第1章 はじめに


中東でのトルコ族の拡張

イスラム建築は、地中海の他の領域と同様にトルコでも花開いた。セルジューク朝とオスマン朝のスルタンの治世に、学校(マドラサの様な)、モスク(ジャミ)、浴場 (ハンマーム) 、キャラバンサライ(khan(ハン)、または、ハーン)、墓(テュルベ)、そして宮殿が、小アジアの至る所で作られた(続いてヨーロッパ圏のトルコとイスタンブールにおいて)。それらの中には、多くの傑作があった。13世紀から19世紀にかけてのトルコ建築の開花は、イスラム芸術の頂点の1つを表している。

トルコ族は、ローマ、ギリシア、そしてビザンチンの文明の足跡を辿って行った。彼らは、アナトリアに紀元7世紀に到達した(その前に古代世界で確立された秩序が一掃された中央アジアからの侵入のピークの最後)。


トルコ族の起源

一般的に、遊牧民のトルコ人の種族は、アルタイ山脈の森林で発したと考えられている(そこでは、シベリア、モンゴル、そして中国の境界が交わっている)。それらは、フン族、モンゴル族、ウィグル族、オグズ族、そして中国名で今日知られている他のチュルクの民族と関係があった :匈奴、丁零、その他。中央アジアの非常に大きな平原を渡る移動生活によって、彼らは、太平洋と西欧の間の重要な連結を築き上げた。

この民族集団の全ての種族が、頻繁に行軍した。彼らは、崩壊していく帝国に侵入した。彼らは、万里の長城を越えた;彼らは、ライン川とドナウ川に沿ってローマのリメス(国境)に侵入した。征服がその動機ではなかった場合、干ばつ或いは気候変化に起因する飢饉が、たまに、彼らに、定住性の民族の穀物倉と飼い葉を略奪するように仕向けた。

552年までに、チュルクの種族は、大草原の巨大な帝国の主人となった。彼らの軍隊の優れた能力は、広範囲に渡る征服をもたらした(特にトランソクシアナのそれ)、そしてそこで彼らはササン朝ペルシャと衝突した。彼らは、アラル海とカスピ海への入り口を支配した。いくつかの種族は、ビザンチンと衝突し、他の者たちは、アラブの拡張の波と衝突した (751年のタラスでの中国軍の敗北に帰着した)。

最も優れたトルコ族の兵士たちは、この時点で、イランのサーマーン朝とバグダードのアッバース朝の軍隊の兵役奴隷として入隊した。彼らは、一斉にイスラム教スンニ派に改宗し、(8世紀から9世紀に北アフリカからインドの入り口まで広がる隆盛を究めた帝国を造った)発展中のアラブの文化と実り多い接触をもった。

962年に、サーマーン朝の軍隊のマムルークは、権力を奪取し、ヤクサルテス川(現代のシルダリヤ川)沿いにガズナ朝の王国を設立した。ティグリル・ベグ(1038-1063)は、それを越え、権力を掌握し(セルジューク・スルタン国を建設する) 。最初に、その首都ガズニーを占領した彼は、ペルシャを征服し、1051年に首都をイスファハンへ移した。そこで、彼は、シーア派と紛争中のカリフ国と同盟を結んだ。「カリフ国の保護者」と名乗った彼は、1055年にバグダッド駐屯軍を据えた。アッバース朝最後の代表たちは、そうして、気がつくと彼らの「近衛兵の番人」の奴隷となっていた。

アルプアルスラーンはスルタンとしてトゥグリル・ベグ(1063-1073)の後を継いだ ;彼の支配の下で、アレッポが獲得され、アルメニアは征服され、ローマ皇帝のディオゲネス四世の下のビザンティンに対する決定的な勝利は、アナトリア高原でのマンジケルトで、1071年に得られた。この戦いは、小アジアのトルコの支配に対する抵抗に決着をつけた。それ以降、部族の侵攻は、地中海、エーゲ海、マルマラ海、そして黒海まで外へ広がる、国土全体を占めた。アルプアルスラーンにとって、三面で海に隣接するこの巨大な領土は、一種のフィニス・テッラエ(finis terrae)、世界の端であった。征服の連続する波が古代世界の大文明の幾つか(ヒッタイト、ダリウスとクセルクセスに率いられたペルシャ、アレクサンダーによるギリシア、ポンペイウスとトラヤヌスによるローマ、ヘラクリウスによるビザンティン、ホスローによるササン朝、ムーアウィアによるウマイア朝、そしてその他諸々)を発足したここに、トルコ人は、定住し、家を構えた。

このトルコ族の「国家」の分枝は、ルーム・セルジューク帝国(1073-1308)を形成した。ルミ(ローマ人) から派生した、ルームという言葉は、彼らをペルシアで設立されたトルコ(大セルジューク)と区別した ;それはまた、コンスタンティノープルの権威が、現在もトルコの権威に組み込まれていることを示していた。最も活動的なトルコの種族の一つ、オスマンリ或いはオスマン、が中世・近世のトルコを建設した、15世紀に、この権力はさらに遠くまで及んでいった(彼らの帝国は近東を抜け東欧と北アフリカ(エジプトから大西洋まで)に拡張した)。

ルーム・セルジュークの軍隊がアナトリアの沿岸を占領している間に、他のトルコ人の軍隊は、彼らの征服地を拡張していた。マリク・シャー(在位1073-1092)の下で、彼らは、トランソクシアナ、キルマンそしてシリアを獲り、ダマスカスと、エルサレムの町を占領した。聖都の占領は、ヨーロッパ全体に大警告をもたらした ;セルジュークの侵入は、アラブとヨーロッパの王国の間の勢力の均衡を崩すものと見なされた。パレスチナのキリスト教の巡礼者にとっての脅威につながる、聖地への道程が切断されることを憂慮した西欧諸国は、十字軍に参加するように国民に説いた。1095年に、ローマ法王ウルバン二世は、ゴルゴサ(キリスト受難の地)のあるエルサレムは、解放されなければならないと、宣言した。そうして、キリスト教徒の軍隊とセルジュークとアラブの部隊の間で、宣戦が、布告され、エルサレムのキリスト教徒の占領で終えられた。一方、その戦争は、アナトリアに伸び、そこでは、コンスタンティノープルのかなり勢力を弱めたバシレウス(統治者)、十字軍の領主、そしてアルメニア人は、セルジューク族ばかりでなく、新たなモンゴル族(多くのトルコ人の戦士を彼らの列に加えた)の侵入の波にも直面した。モンゴル遊牧民族によるこれらの侵入は、更に150年の間、断続的に続いた。13世紀半ばに、、モンゴル人はコンヤまで侵攻したが、その後撤退した(以前のビザンチンの領土の吸収を続けるセルジュークの平安を妨げることなく)。


トルコ族の「国家」の基礎

トルコの種族のコミュニティは、彼らの言語に基づいていた。それが属するウラル・アルタイ語族には、モンゴル語、フィンランド語、ハンガリー語、そして恐らく韓国語とアイヌ語(北部日本)が属す。それは、膠着言語であり、接尾部の使用によって機能し、僅か1つの語形変化と単独の活用よりなる。

最初期のトルコ語の文書文字は、 ソグディアナ語(ルーン文字とウィグル語の文字の組み合わせ) に由来した。しかし、彼らのイスラム教への改宗の後に、トルコ語はアラビア文字に変わった(それらが彼らの言語に適していないとしても)。ムスタファ・ケマル ( 後のアタチュルク) の支配下で、彼らがローマ文字を採用する、1928年までこの慣例は、続いた。当時のトルコ人の大部分の人々に関して言うと、この決定は、その過去から、彼らを取り返しのつかないほど分離した。過去のものから書き直すことのできない、多くの文章は、博学なもののみに利用可能であり、それらが、再び国家遺産の一部となろうとするには、学者たちの手を借りる必要がある。

トルコ人とペルシア人は、彼らがイスラム教に改宗したとき、コーランのアラビア語を採用しなかったという点では、例外的である。アラビア語は、エジプトと北アフリカ、パレスチナ、シリア、そしてメソポタミアの言語となった。アラビア語で、ある共通の文化の絆を挽いた、それらの国々とは異なり、トルコのスルタンは、彼らの母国語に忠実に残した。

トルコ人がそれらと共にアナトリアにもたらした文化は、遊牧もしくは半遊牧民の種族(羊飼いの経済に依存する熟練した戦士)のそれであった。彼らは、ユルトと呼ばれる感じられたテントに住み、彼らの家具は、薄く軽かった (主としてカーペット、垂下、クッション等から成る) 。シャーマン(宗教上の熟練した占いに携わった聖職者のゾロアスター教の神官) は、伝承的な知識の管理人であった。

彼らの遊牧の国で、トルコ人は、定住民族(彼らが追放し、襲撃と戦闘の間だけ遭遇した)の影響をほとんど感じなかった。それらが古代の文明の国に定住する以前には、彼らは、建築と芸術に関して、最も初歩的な観念しか持っていなかった。

第一1000年紀の長い移動の過程を通じて、トルコ人は、中国と接触した :最初は漢朝、それから 六朝(221-589) 、そして最後に隋朝(561-618) 。後の唐朝と宋朝との衝突ほど激しくないけれども、−その帝国の王位は、14世紀まで、チュルク語(系民族)のモンゴル人で、時折、占められていた−これらの対決は、非常に大きなタイムスパンを越えて起こり、中国の影響は、15世紀の東西チムール朝の文化において顕著に認められる。

更に西、トランソクシアナとホラーサーン(ペルシャ)での、9世紀と10世紀のトルコ人の征服(そして、その後の中東全体) は、セルジューク朝を広く様々な文化的傾向と伝統をもつ地域の中心に置いた。彼らは、ペルシア人、アラブ人、シリア人、アルメニア人、そしてビザンティン人と密接に接触した。
彼らは、これらの文化に頼り、巨大な知識の蓄積を作り出した。

ブハラ、サマルカンド、そしてイスファハンでの彼らの治世は、その結果として、建築芸術の空前の開花に特徴付けられた。屋根葺きと装飾の(尖りヴォールト、スキンチの上に搭載されたドーム、スタラクタイト工芸を持つイワーンの様な) 新しい技術が、認められた。そして、装飾芸術 (建築の石材工芸、陶器、書道、書籍、細密画)もまた、驚くべき進歩を遂げた。

ペルシアのセルジューク朝のスルタンは、モスクとコーランの学校の建設を促進したばかりではなく、概して芸術の気前の良い後援者であった。それらの支援は、詩人、画家、学者、天文学者、そして医者を引き付けた。時折、サルタンは、純真に国の芸術と文化の精鋭を宮廷に招集し、政府の更になる卓越した栄光のために仕えさえるために、彼らを召し抱えた。すばらしいニシャプールの陶器が証明するように、中国の影響は、セルジューク朝の陶芸家の間に取り込まれた。

ペルシアのセルジューク族の宮廷によって示された、文化的な意欲は、(もはや遊牧民ではない)その支配者による、アラブ−ペルシャ世界の知識の潮流の同化作用に起因した。サルタン ( そして、かなりの影響力を発揮した彼らの廷臣 ) は、絶対的権力を持っていた他の諸国によって提供された知的資源を利用した。

これのうちのいずれも、まだ他のセルジュークの種族 (アナトリアの征服を続けた ) には当てはまらなかった。これらの種族が都会生活に対するあらゆる適性を示すまでには、長い文化変容の時期があり、彼らが装飾芸術を正しく理解し、彼ら自身の様式を創造するまでにはさらに尚長い期間がかかった。第三次十字軍(1189-1192)の時期には、セルジュークのサルタンは、依然として、首都コンヤの都市壁の外のテントで夏期を過ごしたと言われている。

1071年まで、アナトリアへのトルコの侵入は、渦中にあった。アナトリアのセルジューク族の建築的芸術的開花が繰り広げられるまでに、1世紀と半が過ぎ去った。彼らの最初の関心事は、軍事であった ;彼らは、十字軍の形をとったキリスト教徒とビザンティンばかりではなく、イスラムのアイユーブ朝の軍隊の攻撃を撃退しなければならなかった。彼らはまた、ダーニシュメンド朝のような、ライバルであったトルコの一族の野望からも、領土を守らなければならなかった。

アナトリアの統一は、クルチ・アルスラン二世(1155-1192) の業績であった。1176年のミシオケファロンの戦いで、ビザンティンを打ち負かした後、彼は、注意をダーニシュメンド朝に向け、彼らを付け狙った。十字軍は、コンヤを1190年に包囲したが、その後、Keyh srev T(カイホスロウ一世?:訳注誤植?)(1192-1210)は、領域全体をセルジュークの手に戻した。

セルジューク族が、最初はビザンチンの芸術と建築的遺産を無視したであろうことは、幾分逆説的である。これらの前の遊牧民の建築技術は、主として北シリアとそしてアルメニアから学ばれた。アラブの再征服の後、アレッポの北の「死んだ」キリスト教徒の町になった場所に、無数の教会と修道院を造った、シリア人は、石材加工の名人であった。

アルメニア人は、すばらしい建築家と石切工であった。しかし、彼らの運命は、悲劇的なものであった。彼らの新しい首都、アニは、セルジューク族の手中に落ちる前にビザンティン人によって略奪された。彼らは、その後、南アナトリアに避難地を得ようとした。1080年に、バグラト朝の王子は、キリキアの山中に小アルメニア王国を建設した。これらの難民は、ラテン帝国の十字軍と同盟を結び、セルジュークのスルタンとも良好な関係を維持するように努めた。

イスラームの潮流に圧倒されたも同然の、2つのコミュニティからの熟練工芸工と建設工の集団は、このようにアナトリアのセルジュークのサルタンに仕えた。次の世紀の間、彼ら、そして彼らがもとの場所で充填した労働者、は彼らの新しい主人のために、印象的な一連のモニュメントを建設した。そして、それは13世紀初期から14世紀の最初の十年を端緒とする。


ルーム・セルジュークとその公共事業

2つの主な目標が、アナトリアのスルタンを、彼らが着手した公共建築物の大事業に、駆り立てた様に思われる。これらのうちの一番目のものは、最も正統スンニー派の正説の普及であった(彼らが、大変な数のマドラサ或いはコーランの学校の建設によって推進した目標)。二番目は、国際交易を促進するために、彼らの領土全体にくまなく、安全な連絡手段を提供することであった。これは、彼らが、アナトリア、地中海、そして黒海を結ぶ道に散在する、一連の要塞化されたキャラバンサライ(khan或いはハーンhan)を建設することによってなし遂げた;それらは、1日の旅程(約30q)を離して建てられ、セルジューク統治地域の南北と東西の軸を網羅した。

サムソン(古代のアミスス)、アンタリヤ (アッタリア Attalia /又はAttaleia?訳注)、そしてシリフケSilifke (セレウキア)の港に連結するキャラバンルートのこのネットワークの要所には、古代の都市が立っていた(それらの名前は、それらの支配者と共に変わった):コンヤ(イコニウム) 、カイセリ(カエサレア)そしてシバス (セバステ) 。それらのルートは、アナトリア高原が、危険な海峡領有地、或いは、エーゲ海(双方共がビザンチンの手にあった)を通過すること無しに、渡れるであろうことを意味した。

セルジュークの公共事業は、モスク(都市で日々の祈りの必要性を満たした)、そして浴場或いはハンマーン(水の贅を乾燥した草原にもたらす際、古代の伝統を継承した)を含んだ。しかし、またマドラサがイデオロギー的な要素、そしてキャラバンサライが、経済的な要素を与えた。この方針は、優れた先見の明の現れであった。セルジュークの領土は、すぐに宗教的啓発の中心地(ハジュ・ベクタスHaci Bektas (アラビア語の:ハジジ・ベクタシュ Hajji Bektash)とメヴララMevlana (ジャラ・アルリディン・ルミJala al-Din Rumi)のような神秘論者の発現が見られる)と東西の交差点という地の利を活かした大交易地の双方になった。

北ペルシアから着いたキャラバンは、高価な商品 (シルク、カーペットそしてキプチャク族の奴隷 )を黒海の南の岸に運んだ。そこで、その商品は、他のキャラバン(高原の向こう側の地中海へそれらを運んだ)に移送された。そこから、商業艦隊が、それらをアイユーブ朝シリアとマムルーク朝のカイロに供給した。そして、十字軍の駐留によって助長にされた商業を支えたジェノバ人とベニス人の交易所のおかげで、商品は、西側にも伝わった。

セルジューク朝の治世は、このように類まれな繁栄期をもたらした ;豊かな交易商品と新しい活力は、スンニー派イスラムに、洗練された文化の成果の出現に欠かせないマドラサと宗教的建物を与え、商人と旅行者の為の橋とキャラバンサライのある幹線道路網を授け、そして注目に値する都市開発を促した。


オスマン帝国の最盛期

この公共事業の政策(巨大なオスマン朝帝国のスケールを満たすために拡大させられた)は、イスタンブールのスルタンの下で継承された。その時までに、トルコ族のパワーは、歴史上の大帝国の1つを生んでいた(ルネサンス期に地中海の海盆を近東とつなぐもの)。

オスマン族の台頭は、トルコ民族をそのパワーの極致点に連れて来ることとなった。その種族は、13世紀にホラーサーンから西アナトリア移動した(ビザンティンに対抗するセルジュークの軍事行動に部隊を参加させる為に、ニカイアの南にで落ち着く)。 イズニック(古代のニカイア)、ブルサ(プルサPrusa)、そしてエディルネ(アドリアノープル)のスルタンによって導かれた、その弱体化政策は、(これらが、内部に陸と海の防壁のあるコンスタンティノープルの都市に減らされるまで)ビザンティンの保有した周辺域とトラブゾン (トレビゾンド Trebizond/トランペズスTrapezus )のような黒海の沿岸にある二、三の領地、を蝕んだ。

コンスタンティノープルは、既に、1204年の十字軍による占領の災難を被っていた。今度は、スルタンたちが、包囲の後、包囲攻撃を命令した。1453年の最終の攻撃が町を征した。メフメト二世、ファーティヒ(征服者)の部隊は、大いに人口を減らした都市に入った。アヤ・ソフィアと他の教会(間もなくモスクに変えられた)を除き、その町は、略奪せんとする軍隊に引き渡された。コンスタンティノープルは、その後、イスタンブールになることとなった。

オスマン朝の首都は、イズニックからブルサ、そしてそれからエディルネへ移転した。各々の一連の移転によって、建築芸術は進歩していった。ビザンチンの建物の影響を受けて、トルコ人は、彼ら自身のスタイル (バヤジット二世(1481-1512)の治世に完全な表現法を見い出した) を創造した。エディルネとイスタンブールの建築家ハイレッティンによって造られたモニュメントは、16世紀半ばの傑作を予期させる古典主義を示している。

それ以降、オスマン朝の主導権は、 特にスレイマン一世(1512-1520)と、とりわけ偉大なスレイマン二世(1520-1566)の栄光の治世に、ヨーロッパと近東まで着実に拡張した。そして、それはオスマン帝国を無視できない国際的な勢力に変えた。フランスのカール五世は、この新しい勢力との対決が求められ、フランシス一世は、それとの同盟を求めた。スレイマンは、大建築家シナンのパトロンであった。そして、彼の多くの素晴らしいモスクの中で最も有名なものは、恐らく、スレイマニエであろう。今日のイスタンブールの最も目立つランドマークの幾つかは、この期間に遡る。

セリム二世の下で、シナンは、彼の傑作として、オスマン朝の建築の偉大な業績の1つとして、広く認められているものを建てた:エディルネのスレイマニイェ。シナンの足跡に続いた建築には、匹敵するインスピレーションと大胆さは、見られない。ダウド・アーの時代までの建物に、沈滞が定着し、シナンの想像力、一貫性、そして大胆さが、伝統的な様式に堕してしまった、イェニ・ヴァリデ・ジャミ Yeni Valide Camii 、そしてメフメト・アー、アフメット一世の青のモスク、がある。

オスマン帝国には、それでもなお、蓄えられたいくらかの驚くべきものがある。そして、18世紀と19世紀に、ヌスレティイェ・ジャミNusretiye Camii で例示された、一種のトルコ式「ロココ様式」が、創造された。そこでの西洋の影響は、明白である。

6世紀にわたって、トルコの建築の過程は、セルジュークの新時代と、ブルサの初期オスマン様式からエディルネの古典主義へ導いた(シナンの傑作において極致に達した) 。優雅な空間構成の解決手法の探求は、この発達における中心的スレッド(糸)であり、トルコの建築の伝統を世界の建築の歴史に於ける最も独創的で影響力のあるものの一つとした。


TURKEY

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