第6章 図画解説


ステンドグラスのきらびやかな色彩
ボスフォラス海峡のイスタンブールの対岸のユスキュファルに、シナンは王女ミフリマの名前を持つ初期のモスクを建てた。その華麗なステンドグラス窓は、漆喰で枠が作られている。

貢ぎ金
スルタン・ムラト三世(1574-1595)のヒュネルナメからのこの細密画は、非統治者から金の貢物を受け取るスルタン・メフメトを示している。1584年にオスマンによって描かれた、この最高の作品は、三つのレベルで構成されている。最下部では、黄金が集められ、中央では、それが、スルタンの前に預けられ、そして、最上部では、儀礼用のテントに座った支配者自身が、その現場を見渡している。
(イスタンブールのトプカプ・サラユ博物館の図書館)

ソコール・メフメト・パシャ・ジャミ
1570年にイスタンブールで大宰相メフメト・パシャ・ソコールによって建てられた、モスクの縦断面図と平面図。エントランスから、左の、中庭は地下道によって到達する。
モスク自身は四つの巨大な側面のスキンチを持つ六角形のドームを持ち、ミフリマの様に支えのない状態で、急上昇している。

中庭とキオスク
イスタンブールのソコール。メフメト・パシャ・ジャミの中庭に現れた訪問者は、柱廊枠取りされた空間、その中央にあるサディルヴァン・キオスク、そしてその上に聳える礼拝堂に気づく。

陶磁貼りの壁装
ソコール・メフメト・パシャ・ジャミの内部空間は、鮮やかな色彩のイズニークタイル貼りの壁装(古典的なトルコのモティーフを示している)で装飾される。

華麗なポーチ
その小ささにもかかわらず、イスタンブールのソコール・メフメト・パシャ・ジャミは豪華に飾られている。そのエントランスは、銘とスタラクタイト・ニッチを兼ね備えている;そのドームは、ムカルナ・ペンデンティブに載っており、多彩色のタイル張りで覆われている。

多彩色の礼拝堂
イスタンブールのソコール・メフメト・パシャ・ジャミの長方形のスペースには、例外的な特徴がある:質素なミフラーブと石のミンバルを持つそのキブラ壁は、多彩色の壁装を持っている(ドームを支えているスキンチがそうである様に)。窓は、その壁の上の部分に入れられている。通常女性のために用意された、側面の回廊は、中央の空間を明確にしている。

伝統的なブーケ
菊、カーネーション、そしてヤグルマギクは、1570-1572年に遡る、イスタンブールのソコール・メフメト・パシャ・ジャミの精妙なタイル壁装に特有のモチーフである。

空間の考案
(セリム二世の宮廷で政権を掌握した) 大宰相ソコールのモスク。そのモスクは、シナンの六角形のプランの探求に於ける見せ場となっている;統一された内部空間は、形態の完璧なバランス(そこから推力と重量に関する全ての心配事が払いのけられている) によって獲得されている。

末期の試み
オスマン朝の宰相とパシャたちのモスクは、(彼の人生の末期に)シナンに、試みに対するほとんど無限の可能性を提供した。80歳代の建築家は、彼の言語の開拓を進め、彼の形式にこだわる才芸を研ぎ続けた。1577年に設計されたアザプカプ・ジャミにおいて、シナンは、八角形のプランに戻った。彼は、二重のシェル構造を使うことによって、そうして、エディルネのセリミイェのそれらのように横面の通路を建設することによって、ドームを補強しようとした。

八角堂の典型
エディルネのセリミイェの建設は、1567年に始まったが、1574年までそれは、終わらなかった。それにおいて、シナンは、彼の技術を完全にし、オスマン朝芸術最大の傑作を創作した。その四つのミナレットは、82mの高さである。

半球と円筒
エディルネのセリミイェの溝付きのミナレット(スタラクタイトの持出しの上に繊細なギャラリーがある)は、ドームの頂部の金めっきした銅のフィニアル(先端装飾/訳注)を見張っている。

統一性の探求
エディルネのセリミイェの縦断面図。シナンは、巨大な中央ドームの下に、素晴らしい空間的密度を持つ均質の礼拝堂を創った。

空間の熟知
セリミイェで、シナンは、彼の大望の全てを達成した。その集中式プランを持つドームが架けられた礼拝堂は、アヤ・ソフィアの建築に、何ものも負っていない。ドームの内径は、31.5mで、その最高点は、床上で44mである。それは、そうして、アヤ・ソフィアのそれより僅かに大きい。その大きさより更に意義あることは、それが造り出す空間の一体感である。

エディルネのセリミイェとそのキュッリイェ
エディルネのセリム二世の設立物の平面図。中央の、セリミイェとして知られているモスクと中庭;長方形の中庭と礼拝堂は、面積が同じである。八角形の礼拝堂は、四つのミナレットによって補強された66m×50mの建物によって形成されている。右には、二つの中庭型マドラサがる ;平面図の下には、シナンの弟子、ダーウド・アーによって1580年頃に建てられた市場がある。

バランスのとれた完璧な構造
エディルネのセリミイェのドームは、建物の四つのコーナーにあるミナレットに囲まれている。八つのコーナー・ピアは、中央のドームの構造を決定している。二つの異なるレベルのファサードでは、ティンパヌムとスキンチが交互する。

流れ落ちる様な形態
シナンの建築の特性の中に、主たるドームの推力を抑える為の、ドームのカスケードとフライング・バットレスの使用がある。ここでは、連続する構造上のエレメントが、結果的にセリミイェのドームとなっている。

応用された技術
シナンによって実践された、「二重のシェル」補強の技術は、セリミイェの燦然と輝く応用例を見いだしている。このように、八角形のコーナーのうちの1つに置かれた内部のピア(左)は、巨大なフライング・バットレスによって補強されている。この機能は、そのヴォールト下を走る側面のギャラリーと通路に隠されている。

花と蔓葉
イスタンブールのソコール・メフメト・パシャ・ジャミでの様に、エディルネのセリミイェは、絡み合わされた花のモチーフが拡散する美しい壁装を誇っている。

律動的なコントラスト
エディルネのセリミイェの後部ファサードで、シナンは、アーケードの為のデザインとして、交互になった厚さのフライング・バットレスを模した。そのファサードの狭い方のアーチは、このように、ポルティコ(柱廊)の広いアーチと対照的である。狭めのアーチと一対のコラムは、弾力あるリズムを生み出している。

安定感のある中庭
中庭のポルティコ(柱廊)の広いアーチは、コラムの細長さによって更に強調された古典的な安定感を示している。

彫刻のディテール
エディルネのセリミイェの中心部は、ムカルナの様々なテーマを演出している;精密な彫刻の処理は、少なからぬ審美的影響を与えている。

交互になったアーチ
エディルネのセリミイェのメイン・エントランスは、後部のファサードの対のコラムと短いめのアーチに戻る。短いめのアーチの四心の輪郭と広めのアーチの高さを示す白色大理石のディスク(円盤)の使用に注目。エントランスを形取る組コラムは、ソロモンの神殿との象徴的な関係を持っている。前景は、サディルヴァン。

フンドゥクル・ジャミ
この小さなモスクは、イスタンブールの、ボスフォラス海峡の端に立っている。間違いなくシナンに起因する、それは、1565年に遡り、集中式プランによって与えられた空間の可能性への建築家の探求の一環を成している。しかし、それはまた、シナンがその建設現場を自身で監督しなかったことを示唆する、ある種の不手際を露呈している。

外観を損なうデザイン
フンドゥクル・ジャミの現場監督の過失は、この写真に明瞭である:柱頭の欠落は、アーチとピアの接合部を醜くしている。

合成統一体
外側から見ると、フンドゥクル・ジャミは、それでもなお、完全にシナンの特徴であり、その属性を追認する、量感の調和のとれた構成を示している。

コンヤのセリミイェ
コンヤで、シナンはバシリカ式の礼拝堂を持つ美しいモスクを建てた。1566年と1574年の間に建設された、それは、ペンデンティブ上の大きなドームによって屋根が架けられている;半円形ドームの「アプス」が、ミフラーブを覆っている。側廊は、アーケードによって「身廊」と分離されている。

伝統的な構成
ミフラーブの端で半円形ドームによって補強された、正方形の礼拝堂は、シナンの現代的な試みに照らして見ると、退行的解決法である。

古典的装飾
コンヤのセリミイェにおいて、建物の外輪は、特徴的なシナン的な処理が施されている。ここのディテールは、イスタンブールのスレイマニイェのものに似ている。

調和がとれたエレヴェーション
コンヤのセリミイェのファサード(七つのアーチを形成する優雅なエントランス・ポルティコ(玄関廊)、その二つの質素なミナレット、そしてドームが被せられたその礼拝堂の立方形の外輪)は、新しく取り入れたものがない時の、シナンの明瞭さに対する願望を例証する。

アヤ・ソフィアとの類似
イスタンブールのクルチュ・アリ・パシャ・ジャミは、トプカプの反対側の、ガラタのトファネ地区で1582年に建てられた。それは、しばしばシナンに起因すると考えられが、ここでの建築的構成は、シナンによって彼の生涯の末期に行なわれた試みと完く対照的である。ティンパヌムと補強する半円形ドームを持つ、その建物は、明らかにアヤ・ソフィアの縮小版であり、従ってシナンの弟子のうちの一人に帰すべきである。

革新的というより伝統的
クルチュ・アリ・パシャ・ジャミのプランは、アヤ・ソフィアのビザンチン式バシリカによって直接的に、端を発したものである。それは、中央の区域を支える4本の大きな柱に支えられている ;そのドームは、広い半円形ドームによって補強されている。玄関廊は、広い突き出した軒で覆われている。

10の角のある星のモティーフ
イスタンブールのクルチュ・アリ・パシャ・ジャミの鎧戸のパネルのディテール。様々な十角形の図形と軽快な象眼細工は、明瞭な構成で一体化する。

ビザンチンのモデル
クルチュ・アリ・パシャ・ジャミの身廊の透視図。それは、即座にそのモデル、アヤ・ソフィアの縮小版を暗示する:側廊、側面の回廊、そしてペンデンティブ上のドームの下のティンパヌム。そのデザインは独創的ではないものの、その建物は、ディテールに対して最高の注意を払っている。

シェフザーデへのオマージュ
イスタンブールのイェニ・ヴァリデ・ジャミの立面図と平面図。建設は、1597年に始まったが、1663年まで終わらなかった;その建築家はシナンの弟子のダーウド・アーであった。中央のドームを補強する四つの半円形ドームに基づく、その集中式プランは、シナンの最初の傑作、シェフザーデのそれを再現している。シナンの言語は、尊重され、そして、デザインの垂直性は、この優れた建物に真の優雅さを与えている。

理想的な状況
それがモスクとして使用される様に変わった、1453年以降に、アヤ・ソフィアに加えられたミナレットのうちの一つの頂上から見る、トプカプ・サラユの複合体は、金角湾とボスフォラス海峡の間の岬の様に突き出している。

後期オスマン朝の建物
トプカプ・サラユの優雅な図書館は、アフメト三世によって1718年に建てられた。それは、古典オスマン朝建築の精妙さを物語っている。

宮殿の装飾
イスタンブールのトプカプ・サラユを有名にした、ある種のイズニークのタイル工芸のパネルの詳細。カーネーションと花輪は、ちょうど近隣のモスクでの様に、ハレムの壁上で繊細に織り合わされている。

高台のテラス
トプカプ・サラユの高台のテラスの上の、イブラヒム一世(1640-1648)によって建てられた、ブロンズと金めっきされた銅のバルダキーノ(飾り天蓋)は、屋外のレセプション(スルタンの友人と高い地位の客のみが出席することを許された)で中心的な位置を占めた。

ムラト四世のベルヴェデーレ(晴らし台)
1638年のトルコの軍事力によるバーダトの占領を記念する為に、スルタン・ムラト四世はバーダト・キョシュキュを建てた。この変則的な非対称の建設物は、オスマン朝のjoie de vivre(生の喜び)の優れた例である。そのキオスクは、庭の上にそれを持ち上げらる高い基壇の上に載せられ、その幅広のアーケードは、広く突き出した軒によって日陰を作っている。

トプカプ・サラユの平面図
歴代のスルタンによって作られた様々な増築部は、宮殿の複合体を、いくぶん無秩序な外観にした。

1.オルタ・カプ(中間門)
2. 厨房と離れ
3. 守衛の宿舎
4. ハレム、
5. バブ・ユス・サッデト(至福の門)
6. 王座の間
7. アフメト三世の図書館
8. 割礼のキオスク、
9. レヴァン・キョシュキュ
10.バーダト・キョシュキュ
11.ソファ・キョシュキュ

右:カラ・ムスタファ・パシャ・ソファのキョシュクの平面図、断面図、そして立面図。

「モダンな」キオスク
(ソファ・キョシュキュとも呼ばれるカラ・ムスタファ・パシャ・ソファのキョシュクの南と東のファサード;それは、その名前の大宰相によって彼が在任した期間(1634-1663)に建てられた。この非常に質素な建物の中のそのガラス窓の高い割合は、それに、18世紀の建物における、驚くべきモダニストの出現を認める。

その時代以前に
ソファ・キョシュキュの北のファサードは、ル・コルビジェやフランク・ロイド・ライトによる建物より200年も早い繊細な構成とすらしとした「ピロティ」を示している。

TURKEY

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