第4章 初期オスマン朝の建築



発達を続ける新しい形態

1243年のキュセダーでの、モンゴル人の勝利の後、 アナトリアの至る所で騒乱があった。ルームのスルタン国は、その侵攻以前に滅びた。モンゴル人は、最終的に、1308年にケイクバド三世を殺害した。アナトリアにおいて、様々な族長が、全ての権威が葬られた地域に彼らの権威を押しつけようとした為、反乱、暴動、そして対立が、途切れることなく続いた。13世紀末は、トルクメン族首長国の時代であった。

権威の喪失にもかかわらず、地域の建築的伝統は、その活力を全く失うことはなかった。多くのマドラサは、モンゴル・イルハーン朝の下で、そして、シバス、エルズルム、そしてニーデのカラマン朝の下で、純粋なセルジューク族の様式で建設された。

13世紀の終りに、騒然とした民族集団の中で、その野心を国の北西に及ぼしたのが、オスマントルコ族であった。オスマン一世(1299-1326年に統治)の出現は、この種族とその運命の、一見、動かしえないの昇進の始まりを予見した。1326年に、ブルサ (古代のプルサ) を取り込んだ後、 オスマントルコ族は、そこで彼らの首都を建設した (マルマラ海のアジアの海岸にある) ;その都市は、その敵、コンスタンティノープルの反対側の岸に立っていた。

14世紀の間に、重大な変化が起きた(最終的結果が、ヨーロッパのビサンチン帝国を食い物にした、オスマン朝の領土の急速な拡大であった)。1361年に、アドリノポリス(或いは、アドリアノープル)の町は、オスマントルコ族の下に陥落した。エディルネと改名された、それは、1365 年にスルタンの新しい首都になった。それ以降、ビザンチンの領域は、さらにずっと縮小し始めた。コンスタンティノープルは、四方から威嚇された ;トルコの軍隊は、バシレウス(古代ギリシャの王・訳注、basileis)の古都を強襲を企て包囲した後、攻撃を始めた。ビザンチンは、674-678年に、そして718年に再び、アラブ人に包囲されていた。その首都は、十字軍によって1204年に占領された。

ブルガリアが1389年にバヤジド一世の下に陥落したとき、ビザンチンは、再び攻撃された。1396年にニコポリスの十字軍に進路を向けた後、バヤジド一世は、コンスタンティノープルに対して彼の力を存分に集中させることができた(彼はその後の7年間、そうした) 。ビザンティンは、 タマーレン(ティムール)下のモンゴルの侵入者のアナトリアへの予期しない到着によって、なんとか救われた。

1402年のアンカラのタマーレンの軍隊によるスルタン、バヤジド一世の打破は、大惨事であった。そしてそれは、当時確立されたオスマン朝の領地を全て破壊するほどになった。バヤジドは、捕らわれの身のまま没した。しかし、 1405年に、彼が権力を確立する前に、タマーレン自身が死亡し、そして死の後に、彼の帝国は、無秩序に陥った。

オスマン朝の国情は、無秩序となり、そして、タマーレンの死は、権力のための恐ろしい戦いの合図であった。それから、10年後、スルタン・メフメット( 1413-1421)が登場した。彼を基点として、小アジアでのトルコの影響力が取り戻されはじめたように思われた。この時点から先、オスマントルコ族の快進撃が、始まった ;恐らく彼らを停止させるように思われた1つの要因は、克服された。簡潔にそれらの驚異的な進展を考察しよう。

ムラト二世(1421-1444 及び1446-1451)は、1422年にコンスタンティノープルの更なる包囲に着手したが、この試みは、失敗した。セルビアにおいて、彼は、更に勝利した。1448年に、コソボで、彼は、軍隊にバルカン諸国全体を開放する勝利を収めた。メフメット二世は、スルタン国を1451年に継承し、コンスタンティノープルの征服を彼の目標にした。今や、ローマ帝国の以前の東の首都は、その壁の外の小さなエリアのみを保有し、その領土は、黒海の前哨地とギリシアの島に縮小した。1453年の、短期間の包囲攻撃の後、その都市は、降伏した。イスタンブールの名で、それは、メフメット二世の首都になり、そして、彼にファティハ(征服者)の称号を与えた。


モスクの発展

これらの出来事は、建築の潮流に強い影響を与えた。南西のアナトリアでの、建築における新しい傾向は、ほぼ1世紀の間、明白に現れた。モスクの様式(そのプロトタイプは、1155年に建てられた)は発展した:シルヴァンのウル・ジャミ(大モスク)。そのレイアウトは、中央のドームを持つ長方形の礼拝堂に通じる、部分的に柱廊のある中庭より成った。

この新しい形式の一例が、1366年に建てられた、西部小アジアの、ウル・ジャミ或いは大モスクである。それは、リブのあるヴォールトの4つのベイを持っている(中央のドームの周りに19の矩形を形成する、それ自体は9つ分を対象としている) 。イズミルの近くのウルラのファティハ・イブラーヒム・ベイ。ジャミにおいて、礼拝堂は、この場合も先と同様に、奥行きより幅がある。同じ傾向は、その国の南部において、顕著である(ムートのラル・アーァ・ジャミで例示された)。そして、それは、1371年(ラティフィイェ・ジャミがマルディンで建てられた時)に東部に達した ;これは、バブ・ユスッル・ジャミを従えていた (14世紀の後期の間に同じ町で建てられた) 。

これらのモスクの形態は、(それらが古典的アラブの長方形のプランに着想を得て以来の)比較的伝統的な形態を維持している(そして彼らは、それに非常に大きな中央のドームを加えた)。オスマン朝の時代の着手時には、この形式は、幾分無視された(それは、エディルネのユチュ・シェレフェリに影響を与えたけれども (1437年に建設が始まった)) 。

しかしながら、メンテセ・エミラテでは、モスクのもう一つのタイプが、広まっていた。これは、単独のドームが架けられた聖所 ( そのドームが内部空間全体を覆った) であった。バラトのイルヤス・ベイ・ジャミ(1404) は、ミレトスの古代遺跡の近くにある、このプランの優れた例である。それは、正確で高い統一感のある建物である(正門を持たないその矩形の礼拝堂には、ドームを支える八角形の円筒が載せられている) 。これは、この建物の設計の当初からあり、その形式が同じ時代のオスマン建築のものより進歩していたという点で、注目に値する。そのエレヴェーションの純正さ、その装飾の明瞭さ(それは、扉とその両側の格子細工に制限されている) 、そして柱廊の上に立ち上がる大ポインテッドアーチの優雅さは、それをその種類のモデルとして確立した(内部に不十分な自然光しかもたらさないということを意味する、ある種の堅固性にも係わらず)。このオスマン朝の建築の特性は、バヤジド二世下の建築家ハイレッディンの最初の作品まで、顕著であった。


イズニックとブルサのオスマン族の独創性

真に独創的なオスマン朝の様式という点において、最初の建物は、イズニックとブルサで建てられた。イズニック(ビザンチンのニカイア)のイェシル・ジャミ、または、緑のモスクは、1378年に遡る。ブルサ( 古代のプルサ)の、モニュメントの一連のシリーズは、スルタン・ムラート一世、ユルドゥルム・バヤジド、メフメット一世、そしてムラート二世によって1391年〜1451年の間に建設された。

イズニックの緑のモスクは、その名前を、その唯一の煉瓦造のミナレットに負っている ;スタラクタイトのヴォールトで支えられた、下部(そしてその一番上のギャラリー)には、青緑のタイルが貼られた壁がある。その建物には、正門を抜けて入る。そして円筒の上の半球体ドームで蓋がされた小さな矩形の礼拝堂を内包している。それが造られた大理石は、恐らく古代ローマの遺跡から持って来られた。

この建物の注目すべき要点は、3つのアーケードを持つ二組の柱廊である。緩いポインテッドアーチが、再使用された古代ローマのコラムに付けられている ;それらの間には、美しい星のモティーフの格子細工のパネルがある。柱頭(高度に様式化された葉のデザインを示す) のベースに、ムカルナスの列がある。正門の重厚な枠組は、スタラクタイトのフリーズでに両側を挟まれている。この装飾的言語は、ほとんどがセルジュークのそれと同じである。しかし、建物全体は、とても特徴的である ;その制限された内部空間、そしてその精密でコンパクトな特徴は、全くセルジュークのモスクとは似ていない。

ミナレットの壁面仕上は、15世紀から18世紀までのイズニックが艶付の多彩色タイル生産の大きな中心地であったという名残である。トルコとペルシアの間の戦争の余波でイズニックに連れて来られたタブリーズの芸術家は、オスマン朝の領域において装飾的な陶芸の技術を開発した (そうして、モンゴルとティムール朝のペルシアで発した伝統技術を伝えた) 。

固有のオスマン朝の伝統に話を移す前に、1つの建物が、言及されなければならない :1396年に造られたブルサの大モスク或いはウル・ジャミ。それは、五つの身廊と四つのベイを持つ美しい多柱式のホールである。そしてその12の矩形の区域には、角柱群が20の小さなドームを載せている。この伝統的なプランは、スルタンによって寄付された慈善基金によって、オスマン世界に戻された。

オスマン族のために、芸術は、新しい建築技法を探していた。初めて、ブルサで、非常に独創的なプラン(2つのドームが並べられた)を持つ礼拝堂が登場した。前後に置かれた、2つのメインドームは、1453年のコンスタンティノープルの陥落まで、オスマン世界に普及していたモスクの形態の際立った特徴である。特徴的な例は、1466 年に造られたイスタンブールのムラト・パシャ・ジャミと1486年に遡るアマスヤのバヤジド二世のモスクである。

ブルサでの、この種の主要な建物は、1389〜1402年の間に、スルタン・バヤジド一世建てられたユルドゥルム・バヤジド・ジャミである。それは、モスク、マドラサ、創設者の霊廟、反応、そして様々な四阿を内包するキュッリイェの一部を形成した。モスク自身は、(5つの小さなドームとムカルナス装飾を持つ)印象的な柱廊を持っている。しかしながら、その2つのドームが架けられた内部エリアの間の接合は、いくぶんぎこちなく扱われている。

この種の建物での、最初のドームは、それを補強する2つの更に小さなドームに挟まれている。二番目のドームが架けられた空間には、ミフラーブ(一種の突き出した内陣の奥廊を形成する)を内包している。その結果が、最初期のオスマン朝のモスク特有の、逆「T」形である。アラブの礼拝堂の長方形の形式は、キリスト教会を模範とした縦長の空間に替えられていた。そして、横のドームがそれを延長した建物の広がりは、翼廊に類似している。

セラミック(陶磁:訳注)の建築的使用 (我々がイズニックで引き合いに出した) は、ブルサでも、イェシル・ジャミとイェシル・チュルベ(霊廟)において( イェシルという言葉は「緑」を意味する ) 見られる。イェシル・ジャミは、1419年に、霊廟は、1421年にハジュ・イヴァズという建築家によってメフメット一世のために建てられた;彼は、タブリーズ出身者、アリ、にセラミック装飾を手伝わせた。ここで再び、そのモスクは、前後に置かれた2つのドームから構成されている。2つのドーム(大きい方でも直径12.5mである)は、「トルコ襞」を持つドームに載っている。これは、正方形のベースの上に円形のドームを置くという課題の回答であり、球形断面のペンデンティブを回避するために、直線的幾何学形態のみ使っている。その結果が、礼拝堂の壁の滑らかな表面とドームの内弧面の間の、角度のある襞の反響によって生き生きと描き出された中間区域である。

ちょうど、ビザンチンの教会がインペリアル・ロッジア(皇帝の開廊:訳注)(そこで、ミサが祝われたとき、バシレウス(basileus:ギリシャの王:訳注)が、座った) を特徴とした様に、ブルサの緑のモスクには、スルタンの特別席がある ;それは、主軸のエントランスの真上に置かれており、黄金の含蓄を持つ、緑のタイルの驚くばかりの壁面仕上げで完全に覆われている。それは、スルタンが納められた一種の宝石箱を成した。この時点以降、多彩色のセラミック装飾は、もはや建物の外観に限定されることはなくなった。;それは、内部空間全体を、そして壁と天井の間の接合点にある細長いスタラクタイトさえも、覆った。非常にわずかなレリーフのエレメントが、この贅沢な装飾の中で優勢な、星と八角形のモチーフの格子を強調している。

そのエントランスは、嘗て、コラムに載せられた、5つの小さなドームを持つポーチに先導されていた。ユルドゥルム・バヤジド・ジャミのように、ブルサの緑のモスクは、中庭を持っていない。しかし、他の建物と結合して、それは、キュッリイェ 、或いは宗教的複合建築を形成している;そこにはモスクに加えてマドラサとチュルベ(霊廟)がある。そしてこれら全てが同じ基盤の一部を形成している。そのチュルベは、ブルサのイェシル・チュルベ 、メフメット一世の霊廟である。八角形のそれは、セルジュークの葬儀のモニュメントの伝統的なプランに従っている。その正門は、リブのあるニッチを載せており、ペルシャのティムール風工の様式のセラミックのモザイクで魅力が高められた、スタラクタイトとトルコ襞で飾られている。

その2つの連続するドームのプランは、ムラジェでも見られる(1426年を端緒とするムラト一世のキュッリイェのモスク)。この様式は、明らかに、ビザンティンの建物から得られており( コンスタンティノープルのサン・イレネ St Irene (エフェソスのセント・ヨハネに由来する ) ) 、イスラム建築発展の分岐点を示している。二番目のドームの下の空間の床が、持ち上げられている為に、縦軸の強調は、減じられているが、それは、痕跡を残している。一方で、「身廊」を「側廊」に結合する開口部は、この強調に釣り合っていない。

ムラディイェの装飾は、ドームのベースの襞、ペンデンティヴ(そのジョイントはスタラクタイトで覆われている)を包含している。そこには、たくさんの多彩色のセラミックのモザイクの柱脚がある。そしてそこでは青、黒、そして白色が優勢な色である。

ブルサ・ キュッリイェにおいて、ムラート二世もまた、一連のチュルベを建設した(それらののうちの一つは彼自身の霊廟となることになり、1451年に建てられた)。この為に彼が選んだプランは、儀式的巡行を容易にした ;回廊は、ドームを支える交互に配置された角柱と丸柱を囲んでいる。


反動 :エディルネのユチュ・シェレフェリ

彼がブルサで建てたモスクの11年後に、ムラート二世は、1437年と1447年の間に、エディルネで建設された、ユチュ・シェレフェリの発注を命じた。これは、二つのドームを持つ形式とは全く異なる大モスクである。この章の前の部分で述べられたムート、マーディン、そしてマニサでそれらのような建物の形式への回帰を示すように思われる。

この巨大なモスクは、65m×67m(4200u)の空間を占めており、六角形の基部に載った直径24mの巨大なドームで覆われた長方形の礼拝堂 (横長のハラン(haram)) を示している。中央のドームは、二つの巨大なピアの上に載っており、直径11mの一組の更に小さなドームによって補強されている。柱廊のある中庭は、礼拝堂の長さ全体に渡っている。

そのスケールが示するように、これは、非常に野心的な事業であった :実際、ちょっとした賭であった。中央のドームは12箇所のベイによって明かりがとられたものの、その空間の内部は暗いままであった。そして、礼拝堂はその重厚な構造に対して高さが足りず(頂上の要石は28mである)、それで全体の印象は、重く、圧迫感がある。そこでは、付加荷重負担技術の熟練度が低く、用いられたそれらは、しばしば空間的に煩わしい。六角形の側面に位置する補強三角部(分厚いアーチを持つ)は、特にこの雄弁な根拠である。そして、ドームの分節的な輪郭は、僅かに抑圧的な効果に影響を与えている。

それとは対照的に、中庭の内側のファサードを構成する柱廊(中央にチャドゥルヴァンがある)は、既に「古典的な」オスマン建築王朝の優雅なプロポーションを示している。その設計は、それにも係わらず、繊細さに関する形跡を示している :それらのドームは、異なった直径のものであり、いくつかは、その扉の存在によって引き起こされた不規則性を補うために、卵形になっている。メインエントランスの横には、礼拝堂の横にある七つつの不規則なドームと比べると、小さな九つのドームがある。手短かに言えば、エディルネのユチュ・シェレフェリ・ジャミは、前進への重要な一歩であるが、完全な成功と見なすことはできない。


バヤジド二世と彼のお抱え建築家ハイレッディン

スルタン、バヤジド二世(1481-1512)(メフメト二世征服王の王座を継承した)は、彼の名前を後世に伝えることを保証した2つの主要な建物を残した。:エディルネ・キュッリイェとイスタンブールのスルタンのモスク。彼のお抱え建築家ハイレッディン(これらの作品の推定著者 )の強烈な個性のおかげで、オスマン朝の芸術は彼の治世下に円熟に達した(オスマン建築の最も優れた傑作は幾分遅れて来たけれども(偉大なシナンの作品で))。

彼の父のように、バヤジド二世は、西側に強い興味を示した;1501年に彼は、金角湾に橋を建設するようにレオナルド・ダ・ビンチに依頼した。そのプロジェクトは、スケッチとプラン以上のものとなることはなかった。1504年頃、同じ提案が、ミケランジェロに持ち出された。彼の旅費は、フィレンツェの Gondi Bank 経由で、スルタンによって支払われるはずであった。しかし、ローマ法王ユリウス二世は、彼の出発に賛成することを拒んだ。

エディルネのバヤジド二世の作品は、1484年に建設が始められ、1488年までに終わった巨大な複合建築である。一つの巨大なキュッリイェに、二つのマドラサ、柱廊のある中庭を持つモスク、一群の薬の学校、精神障害者の為の保護施設、病院、そして巡礼者の人々の食堂が配置された。複合体全体が、モスク(それは立方体形の構造で、直径23mの単独のドームで覆われている) の周囲に並べられている。それは、 20の側面の円筒(20の窓が穿たれた)を載せる滑らかなペンデンティブによる正方形のプランとつながっている。それらは、飾り気のない内部を照らしている。別の側壁にある14箇所の開口部は、その建物が光に溢れさせられているという印象を増している。

モスクそのものは、二つの矩形のマドラサに両側を挟まれている。それらは、横断構造体(そこでは、メインホールの幅がホールと中庭の奥行きに等しい)を持っている。それぞれのマドラサの前方のコーナーに、構造体を形成する一組の内の一つが立っている。

しかし、審美的見地からすると、複合体における最も満足のいく構成要素は、その保護施設である。その北の部分は、とても優雅な非対称の柱廊を持つ中庭から成る。その南の部分は六角形の集中プランを示している(ドームと明かり窓の下に置かれた温水の浴場を持つ);建物の主要部分は、85mの長さである。この中央のドームは、12個の小さなドームに囲まれている。保護施設の非常に純粋で、厳格なラインは、整然と成形された石細工によって強調されている。

エディルネのバヤジド二世・キュッリイェ の全体の計画は、依然として幾分不規則である。しかし、ある種の制約内にある組織からの逸脱は、その魅力の一部である。彼の最初の試みとして、その後、ハイレッディンは、スルタンのために、巨大な不均質の複合建築物を設計した ;それは、イスタンブールのファティハ・キュッリイェの厳格な対称性は有していないけれども、オスマン朝の古典主義の最初の精華の1つである。

このスタイルの成熟は、(テオドシウスのフォルム・タウリであったものの上に建設された)イスタンブールのバヤジド二世のスルタンのモスクの為のハイレッディンのデザインによって更に裏付けられる。そのモスクは、1501年に着手され、明らかにアヤ・ソフィアに刺戟されている(ほんの半ば切れ端のサイズであるけれども)。エントランスと奥廊に半円形のドームを持つ中央のドームがある。生じた礼拝堂の内寸は、40×40mである :1600u。これらの寸法は、ユスティニアヌスのアヤ・ソフィア(その内部の空間は5600uである)のそれらと著しい対照を成す。

柱廊のある中庭を持つ、バヤジド・ジャミは、長さ84mで幅42mであり、2つの矩形から成っている;その「T」形を完成する、その横の拡張部もまた、長さ84mである。アヤ・ソフィアのアトリウムとバシリカはそれだけで、長さ140m、幅74mの空間を占めている。手短かに言えば、二つの建物の寸法は、大きく異なっている。しかし、バヤジド二世モスクは、ビザンティンのモデルの構造が、慎重に模倣されたことを明らかにしている。:二つの半円形のドームによって補強されたドーム、その二重のアーケードに両側を挟まれた縦長の身廊(その上には、幾つもの窓が穿たれ、ペンデンティヴによるドームに繋がるティンパヌムがある)、再使用された古代のコラム(モスクの中の両側に一つずつ、アヤ・ソフィアでは四つ)、その他。この時期から、ビザンチンの影響が、優勢となる傾向があった。

我々がオリジナルのファティハ・ジャミ とバヤジド二世のモスクを比較するならば、バヤジド・モスクもまたそのエレメントを借りている−特にメインドームの側面にある二つの巨大なコラムとバットレスのシステム−後のイスラム教寺院は、更に首尾一貫しており、更に厳格に幾何学的である。全体の効果は、全く申し分がない(内部空間は、恐らく、賞賛されるでであろうほど高くないけれども)。同じく、満足いくのは、それぞれの面の七つのドームに挟まれた矩形の柱廊のある中庭である ;その軸の出入り口は、直接チャドゥルヴァンに通じている。

ハイレッディンの作品は、シナンとスレイマンが後にぶつかる難題を強調している(スライマニヤ・ジャミのために採用されたプランの背後にある、我々のその意図の研究が明らかにする様な) 。しかし、彼の作品もまた、ビザンティンの伝統との対話(トルコのモスクの新しく独創的な概念を生み出すことになる対話)の中で、名匠建築家シナンによって始められた進展の最初の方向性を示唆している。


TURKEY

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