第7章 図画解説


オスマン朝の装飾の拡散
イズニーク・タイルは、オスマン帝国全体へのトルコの装飾モティーフと芸術の型の拡散の一因となった。これらのカーネーション、ヤグルマギク、蔓の葉、チューリップ、そして菊は、ほとんどオスマン朝の時代に建設された主要なモスクの殆ど全てで見られるようになった。
(私蔵)

神聖な祈り
セリム三世によって19世紀最初期に建てられた、ブルサでのエミール・スルタン・ジャミを飾る高度に様式化された文体のトルコの銘。その銘は、「アラーの他に神はなし、モハメッドは神の代弁者である。」と伝える。

青のモスク
メイダヌ(或いは馬術演技場広場)の端にある、スルタン・アフメト・ジャミは、礼拝堂と柱廊のある中庭を構成する六つのミナレットを、立てている(向こう側はボスフォラス海峡)。1609年と1617年の間に立てられた、そのモスクは、シナンのシェフザーデとダーウード・アーのイェニ・ヴァリデ・ジャミのプランへの回帰を示している。前景の右は、スルタン・アフメトのキュッリイェのマドラサ。

青のモスクのポルティコ(柱廊)
イスタンブールのスルタン・アフメト・ジャミのプロポーション(長さ110m、幅64mの大きさ)は、それをオスマン朝時代のモニュメンタルの1つにしている。中庭のエントランスの側面に位置する二つのミナレットは、二つだけ、ギャラリーを持っている;他の四つは、各々が三つ持っている。

モニュメンタルなファサード
イスタンブールのスルタン・アフメト・ジャミの中庭に入る訪問者は、メフメト・アーの建物の印象的なファサードに出迎えられる。柱廊のリズムとドームのますます巨大になったスケール(全体がミナレットによって枠取りされた)は、恐ろしいほどの建築的偉業を構成する。

青のモスクの内部
イスタンブールのスルタン・アフメト・ジャミは、その名「青のモスク」を、礼拝堂の壁とアーチを飾る二万枚以上の陶磁のタイルに負っている。そのモスクは、基本の中央のドームを補強する四つの半円形のドームを有する古典的なパターンへの回帰を示している。後者は、いくぶん不格好な、うずくまった形をした四つの巨大な円筒状のピアの上に載っている。

実用的な建物
オスマン族は、(中継基地を提供し、戦略的街道を整備するためのキャラバンサライの建設に関する)セルジュークのスルタン達の事業を継承した。アナトリアの中心部にある、カッパドキアのインジェスにある、このキャラバンサライは、1660-1680年に建てられた;それには、冬のホールの前に、広い柱廊のある中庭を持つ。

インジェスの柱廊
そのアーケードのポインテッドアーチと幅広の交差リブ・ヴォールトは、特に、セルジュークの建設物の優雅さに欠けている。

強靱な構造体
インジェスのオスマン朝のキャラバンサライの冬のホールは、紛れもない大聖堂である(交差する横断リブでヴォールトが架けられたアーケードを載せた頑丈な柱を持つ)。鉄製のタイロッドは、矩形の飾りのない柱を連結している。壁にもたれる、個々が使用するためのフード付きの暖炉には、それぞれの煙突がある。

アブラク装飾
17世紀の玄武岩で建てられた、ディヤルバクルのデリッレル・ハヌの壁を飾る交互になった暗色と明色の石材(アブラク細工)は、アイユーブ朝とマムルーク朝の影響を露にする。

シリアのオスマン朝のキャラバンサライ
アブラク装飾の尚良い例を示すヴォールトの下の中庭の周囲に配された二層の部屋を持つ、デリッレル・ハヌは、近隣のシリアの影響を反映している。その復元作業は、新たな明瞭さを、注目すべき装飾に与えた。

アララト山の裾野で
アナトリアの遠東にある、ドーウバヤズトの近くの、トルコとイランの間の戦略的通路を支配していた、イシャク・パシャ・サラユ(宮殿)は、クルドの王子によって建てられ、18世紀末を端緒とする。その二重のカーテンウォールの内部に、その宮殿自身とモスクとミナレットが立っている。

影響の融合
イシャク・パシャ・サラユでは、ペルシャと東アナトリアの様式が収束している。その屋根を失った宮殿のホールの背後に、モスクのドラムとドームが立っている。ミナレットのアブラク細工は、この複合体の様式的折衷主義の更なる証である。

装飾のディテール
ドーウバヤズトの近くのイシャク・パシャの宮殿の、オスマン朝様式のスタラクタイトの柱頭は、花飾りの迫石と彫刻された凸状のモールディングが結合されている。

様式のコラージュ
ムカルナスの柱頭を持つ八角形のコラム、僅かに尖ったアーチ、壁に沿って走る潰し半円形アーケード、窓の長方形の枠、そして幾何学模様のアブラクのモザイクのある高い柱脚、全てが素晴らしく様式化されたイシャク・パシャ・サラユのレパートリーの一部を形成している。それは、1784年頃に完成した。


装飾のテーマの多様性
或る装飾様式の特徴が、ドーウバヤズトの近くの、イシャク・パシャ・サラユのレリーフに現れる;それらは、アルメニアの装飾技術を思い起こさせる。花のモチーフ、蔓の葉、そしてカンタロス(高脚杯)から伸びる葡萄は、長期にわたる象徴的伝統に由来する。

想起(レミニセンス)と過去の遺物(アナクロニズム)
17世紀末の、イシャク・パシャ・サラユの門は、セルジュークの慣用法のエレメント(ペルシア様式のピシタクのアーチの下にスタラクタイトのニッチを持つ)を示している ;ここの、凸状のモールディングは、石材であるが、一方で、ペルシアでは、それは、煉瓦であった思われる。

様々なアーチ
スキンチに支持されたドームの下の、(宮殿そのものの様な)イシャク・パシャ・サラユのモスクの礼拝堂は、尖った半円形のアーチを特徴とする。君主らしい支配者の特別席は、柱廊の5つのベイの後ろに立っていたと、思われる。ドーウバヤズトの支配者は、独立を存分に謳歌したようである。

多柱式のホール
風変わりな多柱式のホールは、イシャク・パシャ・サラユのモスクそのものの隣に立っている。それには、九つのヴォールトがあり、ドームは、細長いコラムの上に置かれた。

オスマン朝の総督の本拠地
シリアのハマーのアゼム宮殿は、アサド・エル・アゼム(1749年までハマーの傑出したワリ(総督))の本拠地であった。その一段高くなったテラスは、アシ川(古代のオロンテス川)を見下ろす。この気品のある住居の様式は、オスマン朝、アイユーブ朝、そしてマムルーク朝の非常に独創的な統合体である。

富と名声
ハマーのアゼム宮殿のレセプションルームに導く柱廊の装飾は、モザイク床、交互になった迫石、そしてアブラク細工、を組み合わせている(この半私的、半公的な建物の格調の高さを強調する)。

装飾の豊かさ
ハマーのアゼム宮殿は、18世紀の前半に遡り、イスラーム世界に特有の贅沢さを示している:大理石化粧張りされた多彩色の壁、金めっきされた木製家具、スタラクタイトのペンデンティブの上のドーム、そしてレセプションルームの三つのイワーンの間のざわめく泉。

象徴的な壮麗さ
ワリ(総督)は、(スタラクタイトのペンデンティブは、オクルス(円窓)とドラムに差し込む20箇所の光によって照らされた)ドームの下で来客を歓待した。その壮麗な部屋は、1982年のハマーの反乱の間に破壊された ;崩壊した覆いの復元計画は、首尾よく進められている。

ダマスカスのアゼム宮殿
ハマーのワリは、1749年に、ダマスカスの総督に任命された時に、アサド・パシャ・エル・アゼムという称号を得、彼の新し地位に相応しいより大きなスケールで、ダマスカスにの新しいアゼム宮殿を建てた。ハレムルク或いは邸宅のプライベートな部分は、壮大なスケール(それにもかかわらず親密さを保っている)で建てられた。

花の装飾
ダマスカスのアゼム宮殿の真塚迫石を装飾する精密な多彩色の象眼細工。

魅力的な対称性
アゼム宮殿(1749)の建築は、オスマン朝の形態と技術に関して、かなりの自由奔放さを示している。その建物は、イスタンブールの宮殿のキオスクより更に明白に印象的であるけれども、それは、ある種の簡素さを保っている。

スパンドレルの透かし細工
ダマスカスのアゼム宮殿(1749)の柱廊は、細長いコラム、多彩色のアーケードを示している。オスマン朝の斑岩円環の代わりに、オクルス(円窓)のように少し波形に仕上げられたベイが、スパンドレルの中に入れられている。

豪華な Calme et Volupte
ダマスカスのアゼム宮殿へのエントランスの訪問者を迎えるプールに映し出された、柱廊は、18世紀中頃のこのトルコ-アラビア様式の邸宅に、幻想的な雰囲気を醸し出している。

水の迷路
それらの泉は、水の音楽を用意している。イスラーム世界の、小川の流れ、泉のざわめき、そして静かな水の鏡面は、贅沢さを特徴づけている。

レバノンの宮殿
エミール・バシル二世(1810年から1840年まで、オスマン族の為にレバノンを統治したドルーズ派の者) の夏の別荘、ベイト・エッディンは、ダマスカスの宮殿の伝統に属している。丘の側面に位置する、それは、巨大な中庭(その二層の柱廊は際立って優雅である)の周囲に構成されている。

ベイト・エッディンのディヴァン
そのレセプションホールは、エミールが座るであろう、一種のガラスが嵌められたベランダの両側の幅広のディヴァン(長椅子)を特徴とする。そのディヴァンは、オスマン朝の伝統において、統治の座席である:それは、スルタン或いは彼の代理人のものである。

トルコ式「バロック様式」
西洋の影響が、18世紀の末頃に、オスマン朝の様式に浸透し始めた。1823 年に造られたイスタンブールのトファネ地区のヌスレティイェ・ジャミは、トルコの芸術に於けるヨーロッパの影響のネオ‐バロック様式の特徴を例示する。

西洋のヴォキャブラリー
後期のオスマン朝のモスクの構造は、西洋のバロック様式の特性を表していが、本質的なエレメント(ミフラーブとミンバル)は、イスタンブールのヌスレティイェ・ジャミでは保持されている。

ドーム架かった礼拝堂
そのバロック様式の装飾にもかかわらず、イスタンブールのヌスレティイェ・ジャミ(1823)は、滑らかなペンデンティブとティンパヌムによって支えられた大ドームの伝統を継承している。後期オスマン朝の建築は、バロック様式の曲げられた壁面の強調に、ほとんど影響を受けていない。

流行のプラン
オスマン三世によって18世紀半ばに建てられたイスタンブールのヌルオスマニイェ・ジャミのレイアウトは、礼拝堂の長方形のプランと対称的な半円の中庭を有している。この中庭は、トルコの建築家によってその当時使われたバロック様式を反映している。

花の魅力
第16世紀のオスマン朝のタイルは、植物のモチーフの尽きることのない豊富さを示し、モスクをパラダイスの庭に変えている。

花の言語
オスマン朝の時代は、多種多様な装飾のエレメントを生み出した(それらのうちのいくつかはペルシアから借りもの) 。イズニークのタイルは、これらのうちで最も完成度の高いものの内にある。菊モチーフを持つこのタイルが張られたパネルは、オスマン朝の花のレパートリーの全てのエレメントを結集している。

スレイマンの生涯
トプカプ・サラユの最も有名な写本の中に、スレイマンナマ(スレイマンの本(その5巻が1558年に完成された )がある。スルタンの歓迎会、軍事行動そして活躍を、余すことなく詳細に、記録している。ティムール朝の様式から部分的に得られた細密画美術は、我々に16世紀半ばの宮廷の儀典の見識を与えてくれる。
(イスタンブールのトプカプ・サラユの図書館)

預言者のイメージ
イスラム教の禁制を無視した、シヤル・イ・ナビの連作は、預言者の生涯の中の重要な場面を描写する。その連作は、6巻からなり、ムラト三世の治世の間に完成された 。この細密画において、モハメッドの体は、金の炎に包まれ、彼の顔は、マスクによって隠されている。彼の妻、ファーティマは、同じように表されている。
(イスタンブールのトプカプ・サラユ博物館の図書館)

宮廷の音楽と舞踏
スレイマンナマ(1558)は、スルタンによって開催された饗宴を描写する:音楽隊と踊り子たちは、繁茂した装飾に囲まれて歓迎会を開催している。その表現の慣例は、ティムール朝の細密画に由来する。
(イスタンブールのトプカプ・サラユ博物館の図書館)

戦時のスレイマン
スレイマンナマからのこの場面は、ハンガリーのキリスト教の要塞の包囲の間の、野営地にいるサルタンを示している。スレイマンは、儀式用のテントの中で、彼の命令を軍隊へ伝える。一方で、城の兜を被った防御者は、攻撃の時を待っている。
(イスタンブールのトプカプ・サラユ博物館の図書館)

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