第2章 セルジューク族下のアナトリア


13世紀と14世紀のトルコのスルタンのモニュメント

1071年のマンジケルトの戦いの後、セルジューク族がアナトリアに侵攻した時、彼らはキリスト教徒とイスラーム教徒によって長く争われた地域を引き継いだ。支配権はアラブとビザンティンの影響力の間を何世紀もの間を行きつ戻りつした。イスラームは、663年以来、東部小アジアの主要な勢力となっていた。イサウ リアの支配者は、イスラームの国々を侵略した;コンスタンティヌス五世は、751年にメリテネ(現代のマラティヤ)を占領した。ニケフォロス一世の治世に、アラブの襲撃は、アンキラ ( アンカラ ) に達した。878年、マケドニア朝の下、バシレイオス一世は、カッパドキアとタウルス山脈をビザンチンの支配下に返上した。962年に、ニケフォロス・フォカスは、キリキアとアレッポを奪還し、北部シリアを領土に加えた ;それは、しかし、バシレイオス二世(994-999)によって再征服され、すぐさま奪い返された。

マンジケルト以前の11世紀にも、東部小アジアでトルコ人の出現が見られた。セルジューク族は、1057年に、メリテネを焼き払い、1059年にセバステ(現在のシバス)、そして1067年にカエサレア(カイセリ)を略奪した。1074年に、彼らは、カッパドキアでビザンチンの軍隊に打ち勝ち、そして、そこに定住した。西部小アジアにおけるトルコの領域は、拡大し続けた。1081年に、スルタン・スレイマンは、ニカイア(イズニック)にルーム・セルジュークの首都を建設した。

トルコ族は、アナトリアに永住したが、それ以来、そこは、トルコ語が話されている。十字軍もラテン帝国の支配者も(Mongol Golden Hordeモンゴル族の黄金の大群(1243年)の通過さえも)、トルコの支配からアナトリアを奪い取れかった(ビザンチンの抵抗勢力の小さな孤立地帯が、トレビゾンド( トラブゾン)のように残存したけれども)。


アラブとペルシャの遺産

東部アナトリアにおけるアラブの占領の跡は 、僅かしかない。それらは、殆どがモスクであった。そして、それらの古典的平面計画(奥行きより幅のある礼拝ホール)はダマスカスのウマイヤ家の大モスク(その種の建物の中で極められたモデル)に由来する。

このような建物の一つに、ディヤルバクルの ウル・ジャミ (大モスク)がある(その建設は8世紀に遡ると考えられており、従って、トルコの時代に遡る)。しかしながら、それは、1091年以降に、大幅に改築された。ダマスカスと同様に、そこでは、コラム、コリント様式の柱頭、卍模様、蔓とカンタロスのフリーズの様な古代ローマ時代のものから持ち込まれた再利用が見られる。巨大な礼拝ホールの前に、奥行きより幅のある柱廊付きの中庭がある。

これら全ての建物がそれで建設される、フリーストーン(特別な石目がなくどんな方向にも自由に切り取れる軟石/訳注)は、原産地のものであり、イスラム教徒の建築家の前に、ギリシア人、ローマ人、そしてビザンティン人によって使われた。それも、セルジューク時代の特徴である。

アナトリアのトルコ人の占領の最初の十年に遡る、ある建物は、アラビア風の印象を持つ。これらは、マルディン、 ドゥナイシルDunaysir(現代のクズルテペ)、とシバス、そしてコンヤにあるアラエッディン・ジャミの一部の大モスクである ;全てのこれらの建物における、長方形の平面計画は、イスラム教の礼拝堂の古典的伝統との連続性を証明する。

通路とベイに分割された多柱式の平面計画を持つこれらのモスクは、最初期のアナトリアのセルジューク族の建物に強い影響を与えた。後者の例は、 ニーデのアラエッディン・ジャミ(1223)の礼拝堂である。それは、3つの通路を持っており、そのミフラーブの前には、2つのより小さなドームに両側を挟まれたスキンチの上のドームがある。その4つのベイは、僅かに尖ったリブヴォールトで覆われている。光井を整列させる、中央の開口部が、内部を照らしている。この配置は、1237年を端緒とする、カイセリの、フアント・ハトゥン・ジャミで見られる。後者は、8つの通路と10のベイを持つ、はるかに大きな建物(56m×50m)である ;84本の柱身は、量感のあるアーケード(キブラ壁へ垂直にあたる)を載せている。そのミフラーブの前には、大ドームがある。

光井を持つ多柱式の形式も、ある建物(アフヨン・モスクと、共に、依然として初期のプランに従うという特質を有している)で見られる。これが、西部アナトリアにある、湖の沿岸と同じ名前の、ベイシェヒルの エシュレフォール・ジャミである。それは、1296年を端緒とし、その石構造の中にある、木製のコラムの森(平らな木造屋根を支えている)をつくっている。スタラクタイト工芸で装飾された柱頭は、長い細長いコラム(7つの身廊と9つのベイを形成する)を装飾している。

多柱式の礼拝堂は、古典的アラブのモスクの影響を明らかにするけれども(特にそれらの平面計画において)、それらはまた、明確にセルジュークの特性も示している。このように、1220年に完成されたコンヤのアラエッディン・ジャミのファサードは、セルジューク美術の典型である多彩色大理石で飾られた玄関廊を持つ。

そのポータル(玄関廊:訳注)は、僅かに尖ったアーチを持つティンパヌム(三角壁:訳注)とジクザグの溝を持つコロネット(小柱:訳注)に囲まれた素晴らしい交差アーチのモティーフを示してる ;互い違いになった迫石のある平縁は、まぐさからの負荷を転換する役目をしている。これらの特徴は、間もなく13世紀のマドラサとキャラバンサライの双方で採用されることなる、装飾様式の構成要素となる。コンヤのアラエッディン・ジャミの門は、(様式的幾分抑制された)最初期の例であるが、この装飾の更に高度に発達した形態が、カッパドキアの多くの建物で見られる。

そのような建物の一つが、(1251年に建設された)コンヤの ビュユュク・カラタイ・メドレセシである。ドーム形の礼拝堂に先行して置かれた表玄関は、アラエッディン・ジャミのそれと同様の装飾手法を採用するが、それをスタラクタイトのティンパヌムで強調している。このハチの巣状のヴォールト天井は、石材に置き換わっている(ペルシャのイスファハンの大セルジューク族によって発展させられた方式)。

1世紀前に建てられた、イスファハンのモニュメントには、ハチの巣状の構造(その様式の初期発生の期間に非常に巨大化した)がある。それらの相互の支持によって、それらは、中庭のイワーンのヴォールトを形成した。ハチの巣状の外見の大きさが小さくなった時、スタラクタイトは、全ての構造上の機能を失い、純粋に装飾的なものになった。しかし、このいわゆるムカルナス形式は、それ以降、ペルシア、アラブ、そしてトルコのイスラム芸術に繰り返し現れる主題の1つとなった。

ペルシャ起源のもう一つ別の要素は、ルーム・セルジュークの建築において明白である :建物のパーツ(特に扉とミフラブ)を装飾する化粧煉瓦。1217年に遡る、シバスのシファイェ・メドレセシ(この場合は、病院)は、特に良い例である。そこの、イワーン( ケイハヴスKeykavus の、チュルベ或いは霊廟の前に置かれた)は、ターコイズ・ブルー(トルコ石の様な明るい青緑色)で装飾される。

この多彩色形式の起源は、南西ペルシアのカーシャーンで作られた化粧れんがにあった。10世紀のアラブの著者は、バグダッドのドームの内部の青い釉薬の使用について言及する。この色は、コバルト、硫黄、そしてヒ素を混合することによって得られた。セルジュークの建築おいて、多彩色のタイルは、ミフラーブを飾るために頻繁に使われた。カーシャーンの都市は、(長い間その陶磁器を製造する技術を秘密にしてきた)その生産品を11世紀と12世紀の間に、至る所に輸出した。化粧れんが(黒色または青色)は、ガラス化の間に竈の中で形成されたガスの酸化物によって与えられた金属性の虹色であった。八角形、或いは星型のカシスkashis (カーシャーンの煉瓦)で構成された装飾は 、宮殿或いは分館で使われ、人或いは動物の姿に構成されたことであろう。それらの扱いが示すのは、イスラム教の生き物の表現の禁止が、事実上、礼拝堂に限定されたということである。

多彩色のタイルは、コンヤのビュユュク・カラタイ・メドレセシで見られる。そしてそのドーム(沐浴のために設置されたプールの真上にある円窓によって明かりが採られた)は、黒色と青色のタイルの擁壁を持つトルコの三角形(Turkish triangles)の上で支えられている。我々は、「トルコの三角形」という言葉が、ルーム・セルジュークを起源とする建築の様式に関係するということを述べなければならない。;それは、四角い平面計画の建物からドームの円形基部までの遷移によって起こる問題を解決する。中世のトルコ人は、ローマ時代以来、使用してきた2つの古典的な解決法のどちらをも使わなかった。(以下):スキンチ(コーナーアーチ)とペンデンティブ(球形の縦断面における三角形) 。その代りに、彼らは、直線的な面を持つ三角形の面を使った。トルコの三角形は、直形と円形のプランの間に、容易に測定できる充分な接合点を与える。

マドラサの内部空間を照らすためのドームの頂部の円窓の使用は、ローマの浴場施設の従来の形式から、そのまま取り込まれた。これらの例は、無論、古代のイコニウムの廃墟の間のコンヤに残存している。1260-1265年に建てられた、コンヤのインジェ・ミナレ・メドレセシのミナレット(現在は破壊されている)では、特に、興味深い化粧煉瓦の扱いがなされている。このドームが架けられたマドラサの、すばらしい彫刻が施された玄関の右側のミナレット(かつて非常に高かった) は、現在2つの層だけに縮まっている(3層目は20世紀の初めの地震で崩壊してしまった)。最初の層は、石材で造られ、正方形のプランで、円筒状の煉瓦造の二番目の層(緑色のタイルで覆われたトーラス(円環体))を支えている ;これらの上に、緑色と黒色の菱形のモチーフが、アラーの名前を綴った様式化されたレタリングを形成するために、穿たれている。

インジェ・ミナレ・メドレセシの玄関は、最も大胆な試みのうちの1つである(コーランの神聖なテキストを装飾様式と結合させた)。それは、装飾的な枠組み、狭間飾り、そして花模様で溢れている。この豊かな装飾は、ほとんど、バロック様式の構成に向かっている。そしてそこでは、その玄関を縁取りする、彫刻されたモールディングはリボン(その頂部に伸び、そこからその縁に沿って下降する)のように、絡らまっている。

それは、並はずれた業績である。そしてそこでは芸術家はピシタク(ペルシアが起源の大きな矩形の玄関)の基準となる様式を再解釈しようと試みた。ただし、トルコの芸術家は、ペルシアのデザインを徹底的に修正した。セラミックの装飾から得られた様式は、彫刻された石を用いて変えられてれる ;なぜなら多彩色のタイルの色の演出は、石の玄関の複雑なレリーフの光の演出に置き換えられているからである。     

マドラサの様相と機能

我々は、いくつかのセルジューク族のマドラサに言及してきた。トルコ族のための、コーランの学校の建設は、スンニー派(シーア派のファーティマ朝に拒否されてきた)への、復帰を促す政策の一環であった。イスラム教の原理に関していうと、マドラサは、ガージghazi、即ち戦士(彼らの信仰は、彼らを国境地帯の戦闘に志願させ、どんなキリスト教徒との紛争地帯所にでも、彼らを駆り出す)に相当する。

セルジューク族のマドラサの乱立は、この従軍正当説と、イスラム教が、その純粋で独創的な様式を持っていることを裏付けたいという願望、によって生み出された。この理由のために、各々のアナトリアの町は、少なくとも1つ、そのようなコーランの学校を所有した。同様な傾向は、ペルシアと他のセルジューク族の領地に広がった。マドラサでは、教師たちが、イスラームの教理を示した。コーランは、神学の原理と日常生活の規則の両方の源であったので、神学の研究は、裁判に関する問題を包含した。それは、ウラマー(医者)、カディー(裁判官)、ムフティー(法律顧問) によって示された法を構成した。公式の教理は、異なる学派の種類、特にハナフィー派、ハンバル派、シャーフィイー派、そして、マーリク派によって取り入れられた。

ルーム・セルジューク族の時代の間、マドラサは、急速な発展を遂げた。予言者の唱導者として、マドラサは、信条を主張した ;それらの構造にしては、費用は、それほどでもなく、装飾は、さほど贅沢ではなかった。マドラサの建築家は、このように一連の補足的機能を与えるのに必要とされる、大規模な方策を採用したようだ。

1253年に建てられた、アラス川のエルズルムのシフテ・ミナレ・メドレセシは、これを例示する。その頑丈な構造は、柱廊のある中庭、化粧れんがで仕上げされた2つの高いミナレット、そして、チュルベ(すなわち、円錐形の屋根を持つ墓)から成る。東アナトリアのエルズルムは、キャラバン交通のための重要な輸送宿場であり、マドラサは、都市の端(砂漠の風景の向こう1800m)に立っている。その大きさは、人目を引く。それは、長さ75m、幅25mである ;その中央の中庭は、25m×12mであり、対面する二つのイワーンを持っている(ペルシアのモスクとマドラサのそれらのように ) 。

その美しい玄関は、ピシタクの形式をとり、ハチの巣の状のスタラクタイトのニッチを持っている。その上には、2つの高い煉瓦のミナレットが立っている。その玄関は、そのアーケードがコラムに支持された、二層の柱廊によって縁取られた、中庭に通じている。中庭の各々の内側のファサードの中程で、イワーンが、高いベイを形成する( そのポインテッドアーチは一体となった二層面を登る)。暗色の粗面岩石に彫刻された装飾は、幾何学と花のモティーフを持った八角形と円形のコラムの表面に活気を添えている。

その複合施設の最高の要素は、頑強な霊廟、ハトゥニイェ・チュルベシである ;葬式用の部屋の重厚な12角形は、高い円錐形の屋根によって蓋がされている。最上の組紐の帯と紐状のモチーフが、屋根を装飾している。

マドラサと墓塔の組み合わせは、ごく一般的であった ;それは、カイセリの1237年を端緒とするフタント・ハトゥンの複合施設と1339年のキョシク・メドレセに現れている。その結果生じる複合体は、モスクとマドラサの直交する伝統的な構造と、霊廟の円筒状と円錐状のエレメントを結合した。

シバス(セルジューク芸術の重要な中心地)のモニュメントの中で、我々は、既にシファイイェ、ケイカヴァスKeykavusの病院(1217を端緒とする)、そして艶付のモチーフで飾られたそのイワーンについて言及してきた。この建物の平面計画(その柱廊が水の中央プールに映されている) は、多くの巨大なセルジューク族のマドラサの原型となった。挺身する多くの学生たちは、コンヤので使われた方式-一つ或いはそれ以上のドームで覆われた教室(インジェ・ミナレ・メドレセシとビュユュク・カラタイ・メドレセシでの様な)、より多くの者を収容できるものに移行することを望んだ。これが、ペルシア様式の中庭型のモスクであった(一般的に4つのイワーンを持つ); それは、次第に優勢になった。

病院、 ハンクァフスkhangahs ( 修道僧、すなわち、托鉢をする修道僧のための修道院 ) 、ニザーミーヤ学院(神学、そして科学の研究の大学) 、そしてマドラサ、全てが同じ平面計画(中央に中庭とイワーンがある)を示したという事実は、スルタンによって進められた宗教的・社会的政策の証拠となっている。セルジューク朝とオスマン朝の貧困者の為の給食施設、診療所、救貧院、そして学校の創設は、スルタンの信心深さとコーランによって規定された慈善の義務に対する彼らの関心を反映している。彼らは、全ての機会に、慈善基金(彼らは、それらに彼らの名前を付した)を通じて 彼らの寛大さを示した。碑文は、これらの譲渡できない寄付を記念する(それらの譲渡証書は、それらの「永続的な」維持を規定する傾向があった) 。


審美的言語

一層更に強調された記念性に向かったマドラサの発達は、シバスで造られた例でより良く説明される。我々は、エルズルムのチフテ・ミナレ・メドレセシで、この発達の顕著な一つの例に注目してきた。もう一つのものは、シバスのチフテ・ミナレ・メドレセシである。1271年に立てられたそれは、特に華麗な装飾を示している ;エルズルムのチフテ・ミナレのように、それは、2つのミナレットに両側を挟まれた大きな軸に沿った門を持っている。不幸なことに、すばらしい門のみしか残存していない。多色彩飾が施された煉瓦のミナレットに関して、石灰石と大理石の切り石ブロックの組み合わせは、このスケールに基づく建物によってもたらされた技術的問題に満足に値する解答を与えた。コンヤでの様に、ミナレットは、上部の回廊ーを持ち送り積みで張り出した。

石材と多彩色の煉瓦のこの組み合わせは、最初にセルジューク・ペルシャで使われた。それは、素晴らしい建築的能力の有機的発達を可能にする(マドラサに与える、堂々とした象徴的特徴)。一組のミナレットに両側を挟まれたピシタク式の玄関をもつ、シバスでのその扱いは、非常に効果的である。

シバスのギョク・メドレセ(青いマドラサ)も、1271年を端緒とし、同じ形式を借用する。それは、アナトリアのセルジューク族の玄関の装飾の優れた実例である。トレーサリー(網目模様の飾り格子:訳注)と花模様そしてムカルナス「フリーズ」で複雑に彫刻された、連続した垂直のボーダーによって造られた枠組みの中で、戸口そのものは、ニッチに立っている(そのヴォールトはスタラクタイト細工が密集している)。このイワーンを形作る肩幅の広いオージー(反曲線アーチ)は、くっつけられた石材の細長い付け柱によって支えられている。 ;それらの柱頭は、コリント様式の派生である。

玄関の頂点にある、3つの奇妙な、ほとんどバロック様式の装飾のエレメントは、それらの花模様を供している。ディブリーイの大モスクのそれらのように、それらは、多彩色のセラミックスから得られたモチーフの、石彫刻のように思われる。シバスのムザフェル・ビュリュジィイェ・メドレセシ(1271) の玄関は、これらの高浮き彫りデザインが散りばめられている。シバスが強烈な建築の創造性の時代を謳歌した時代は、モンゴル・イルハーン朝と同時期である。主軸のイワーンのある両側では、コラムによって支えられた優雅なアーケードが、柱廊を形成する。そしてそれは先生と学生の部屋に向かって開いている。両側の巨大なアーチは、その横のイワーンの存在を示している(そしてそこで教示が行われた)。

セルジュークの装飾の見事な輝きは、献辞が記される飾りのない壁と全くの対照形で、これはアナトリア芸術の際立った特徴の1つである :その装飾は、その建物の一定のエリアに制限される。その役割は、その建物のより重要な構成要素を強調することにある:ポータル(玄関:訳注)、イワーン、コラム、そしてその多種多様な装飾的語彙でそれらを豊かにするその他のエレメント。


チュルベ(墓塔)或いは霊廟

我々は、既にチュルベシ(円筒形或いは多角形の円錐形の屋根を持つトルコの霊廟)について述べてきた。これは、葬儀用のモニュメントに対してアナトリアのセルジューク族によってよって採択された非常に幾何学的な形態であった。そのイスラムの霊廟の原型はサーマッラー(現在のイラク)で見られる。そしてそこでは、862年にカリフ、アル・ムスタンシルの墓が建てられた。記念碑的建物の建設によって名士の墓を表す慣習は、すぐさまペルシアの至る所に広がった ;そこでは、シーア派がイマームと彼らの直系の子孫であるウマザデImmazadeh (予言者の唯一の正当な後継ぎであると考えられた) の墓を崇拝した為、それはシーア派イスラム教の台頭と同時に起こった。

北部ペルシアにおいて、ジヤール朝は、塔の形をした最初のモニュメンタルな墓の一つ、グンバド・イ・カブスGunbad-i-Qabusの霊廟を、カスピ海からそれほど遠くない所にあるゴルガーンに、建てた;それは、1006年に遡る。平面計画において、それは、突出したコーナーと錐形の屋根を持つ星型の多角形である。これは、トルコの墓塔の模範であった。そしてそこでは、石材が、ペルシアで使れた煉瓦に取って代わった。

墓の形而上学的様相を示す為の厳格な幾何学的形態の探求は、特に、デョネル・キュムベト(1275)とアリ・ジャフェル・キュムベティに明瞭である(双方共カイセリにある)。ニーデのフンダヴェント・ハトゥン(1312)とゲヴァシュのハリメ・ハトゥン(1358)の墓塔(双方共、カラマン朝のエミール国に遡る)は、むき出しの彫刻のクオリティー(それは注目すべき装飾の豊かさを排除しない ) に対する、この熱意を例示する。フリーズの装飾、銘の帯、付け小柱、バラ花飾り、そしてスタラクタイトはセルジューク族の伝統を伝える。

建築におけるルーム・セルジューク族の業績に対する適切な評価は、(それは我々が調査した2つの別個の伝統のおかげであった)恩義をしっかり認めなければならない。第1に、それはイスラームの形態と空間のアラブの遺産であった。第2に、それはペルシアの大セルジュークの影響(彼らはルーム・セルジューク族の領域と連続的な接触を保ったといって良い)であった。


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