遡るイルヤス・ベイ・ジャミは立っている。そのモスクの調和がとれた形態は、オスマン朝の建築によって完遂された進歩を例証している;非常に明瞭なそのプラン、そして、一貫性のあるボリュームは、意図的な古典主義の産物である。その落ち着いた八角形の基壇の上の半球状のドームと、ポータルの3つのベイの上の大アーチは、成熟に関する更なる徴候である。

ウル・ジャミ
マニサの大モスクは、サルハンSaruhan朝のイシャク・ベイの治下の1366年に建てられた。中庭の柱廊は、一段高いアーチを載せた古代のコラムを利用している;繋ぎ梁は、構造的な一体感を増している。

モジュール式の構成
ウル・ジャミは、注意深く構成され、統一された計画に基づいている。中庭と礼拝堂は、28のユニット(4×7)に分割された、相等しい空間を対象としている。光井の表面積は、ミフラーブの前にあるドーム型のバルダッキーノ(飾り天蓋:訳注)のそれと一致している。水平軸にある長方形の部屋に聳えるこの大ドームは、この形式のオスマン朝の建築(エディルネと他の場所のユチ・シェレフェリ・ジャミで繰り返される)の最初の例である。



控えめなドームが架けられた建物
イズニークのイェシル・ジャミ或いは緑のモスク、非常にシンプルな建物は、1378年に遡る。そのモスクは、その名前を、ミナレットの胴体(そのギャラリーは、スタラクタイトの持出しによって支えられている)を飾る繊細な彩色されたタイルに負っている。

落ち着いたプラン
イズニークのイェシル・ジャミには、ポーチが前にある矩形の礼拝堂がある。そのドームは、トルコの襞によって、正方形の基壇と繋がっている。エントランスの三つのベイは、礼拝堂に開いている。

ぎこちない解決法
イズニークのイェシル・ジャミのエントランスのポルティコの三つのベイには、ポンテッドアーチがある;中央のアーチは、他のものより高く、広い。両側にある、大理石のクラウストラclaustraを持つ手すりは、見事な幾何学形を示している。エントランスは、力強いレリーフが彫刻されたスタラクタイトで縁取りされている。全体の構成は、幾分ぎこちなさを残している;枠取りされた入口とコラム(再利用された古代のもの)の並列は、結局のところ、説得力がない。

ムカルナスの列
ブルサでのウル・ジャミ(大きいモスク)につながる門は、半円ドームを形成する美しい石工のスタラクタイトで飾られている。

伝統と革命
ブルサのウル・ジャミは、1396年に遡る。多柱式の礼拝堂の、大きなポインテッドアーチを持つ正方形の柱は、ドームを載せている。その中央の光井は、セルジュークの伝統に一致している。しかし、そのドームの列は、新しいオスマン朝の様式を予示している。

二つドームのホール
ブルサのユルドゥルム・バイェジト・ジャミの2つの異なるドームの景。それらの下の内部空間、様式的にはバシリカ式である。初期のオスマン朝の建築は、アラブの礼拝堂で伝統的な長方形の形態を、殆ど採用しなかった。

様式の発見
エントランス・ポルティコは、5つのドームによって屋根が架けられている。正方形のモジュールの繰返しによって与えられたリズムは、偏平アーチによって高められている。このデザインのポーチは、内部空間と外部空間の遷移部として発展し、同じくビザンチン建築の特徴である。

様式の探求
1389年と1402年の間に建てられた、ユルドゥルム・バイェジト・ジャミの一風変わったシルエットは、ヴェスタビュールと異なる大きさの二つのドームが傍らにあるミナレットを示している。ドームの列の使用は、ビザンチンの伝統に由来する。

複合的アーティキュレーション
ブルサのユルドゥルム・バイェジト・モスクの内部構成は、2つのドームによって支配されている。小さなドームで屋根が架けられた「側廊」は、T型のプランを決定付けている。左にある、「側廊」と同様に、ミフラーブ (ミンバルだけがここで見える)を含む聖所は、僅かに持ち上げられている。大きなバスケット・アーチは、2つの内部空間の境界となっている;「側廊」へのアクセスは、ポインテッドアーチを経る。

モザイク装飾
ブルサのイェシル(緑)チュルベは、メフメト一世によって1421年に建てられた。多彩職の陶磁の装飾の使用は、ティムール朝の影響の示している。エントランス・ポータルの両側にには、釉薬がかけられた煉瓦で豊かに装飾された(花のモティーフが銘と交互になっている)、スタラクタイトのニッチがある。

八角形の霊廟
イェシル・チュルベは、セルジュークの伝統的な塔墓である。突き出したポータルを持つ、それは、八角形の平面形である。

トルコ襞
建築家は、エントランス・ポータルのコーナーにトルコ襞を仕様している。この装置(トルコへが起源)は、直角から円への推移を可能とし、ペンデンティブとスキンチを必要でなくした。ここで、それらの襞は、スタラクタイトの上で見られる。

皇帝の特別席の壮麗さ
ビザンチンの教会には、バシレウス(皇帝) のためのロッギエloggie(特別席:訳注)があった;オスマン朝のスルタンのモスクは、スルタンのための贅沢な特別席を持っていた。ブルサのイェシル・ジャミ(緑のモスク)の建設は、1419年に始まった。それは、メフメト一世の為に建てられ、タイルと金のモザイク細工で完全に覆われてた特別席を収容した。風変わりなスタラクタイトのフリーズは、壁と天井の接合を示している。

緑のモスクの内部
ブルサのイェシル・ジャミ (1419) の最初のドームの景;ドーム(古典的手法でオクルスで明かりが採られている)の基部のトルコ襞に注目。

空間的実験
緑のモスク(イェシル・ジャミ)の縦方向の断面図と平面図。側廊(同じようにドームで屋根が架けられた)に沿った二つの一列に並んだドームによって形成されたT型は、まだそれ自身のアイデンティティーを求めていた早期のオスマン朝の建築を示している。屋根の形態の多様性は、さらなる、この証である。

厳格なデザイン
ブルサで1426年に建てられた、造られたムラト・パシャ・ジャミの奥廊。ここでの、様式の探求は、素晴らしい量隗の一体感を持ち、非常に厳密な対称性を備えた建物を生み出した。その礼拝堂は、立方形で、その半球状のドームは、八角形のドラムに座し、そしてその構成は、二つのミナレットで形作られている。

ムラディイェの内部
ムラト・パシャのモスクの横断景(一つの側廊からもう一方の側廊まで)。非常に個性的な空間は、二つの一列に並んだドーム、偏平アーチ、そして部分的に持ち上げられた床によって造られている。その風変わりなペンデンティブは、ムカルナスと星型のチーフで覆われている。

多彩色の天井
多彩色の格子天井は、ブルサのムラディイェのポーチの幾何学模様の多彩色のタイルと結合している。六角形のモチーフの配置は、コーナーのスタラクタイトによって分断されている。

オスマン王朝の墓
ブルサのムラディイェ周辺のいくつかの墓建築は、四角形で、いくつかは八角形である;全てが、ドラムに載せられたドームで屋根が葺かれている。左に、ムラト二世の複合体;右に、王子アフメトの霊廟。

墓の周囲の回廊
1451年に建てられたムラト二世の墓の内景。スルタンの記念碑は、ドーム (コラムとコーナー柱によって支えられている) の下にある。八角形のドラムは、小さなスタラクタイト・スキンチによって可能にされている。その回廊は、儀式的な周回の慣習を促した。

独創的なデザイン
イスタンブールの北西のエディルネの、ユチ・シェレフェリ・ジャミは、1437-1447年にムラト二世によって建てられた。礼拝堂の全体平面図と断面図は、紛れもない建築の研究室であることを示している。長方形の中庭を形成するポルティコ(柱廊)には、異分子から成るヴォールトがある:様々な直径のドーム、交差リブ、楕円形のドーム。エントランス側の、中庭には、八つのコラムがある;礼拝堂側には六つ。そのホールそのものは、長方形であり、両側に二つのより小さなドームを持つ、巨大な中央の六角形のよりなる。大きな内部のアーチは、力強い六角形のピアから突き出している。

複合的統一
エディルネのユチ・シェレフェリ・ジャミの屋根の景は、屋根葺きの手法を明瞭に示している。右には、大ドームがあり、左には、傘形ヴォールトの一つがある。それらの間の、三角形の構造体は、偏平アーチ(六角形のピアから突き出した)によって造られている。

ユチ・シェレフェリの内部
ユチ・シェレフェリ・ジャミの中の、直径25mの大ドームによって造られた空間は、暗く、抑圧的であることを、露呈する。ハイレッティンとシナン以前には、単独のつのドームの下に天井の高い空間を造ることは、不可能なように思われた。

渦巻状に装飾されたミナレットの下に
そのドームとヴォールトは均一ではないけれども、エディルネのユチ・シェレフェリ・ジャミの中庭は、この実験的な建物で最も成功したエレメントである。それは、すべての最上のオスマン朝の建築の特性(軽やかで、風通しが良く、優雅な)を示している。

ビザンチンのアトリウムの末裔
赤色と白色が交互になった迫石と、非常に細長い一枚岩のコラムは、ユチ・シェレフェリ・ジャミの中庭に与えている。それらのドラム上のドームは、柱廊の上でほとんど、見えない。

古典的オスマン朝の装飾の登場
エディルネのユチ・シェレフェリ・ジャミの礼拝堂への扉の上にあるスタラクタイト・ニッチ。型どられた平らな表面の中に入れられた、深く彫られたエレメントのその結合において、それは、オスマン朝芸術の円熟を示している。

際立った成果
エディルネのスルタン・バヤジド二世(1481-1512) によって1484-1488年に建設された巨大なキュッリイェは、正統なオスマン朝の芸術の最初の傑作と評されるかもしれない。建築家ハイレッティンに設計された、その複合体は、モスク、病院、精神病の保護施設、薬の学校、大衆食堂、パン屋、そして一組のマドラスを備えている。そのデザインは、高く聳えるミナレットの垂直性と、チムニーを従えたドームの列の様な複合体全体で繰り返される形式とがコントラストを成し、美的特質のエレメントに関する厳格な概念と完全に結合している。

バヤジド二世のキュッリイェ
15世紀末に建てられた、その複合建築には、物質的、精神的関連施設が集められている。

1. モスク
2. 病院と精神病の保護施設
3. 薬の学校
4. 大衆食堂とパン焼き場
5. マドラサと図書館
下:
精神病の保護施設(そこでは、水治療法と音楽による処置が行われた)の縦方向の断面図。
バヤジドの複合体の相対的な対照性の欠如は、イスタンブールのファティハ・キュッリイェの厳格な構成と対称的である。

デザインの明快さ
エディルネのバヤジド二世のキュッリイェのモスクの中庭の横断景。主軸上のコラムの配置は、エディルネとイスタンブール双方での、建築家配置の作品の特徴である。

威厳と節度
エディルネのバヤジド二世のモスクの中庭の主軸の景。そのドームは、(その建物の完璧な対称を強調する) 二つのミナレットに挟まれた立方形の基部に載っている。ポルティコの小さなドームを載せた幅広のアーケードは、対照的に、細長い一枚岩のコラムに載っている。

シンプルな優雅さ
エディルネのバヤジド二世のモスクの中庭への横のエントランスは、直接、中央の(儀式的沐浴のために使われる)泉に通じている。出入口のまぐさは、明色と暗色が交互になった石材の真束迫石を持つ偏平アーチを持っている。

聖別された空間の統一性
エディルネのバヤジド二世のモスクの礼拝堂は、大空間の統一性を示している 。その壁にあるたくさんの窓は、均一な明るさを生み出している。巨大なペンデンティブは、(20箇所の窓によって明かりが採られたドラムに載る、直径23mの)単独のドームの基部を支えている。中央に、ミフラーブ;その左に、ディッカ;その右に、ミンバル。

感嘆すべき考案のデザイン
六角形のプランを基本とした、その精神病の保護施設は、熱処置ができるように設計されており、建築家ハイレッティンに、彼の形態とボリュームに対する彼の技能を発揮させた。優雅な光塔を持つ中央ドームは、一連の12のより小さなドームで囲まれている。その屋根は、木造屋根に鉛板が葺かれている。屋根の姿は、チムニーの優雅な垂直性によって完結されている。

イスタンブールのバヤジド・ジャミ
1501年と1506年の間に、スルタン・バヤジド二世によって建てられたイスタンブールのバヤジド・ジャミの縦方向の断面図と平面図。正方形の中庭(7×7のドーム) は、礼拝堂のエリアに正確に符合している。後者は、二つの半円のドームによって補強された単独の中央のドームからなる;その側廊のそれぞれは四つの小さなドームの列からなる。ハイレッティンの建物は、トラレスのアンテミオスとミレトスのイスドルスにによって1000年前に設計されたアヤ・ソフィアに明らかに感化されている。ハイレッティンのアヤ・ソフィアに対する引例は、シナンの作品で継続された。

サディルヴァン
イスタンブールのバヤジド・ジャミの中庭の中心に、(8つのコラム(古代にスポリアのように思われる)に載ったキオスクに保護された)儀式の為の泉がある。

アーチとドーム
イスタンブールのバヤジド・ジャミの建設は、1501年に始まった。
中央:滑らかなペンデンティブに載り、それぞれの面のティンパヌムに支持された、メインドーム。
左:補強半円ドームの一対の一つ。
右:側廊の小さなドームの一つ。
この配置は、より広く、さらに複合的なスレイマニイェで、シナンに継承された。

TURKEY

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