第3章 キャラバンのルート



アナトリアの輸送基地

ルーム・セルジュークの時代の中央アナトリアの居住者或いは旅行者にとって、安全が重要な関心事であった。ルーム・セルジュークの領地であるにも拘らず、11世紀末から13世紀の間に、その領域は、ビザンチンの軍隊、十字軍、そしてモンゴルの大群によって、幾多の侵略を受けた。町は、家族と彼らの財産を守る為に、頑丈な要塞で囲まれた。ペルシアとエーゲ海、或いは黒海と地中海の間の高地での、商人と旅行者の保護は、要塞化されたキャラバンサライの連続によって保証された。

ロマノ‐ビザンチンの包囲攻撃と防御技術の相続人である、トルコ人は、彼らが小アジアに陣とった都市の 防御用構築物を修復し、改良した。これの最も良い例は、カッパドキアのカイセリ ( ローマのカエサレア ) である。なぜなら、それは中央アナトリアの商業ハブであったからである。カイセリの防衛は、新しい都市壁で補強され、中心の砦(浅黒い玄武岩の19本の塔を持つ) は、ユスティニアヌスの砦の土台の上に建てられた。今日でさえ、カーテンウォールから突き出した四角い塔は、カイセリに難攻不落の装いを与えている。

文献により、我々は、コンヤ(イコニウム) (ハドリアヌスがローマ人の入植地にした)の円壁のことを知っている。そこは、 1097 年にセルジューク朝の首都になり、1221年にケイクバド一世(1221-1237) は、 それを144本の塔が備わった都市壁で囲んだ。今日、その痕跡は、残存していない。それとは対照的に、チグリス川の川上のディヤルバクルのような他の防備が固められた都市は、まだそれらの印象的な都市壁を有している。そしてそこでは、ビザンチンとセルジュークの構造の名残が混合している。


キャラバンのルートに沿って

我々は既にスルタンたちへの国際貿易の重要性、そしてアナトリアを横断するルート(それに沿ってオリエントからの商品が黒海から地中海へ、ビザンティンが所有したボスフォラス海峡を通過する事無しに、輸送された)によって演じられた役割に注目してきた( それらのキャラバンは、ステップ(草原)ラクダを使ったが、それは、北アフリカ或いはアラビアのヒトコブラクダより寒さにずっと抵抗力があった)。これらの道の建設は、スルタンたちに細心の注意を要求した。概して、それらは、修理を必要とした、ローマの道であった ;それらに沿って見られる荒廃したモニュメントと芸術作品も、そして、等間隔で建てられた安全な避難所も、また修復を要した。

スルタンたちは、巨大な橋梁工事事業に着手し、その成果の幾つかは、現在も残存している。そのようなものの一つに、アスペンドゥスの近くのキョプリュチャイ川 (エウリュメドン Eurymedon川 としてギリシア人に知られている ) にかかる橋がある。それは、立派に、時の経過による損壊に耐えた ;中央に向かって登る道を支えている、その4つの大きなポインテッドアーチは、川を大股に横切っている。

キャラバンルートは、荷車のためではなく、ラクダのために造られた路線であり、従って、所々に、舗装された路面が必要とされた。2 つの主要な軸があった :ペルシアの国境とエーゲ海の間の、東西軸。そしてカイセリとサムスンを結ぶする南北の軸。そこから、そのルートは、タウルスを経てアンタルヤへ下る前に、カイセリとコンヤ、ベイシェヒルとエーイルディルの間の大河に続いた。

同じ機能を果たした他のルートがあった。;例えば、アクサライ・ニーデ・アダナ街道、そしてベイチェヒルとアランヤの間のもう一つのもの。その成果が、およそ100のキャラバンサライ(そのうちの幾つかはだ無傷である ) の構造物であった。


シルクと奴隷の交易

これらは、戦略的交易であり軍のルートであった。戦時に、それらのキャラバンサライは、守備隊が置かれた軍事補給基地になった。中国と中央アジアからの国際貿易の相当な役割がこれらのルートに生じた。南部の交易ルートは、トゥルファンのオアシスを経由し、フェルガナの河川に下り、トゥルコマン・ステップとカスピ海を横断し、黒海の沿岸へ向かった。

「シルクロード」の方では、(バルフとブハラを経由しアナトリアに達している)カイバルとカンダハルの道を抜け、インド、インドシナ、そして現在インドネシアであるところの島々の産物(香料、象牙、布地)が来た。そしてそこでは、北からの交易もあった(特に、宮廷儀式に使われた、シベリアからの毛皮)。

しかし、交易の大部分は、バルハシ湖とシル・ダリア川の間の、ヒルギジアとカザフスタンからの、或いは、ボルガ川とドナウ盆地の間のキプチャク平原からの奴隷であった。これらのチュルク民族は、セルジューク族が豊かな南の従属国に売った、兵士奴隷の集団を提供した。最強の戦士である彼らは、バグダッドとダマスカスのアイユーブ朝のカリフの守衛部隊を組織した。

これらの奴隷から、カイロのマムルーク朝とデリーのスルタン国が起こった。彼らは、いくつかのムスリム政権の勢力が基盤にした柱であり、そして、彼らは、オリエント世界で起こった一連の対立において主要な役割を果たした。これらの男たち(黄金の重さと同じ価値があった) のより一層の需要が、その直接の帰結理由であった。そして、これらのマムルークたちの納入業者は、概してルーム・セルジューク族 (彼らがアジアのステップで購入或いは捕獲した集団をアナトリアを横断して送った ) であった。

彼らがアナトリアに到着すると、これらの若い捕虜は、厳しい軍事訓練を受けた。彼らは、「家」(そこから彼らは高い立派な肩書の所持者として出世した)に奉公した。これらの兵士奴隷は、中近東の真の職業軍人であった。彼らは、そのようにして、イスラム教の軍隊のエリート(彼らは、13世紀の下期に、モンゴル大群を破り、そうして彼らの前進を阻止できることを証明したほどの)になった。

このように、セルジューク族下のアナトリアは、国際貿易の中心地となった。そこは、数々の王国と帝国を建設し破壊した、奴隷戦士のための市場であった。スルタンたちが、これらの陸のルートに非常に多くの注意を払ったことはなんら不思議ではない ;基幹施設への彼らの投資は、非常に有益であった。その結果、それらのキャラバンサライは、輸送基地というばかりでなく、それ自体が芸術作品にもなった。


魅力的な建築

そのキャラバンサライの外観(わずかに残る例が、アナトリアの広大な半砂漠地域で見られる) は、リメス(ゲルマン族のいる周縁部) にあるローマ人によって建設された要塞のそれと似ている。矩形の建物である、それらは、外部に装飾のない壁以外の何も持たない。そこには、モニュメンタルな出入口を除き、全く開口部がなく、その壁には、四角、多角形、或いは円形の塔が点在している。そしてそれはコーナーを示し、或いは、カーテンウォールの広がりを分断している。

このことは、正にサアデッディンのキャラバンサライ(ハーン) (コンヤの北東にステップの中程に横たわる、1236年を端緒とする) に当てはまる。その2つの出入口 (建物の外側のもの、そしてその柱廊のある中庭の後もある内側のもの ) 、そしてその角の塔の基礎は、青白色と灰色の一つ置きの石の層と迫石を示している。この多彩色の装飾は、(彫刻とスタラクタイトのモチーフを欠いている) エントランスの中のある種の沈着さを補っている。

石造物の中に見られる多数のローマとビザンティンの芸術品は特に興味を引く :葬儀用の石碑、石棺、フリーズ、窓のわき柱、そしてアーケードが全て、キャラバンサライのファサードに美的一貫性なしに、組み込まれている。実際、彫刻されたブロックが、時折、逆さまに組み込まれている。これがキリスト教の世界に対するトルコ族の勝利を表しているということは、ありそうもないように思われる。更に、恐らく、これらの建築資材は、近くにあり、採石場の石より安かったのであろう。サアデッディン・ハーンの壁のあらわしの表面には、全ての一連の、労務者によって残されたと目される一続きの「サイン」の印がある ;それらは、ギリシア人或いはアルメニア人の性格に由来するように思われる。

30年程前にクルト・エルトマン(Kurt Erdmann)によって目録に載せられた、数百のキャラバンサライの中のプランは、かなり異なっている。概して、そこには中庭がある。そしてその背後には「冬のホール」と呼ばれる被いのある建物が立っている。アナトリア高原の冬の気候は、非常に厳しく、人も野獣も、避難所なしでは容易に生き残れないであろう。

しかし、これらの基本的なエレメントは、様々にアレンジすることができた。時折、下屋が、カーテンウォールに対して、ペルシャで良くある様な工法によって、建てられた。しかし、小アジアのトルコ人は、一般に中庭の方を好んだ。そしてそれは時折、両側面にアーケード、そして3つ或いは 5つの身廊をもつホールを従えた。そのホールは、通常、側廊を持つ中央の身廊を示した。大部分のキャラバンサライは、見事に加工された規則正しい石材の層で建てられた。

「スルタン・ハーン」として知られている最も注目すべきキャラバンサライでは、冬期のホールのポインテッド・トンネルボールトは、デプレスト或いは四心アーチを採用している。そしてそれは中庭のアーケードと側廊でも使われている。 主身廊(そのヴォールトは14mの高さに達する )は七つのベイ(その中央にはドーム形の光塔がある)を持つ。これは、内部が丸く、外部は八角形で、その円錐形の屋根の頂点は、20mに達する。ずっと低い側廊(約5mの高さ) は、四角い柱によって支えられる多柱式の空間を形成し、いくぶん暗い。

横断リブで分節された背の高いヴォールト(その側面のアーケードは、ヴォールトが架けられた側廊と中央の光塔に向かった開いている)を持つ、「冬のホール」の建築は、高い袖廊が主役となる、ポインテッドバレルヴォールトを持つ教会のそれのようである。

「スルタン・ハーン」キャラバンサライは、スルタンの繁栄に寄与し、標準の建物より豪華なデザインであった。それらの縦軸上にある、中庭の前面は、そのファサードとして、豊かに装飾されたフレームを持つ大きな正門を持っている;アクセスゲートは、ムカルナスのヴォールトが主役となるニッチの中に配置されている。この彫刻装飾は、美しいザラ面の石灰石、或いは青白色大理石で、モスクとマドラサのピシタクと同じ様式である。これらのハーンは、セルジューク族下のアナトリアの宗教建築の装飾的言語を共有する。

中庭の7つのアーケード(人の入り口として正門口の左にある)は、 燃え盛る夏の日差しを避ける為に必要とされたシェルターを提供する。反対側の二番目の柱廊は、集合住宅とハンマーン或いはトルコ式浴場に面している。屋根のない中庭の中心には、3つの大アーチの上に載った小さな、一段高い、立方体形の建物がある。これは、小さなモスクである(狭く急な二重の階段で入る ) :通りすがりの敬けんな信者が自由に礼拝できる場所。その存在は、キャラバンサライ全体が、コーランによって課された義務に従ったスルタンによって造られた慈善による建物であるという事実を、象徴する。

中庭の後にある、最初のものに似ている二番目の正門(大きさは小さい)は、冬のホールに通じている。それもまた、連続する層の構成、時折暗色と明色の石材の層の同じ一つおきの配列を持つ、彫刻された幾何学模様の装飾を有する。モスクとマドラサでの様に、その装飾のレパートリーは、花型の柱頭を有する小柱を持つ、狭間飾り、格子、星のモチーフ、Z字形、そしてバラ花飾りに基づく、抽象模様である。内側の入口の上のヴォールトは、外部の正門のそれのように、厳格な幾何学の精度を持つムカルナスが備わっている。

これらの特徴全てが、セルジューク族のキャラバンサライの最も優れたものに見られる。そして、その中には、シバスの方向、カイセリの北を走る路上に1232年に建てられたものがある;そして、その中に、保存、修復、広大なサイズ、そして構造上の一貫性に関して、最も優れた例であるアクサライのスルタンハヌ・ウエス (1229年を端緒とする);13世紀半ばに建てられ、近年大幅に修復された、カズルマク川 (ハリス Halys川 としてギリシ ア人に知られている ) の河畔にある、アヴァノスの近くのサルハン;カイセリ−コンヤの路上にあるアクサライの東の、1242年のアーズ・カラ・ハヌ;;コンヤの北西の1246-1249年頃建てられたホロズル・ハン(コックのハン);そして、最後に、エーイルディルとアンタルヤの間に、1236-1246年に建てられたクルギョズ・ハヌ(光に満ちた宿泊設備を保証する広い開口部を持つ、二つの二層の柱廊に挟まれた中庭の背後にある、長方形の単独の身廊ホールを持つ)、がある。

これらの建物の各々が、プランと装飾の双方において、独特の独創的な特性を示す。それらは、それでもなお、ルーム・セルジューク族の建築の、顕著な空間的、様式的、統一性を証明する。


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