第5章 スレイマンとオスマン朝の黄金時代



シナン/スルタンに仕えた建築家

恐るべき、セリム一世(1512-1520)は、ペルシアのシャーを破り、クルジスタンを併合し、カイロのマムルーク朝を征服し、エジプトと聖地メディナとメッカをオスマン朝の統治下に置き、そしてカリフの称号を継ぐオスマン朝のスルタンを、ムスリム共同体の首長にした。彼の息子、スレイマンは、全ての点で、ルネサンスの支配者であった。オスマン帝国のうちで最も長い(1520-1566)彼の治世は、連戦戦勝と英雄的な武力による偉業の時代であった。1521年に、彼はベオグラードを占領した;1522年にロードス島は降伏し、ヨハネ騎士団員は、島からの撤退を強いられた;1526年に、モハーチの戦いは、ハンガリーをトルコの勢力圏に置いた;1534年に、タブリーズとバグダッドは陥落した;1541年に、中央ハンガリーは、併合された;1548年に、オスマン朝は、ペルシア人の手からバンのアルメニアの町を奪い取った。彼は、無敵ではなかった。

1529年に、オスマン朝による効果のないウィーンの包囲は、解除された。そして、1565年に、トルコ艦隊は、マルタ島の強襲に失敗し、再びヨハネ騎士団員を破ることはできなかった (3ヶ月間のオスマン朝の封鎖の背後からの不断の攻撃にもかかわらず ) 。マルタ島は、地中海における戦略的なポジションを占有し、オスマン帝国をアルジェリアの海岸 (バルバロッサとしてより有名な「バーバリーの海賊」ハイレッディン(トルコ語のハイレッティン)によって支配された ) のその領地との十分な情報伝達を防いだ。

スレイマンは、3度の個人的な悲劇を経験した :大宰相のイブラヒム(1536年に宮殿で処刑されたキリスト教徒出身のギリシャ人の奴隷)の不名誉;マニサでの ( 1543 年に )彼の息子で後継者候補、王子メフメットの死 ;そして、 1553年の次の後継者、もう一人の息子、王子ムスタファ、の処刑(ペルシアのシャー・タフマスプShah Tahmaspとの戦争の間の反逆で有罪を宣告された ) 。


特別な時代

16世紀は、画期的な出来事の時代であった( その重大さが世界中で感じられた ) 。1521年に、ローマ法王とのルターの断交は、公式に彼の破門によって確認された。1522年に、ポルトガルの海洋探検家マゼランの仲間は、最初の世界周航から、一隻で、戻った。世界は、明らかに有限の実体であり、西洋は、その権利を主張しようとした。1521年に、皇帝シャルル五世(同じくスペイン王)の命を受けた、コンキスタドールは、アステカ人の帝国を侵略した ;1532年に、今度は、インカ族の帝国が、スペインの下に下る。神聖ローマ帝国の皇帝は、今や、太陽が沈む事のない帝国を統治した。この発展に驚いたフランソワ一世は、シャルル五世を打倒するために、トルコのスルタンと同盟することを申し出た ;1537年に、アンドレア・ドリア(ベニスの艦隊の指揮官)とオスマン朝の海賊船の間の海軍の戦いは、1540 の平和協定につながった。

それは、ミケランジェロ (1475-1564)、ジュリオ・ロマーノ(1499-1546)、ヴィニョーラ(1507-1573)、そしてパラディオ(1508-1580)のような西洋の芸術家の影響がオスマン朝の宮廷にさえも感じられた時代であった。ポータル(玄関:訳注)、ドームの列、アーケード、或いは建物の輪郭に、人は、突然、そして、思いがけない西洋の工匠の影響を認めるかもしれない。

芸術が愛好された時期のなかで、スレイマンの治世は、類まれな建築の開花(不滅の輝きを持つ一連のモニュメント)によって特徴付けられた。際立った成果は、スレイマンの宮廷建築家、巨匠シナン(1489-1588)、の作品である(少なくとも、355もの建物或いは複合施設を建てた):81の大モスク、50の礼拝堂、62のマドラサ、19の霊廟或いは柱廊、17のキャラバンサライ、3つの病院、そして、7つの送水路。とりわけ、シナンは、イスタンブールのスレイマン、そして、スレイマンの後継者、セリム二世のエディルネのスルタンのモスクを建てた。セリミイェは、彼の傑作である。

スレイマンは、優れた芸術のパトロンであり優れた法律家であった。彼の法律上の遺産は、イスラム世界のうちで最も重要なものの一つである;彼は、帝国の法律制度を統一した。イスラムの国々において、彼の称号は、スレイマン壮麗王ではなく、スレイマン立法王(Kanuni )であり、彼の名声は、ユスティニアヌス(古代ローマ世界の最も偉大な立法者)のそれに等しい。


芸術的遷移

セリム一世は、征服に集中した ;オスマン帝国は、彼の治世の間に2倍の広さになった。従って、彼の建築の分野における活動は、制限された。彼の名前を持つモスクは、実際は、彼の息子スレイマンの事業であった。征服を続ける父の息子は、イスタンブールのセリミイェで彼の父の名前を守った。

誰が、セリミイェを建てたのであろうか? 或る者達は、それをハイレッディン(イスタンブールのバヤジド二世モスクの建築家)に帰す;他の者たちは、ペルシャ生まれの、アヘム・アリに帰す。セリミイェ・ジャミは、1522 年に完成された(スレイマンの治世の初期)、ハイレッディンの作品との幾つかの類似を示している。

それは、直径24.5mの単独のドームで覆われている。そして、それの左と右側には二つの矩形の十字形のマドラサ(各々が9つのドームを持っている)がある。それらの前には、短辺が六つの、長辺が七つのドームで覆われた、美しい柱廊を持つ中庭がある。2つのミナレットは、中庭とファサードの間の遷移を示している。これは、正に、エディルネのハイレッディンのバヤジド二世のキュッリイェのモスクのレイアウトである ;そこでも、中庭は、7つの横断するエレメントに対する6つの側面からなる。そこにも、中庭とファサードの間の分節部に二つのミナレットがある。そして一つに留まったマドラサも、十字形である。イスタンブールのバヤジド二世モスクのように、セリミイェは、同じ長さの縦と横の軸を示しており、その結果、その全体が、一つの正方形に内包されている。

建築家が誰であったとしても、イスタンブール・セリミイェは、その完成度にも係わらず、オスマン朝の建築言語における進歩を全く示していない。オスマン朝のモスクの完全に新しい概念は、シナンとスレイマンの協調努力を待たなければならなかった。これは、シェフザーデ・ジャミ(或いは、王子のモスク)(その建設は1543年に始まった)と共に、20年後に示された。その時まで、シナンは、主として宗教建築よりむしろ防御施設、砦、そして行政施設に従事させられていた。

シナンは、特殊部隊、 デウシルメに入隊させられたキリスト教徒出身の青年の一人であった ;これらの若者は、イェニチェリと呼ばれるエリート軍団を形成し、スルタン為の警備官と行政官に割り当てられていた。

トルコの大学者フランツ・バビンゲルFranz Babingerの言う所によれば、シナンは、アギルナスAgyrnasの村で生まれた:「オスマン人のミケランジェロは、カッパドキアの、カイセリの地域の出であることから、ギリシア人の血筋、或いはむしろ、アルメニア人の血筋であった。」。イブラヒム・パシャの下での、彼のスルタンの宮殿での奉公は、役に立った。シナンは、最初、ベオグラードの包囲と占領の間、オスマン朝の技術責任者として注目された。それ以降、彼は、スレイマンの権力中枢部の側近グループのメンバーとなり、彼の旅行時には、彼に随伴した。彼がアレッポでモスクを建てたその年。スルタナ・ロキセラナSultana Roxelana (ハセキ・フュッレム) 、スレイマンの愛する妻は、1537年に彼をキュッリイェを造るイスタンブールでの仕事に着手させた。1539年に、彼は、宮廷の主任建築家に任命された。彼は、既に50歳であった。


シェフザーデ :最初のスルタンのモスク

シナンは、最終的に正にセフザーデと共に、彼の無比の才能を知らしめた。その名前シェフザーデ( 皇太子を意味するペルシアのシャー・ザデーShah Zadehが起源)は、彼の愛する息子、王子メフメットを記念した、スレイマンによって建てられた、最初の大モスクに与えられたと言われている。その時期は、学者たちに論議されている。歴史家エルンスト・エグリErnst Egli(シナンの伝記の著者)は、建設事業が1543年に始まったことを指摘している(彼の後継者候補死の3ヶ月前)。 その構造は、数ヶ月前に決定され、プランが策定されたにちがいない ;実際、バヤジド・ジャミとファティハ・ジャミの間でイスタンブールを見下ろす場所は、その前に片付けられていた。

シェフザーデのスケールとポジションは、記念という要望を越えていた(皇太子の要望さえも)。長さ185m、幅120mのエスプラネードに建てられたそれは、90m×50m(ほぼ1ヘクタールの半分)の大きさである。その大きさにおいて、シェフザーデは、ファティハ・ジャミ( 96m×56mのそれは、長年にわたりイス タンブールにおける最大のオスマン朝の建物であった ) に匹敵する。シェフザーデは、恐らく、スレイマンの最初のスルタンのモスクと見なされるべきである。

それは、賞賛に値する建築的偉業である。シナンは、それを彼の傑作であると考え、それは、彼に建築家(トルコ語のミマル)の称号を彼にもたらした。しかし、シェフザーデが完成される以前1548年に、スレイマンは、新しいスルタンのモスクの建設を命じていたように思われる。彼は、彼の威信を高め、彼の支配の象徴として立つであろう建物を望んだ(我々が立ち返るべきポイント)。何はともあれ、2或いは3年の後、スレイマニヤに係わる事業が始まった。

この時点で、当時完成に近づいていた最高のモスクに対する目的が求められた為、スルタンは、あまりにも若くして死んだ彼の息子を偲んでそれを捧げた。スレイマニヤの建設の間、シェフザーデは、このようにスレイマンの絶対的権力のシンボルのままであり、そして、スルタンとカリフとしての彼の役割における、支配者が出席する華やかな宗教儀式の要求を満たすことができた。

シェフザーデのデザインは、再び、オスマン朝の伝統とアヤ・ソフィアのビザンチンの規範の間のやり取りの産物である。2つの先例は、それに影響を与えた。一つ目のものは、イスタンブールのバイェジト・ジャミのための建築家ハイレッディンによって使われた形式であった :縦長の身廊を造るために、エントランスと奥廊にある二つの半円ドームによって補強された中央のドーム。二番目のものは、ファティハ・ジャミの為のアティク・シナンのデザインであった。そして、そこでは、正面の半円形ドームの省略が、伝統的な長方形の礼拝堂の創造を可能にした。

シナンの解決法は、(それぞれが9つの窓を持つ)半円形のドームで補強された14カ所の窓のある、直径19mの中央のドームであった。彼は、このように二重のトレフォイル(三つ葉:訳注)形式によって集中式プランを得た。中央のスクエア(区域:訳注)は、滑らかなペンデンティブによるドームの円とつながった大アーチによって支持されている ;そのドームは、 4 つの頑強なピアの上に載っている。「アプス」を形成する半円ドームは、 45度の角度で曲げられた一組のスキンチに両側を挟まれている。4つのコーナーの各々では、更に小さなドームが、対角線の対称形を成す。最終的に、横面のギャラリーは、建物の各面から突きしている。そしてそこでは、細長い小柱が、開放柱廊のアーチを支えている。

その成果が、統一された外見を持つ正方形の中央のホールである。外から見ると、そのモスクは、ドームのカスケード(翼列)となって見える。北西のファサードにある、これらは、柱廊のある中庭(それらもまた正方形で、4つの面の各々に5つのドームより成る)への、つなぎ目のない遷移を創出している。このように、礼拝堂のピラミッド型のマッスは、( モスクへのエントランスを形成しチャドゥルヴァンを構成する )柱廊の「空洞の」空間に調和している。

シナンによって発明された形式は、完璧である。その建築家は、奥行きより幅のあるように思われる、従って、イスラムの礼拝堂の要求を満たす、ホール(調度品(ディッカ或いはミンバル)が置かれた)を達成した。他方で、そのデザインは、礼拝堂と中庭を均等にし、それらの接合部は、二つのミナレットによって示されている。設計の耐力特性は、格段に優れている;それは、調和がとれた推力の配分を具現化している;建物の全ての面が、同じである ;不安定になろうはずはない。ティンパヌムも、コラム(再使用されたものかそうでないもの)も、建物によって造られた明瞭で軽快な印象から注意をそらす他の異質分子もない。多くの窓によって生じた明るさは、アヤ・ソフィアの暗い内部とは、全く対称的である。シェフザーデは、疑いなく帝国の権威を有している ;それは、明らかにスルタンのモスクあり、その全てのディテールが、その隅々までの出来を如実に物語る。


スレイマニヤとそのビザンチンのモデル

いったん、ビザンチンのカピトリウムに占有されたかつての場所で、1550年の6月15日に、スレイマニヤの建設事業が始まった ;古い宮殿は、それに置き替わり、火災によって、それ自体は、1541年に破壊された。その場所は、金角湾の上の岬であり、キュッリイェとモスクは共に、350m×280m、或いは8ヘクタールを超えるエリアを占めた。その場所の地表は、不規則で、その建築家は、マドラサと他の建物の配置調整をその土地の形状に適合させなければならなかった。スルタンのモスクそのものは、108m×73mであり、そのドームの最も高いポイントは、54mである。それが置かれたテメノスは、(もし我々が庭園共同墓地とそのチュルベを入れるならば)216m×144mの広さである。

スレイマニヤ関しては、シナンはバシリカ形式のプランに戻した。創造された空間はアヤ・ソフィアのものの様である(二つの半円形のドームによって縦方向で、ティンパヌムを支持するアーケードの背後の側廊によって横方向で、補強された、中央のドームを持つ)。アヤ・ソフィアでは、側廊は交差円筒ヴォールトであった( 上部ギャラリーを持つ) のに対して、シナンは、ドームを選んだ。双方の建物共が、中庭を持つ或いは持っていた;一方で、ビザンチンのアトリウム(消滅していしまった)、他方でオスマン朝の四つ側面を持つ柱廊(それは短い面に七つのドームを持ち、長い方に九つのドームを持つ);双方のケースにおいて、その成果が、長方形のオープンスペースとなった。

その2つの建物は、同じ大きさであるが、スレイマニヤは、全体ではより小さい。これは、それ自身の含意を持っている。そうできたにも係わらず、シナンはアヤ・ソフィアを超えようとしなかった様に思える(彼が、エディルネのセリミイェで示した様に)。それらの寸法が、二つの建物の間の類似が一般的に考えられてきた様なシナン側の挑戦を示していないことを明らかにしている。1 階のエリア:アヤ・ソフィア、140m×72m、スレイマニヤ、108m×73m;身廊の長さ :65mに対して85m;ドームの直径 :27mに対して31m;フロア‐レベルの上の高さ:54mに対して56m ;外部中庭空間:46m×32mに対して48m×33m。

それらの建物は同じようなエレメントで構成されているけれども、シナンのデザインは、彼の規範のそれとは違っている。このように、アヤ・ソフィアにおける(側廊と上部のギャラリー(それぞれ12mと10mの高さ)と絡んだ)横方向の処理は、非常に複雑である。身廊の長さを強調する、このコラムの森(各面に8つ)は、「カーテン」効果を創出している。シナンは、横方向の拡張美部 ( それは、両側の2組のコラムによってのみ分断され、一気に30m立ち上がる側廊に通じている)を強調する手法を採った。

ビザンチンのバシリカにおいて、ドームとヴォールトの内弧面は、単一の連続した面を形成する(それは、それらが造る空間を統一感を与える)。スレイマニヤにおいて、シナンは、(交差)穹稜部を強調することによって構造の様々なコンポー ネントを明確にしている。アヤ・ソフィアにおいて、45度の角度をなしてアプスを上方へ拡張するスキンチは、アーチとコラムによって載せられており、一方で、シナンの作品では、中間の支持材の省略は、身廊と側廊のより完全な融解を示している。そして、シェフザーデと同様に、モスクの透明感のある明るさは、教会の暗く神秘的なものとは著しく異なる。トラレスの アンテミオスAnthemiosとミレトスのイシドルス Isidorusによって532年に考案されたプランは、シナンの手で変えられた。


モスクの象徴的な特徴

権力の極みにあった、スレイマンは、多くの点で10世紀前のユスティニアヌスそれと類似する広大な帝国全体を統治した。スレイマンは、ビザンチンの皇帝とイスタンブールの皇帝の間の系譜に非常に強い関心を持っていた。スレイマニイェ・ジャミで表現された記号学的連続は、文字通り記念碑的な方法で、彼を、傑出した前任者に連結した。

実際、スレイマニイェは、スレイマンによってアヤ・ソフィアに沿って考えられた 。このシナンによって変形された伝統を誇る聖所の復興は、オスマン朝の都市のロマノ‐ビザンチンのルーツへの回帰を成した。帝国の伝統によってスレイマンの身元確認の象徴的な証を示す、そのモスクも、オスマン朝の芸術を高めた。

この伝統へのスレイマンの関心は、やはり、正当性についての懸念を反映した。神話的な系図のつながりは、ユスティニアヌスとスレイマンの間で確立された。そして、これも、象徴的表現を持つ意味深い建築オーダとスレイマンの関係を証明する。中世には、ユスティニアヌスのアヤ・ソフィアがそれ自体、エルサレムのソロモンの神殿の類似物であると確信されていた。そして、イスラムの伝統において、その名前、スレイマンは、ソロモンの名前と等価であった。スレイマンは、このようにソロモンの遺産をユスティニアヌスの遺産と結合した。

スレイマニイェの建築は、この解釈の確証を提供する。スレイマニヤは、アヤ・ソフィア(その規範である「エホバの神殿」に対しての象徴的な引例を持つ意味深長な建物)のプランを明白に引用している。その類似物は、このように究極的に「エホバの神殿」が源であり、直接ソロモンに繋がっている。そして、ソロモン( 帝国の支配者の原型としてコーランの中で復権させられた) の引例は、スルタンに神授の王権を与えた。

中央ホールのティンパヌムを支えているコラムは、過去の伝統に基づいた「神殿」を建てたいというスレイマンの強い願望を例証している。古典様式のコラムを利用することによって、彼は、イスタンブールの過去の傑出した伝統との物理な関係を確立した。これらの「示唆」は、当時の文献の中の古典の著者たちからの引用のように働く。

ビザンチンにおいて、そして、続くイスタンブールにおいて、ロマノ‐ビザンチンのコラムは、神話的意味を示した。ピンク色のアスワン花崗岩(斑岩、帝国の石 parexcellence としても知られている ) のこれらの豪華なコラムに付けられた伝説は、それらに、神話が起源の威信をしみ込ませた。奇妙な物語が、それらの由来について語られた。Constantinople Imaginaire(Patria の収集の研究)において、歴史家ギルバート・ダグロン は、アヤ・ソフィアの構造に纏わる神話の説明をし、8本の「ローマの」コラム (ローマのアウレリアヌスの神殿から持ってきたと言われている)の起源について寓話を引用している。

Ernest Mamboury は、スレイマニヤの中央のホールの4本のコラムを参照する一連の文書を引用している。それらのうちの1つは、純潔のコラムとして知られており、そして、聖12使徒教会の近くに立っていた ;二番目のものは、皇帝の宮殿に由来するものと考えられており、嘗て皇帝の像を支えていた;その他の二つは、アレクサンドレッテAlexandrette(現在のイスケンデルン)から持って来られたと言われていた。

他の伝説(ビザンチンとオスマンの)が、更にこれらのコラムの意味を豊かにした。幾人かの著者は、それらは、 キュジコスのハドリアヌスの神殿(世界の八番目不思議であると考えられた) に由来すると、述べている。他の者たちは、それらを、ソロモンの玉座、或いはクテシフォンとハランや、アブラハムの土地や、アレキサンドリアやバールベックの都市の遺物と考えた。手短かに言えば、それらは、正に物理的遺産の形をとった正統性の保証となった。

従って、スレイマンは、彼の地位の象徴的な具現化として、この第2のスルタンのモスク(その象徴的な重要性によって最初のものを凌ぐことになったもの)の建設を命じた。シェフザーデにおいて、シナンは、彼の才能を存分に発揮した;しかし、彼は、帝国の遺産 (彼が、他の皇帝、シャルル五世、との正統性を競う為に、スレイマンが身に纏った)をその構成に統合しようとはしていなかった。


詳細に見るスレイマニイェ

スレイマニイェの外観は、多くの点でアヤ・ソフィアのそれとは異なっている。しかしながら、ビザンチンのバシリカとシナンのモスクとの比較は、我々に、前者のある特徴を復元させる。このように(例えば)、アヤ・ソフィアの中庭やアトリウム(その建物の審美的な構成において重要な役割を果たした)は、もはや残存しない。そして、ムスリムによって加えられた、ややこしいミナレットは、その内部空間に基づいて判断されるべき建物の外観を大きく修正している(その全体の像に比べて、つまるところ、幾分低く、満足いかないシルエット);そのドームは、過度に突き出し、ヴォールトは、いくぶん重く、ずんぐりしたマッスを形成している。

スレイマニイェの聳え立つ半球体ドームは、対照的に、とても優雅である。その優雅さは、中庭の各コーナーにある四つのミナレットによって高められている(それは、礼拝堂によって占有された空間に対置する何もない空間の輪郭を描いている)。そのミナレットの美しさ(その細長い多角形の柱は63mと81mの高さに達する)は、シナンの技能を証明している。それらの高さは、スタラクタイトのヴォールトに載っているギャラリーで分節されている。

シナンは、通常、半円形のビザンチンのアーチよりも僅かに尖ったアーチの方を好んだ ;それが与える緊張感は、構造を軽快にする役割を担った。これは、ドームを載せた内部の大アーチと中庭に沿って並んだ柱廊の双方に当てはまる。明るさについての同じ関心事は、建築のコーナー、ヴォールトの基部、そしてコラムの頂部(そこの、幾何学的形態の柱頭は、紛れもないムカルナスを纏っている)、にあるスタラクタイト細工の使用に反映されている。

そこには、実際に、スレイマニイェの系列にある、イタリアのルネサンス建築からの注目に値する影響がある。これは、特に、アーキトレーヴのサイマレクタ(上半部が凹, 下半部が凸の波繰形/訳注)の輪郭、アーケードのスパンドレル、そして中庭のコラムの彫刻されたベースに当てはまる(それは、古典的手法のトリtori(大玉縁)とスコティアエscotiaeの特色をなす) 。しかし、シナンの作品は、それでもなお、独創的である。例えば、所々にある壁の頂部に沿って水平に走るモールディングは、時折、 1つの層ともう一つの層の間の連続を強調する垂直に下降する延伸部を持っている。これは、古典的建築がかつて熟考したであろう解決法ではない。

究極的に、シナンの作品は、大いなる潔白さを示す。壁の材料は、常に視覚的にはっきりと理解できる(実際、それらの純粋さと節度のために高められている)。礼拝堂の内側からも見える、石工細工は、細心に行われた。辛うじて知覚できる層は、一枚岩に彫られたレリーフの痕跡を与える為に、石灰石の等質性と融合し、全体の効果は、図形の明瞭さを持っている。これは、アヤ・ソフィアの壁を覆う多彩色の壁面仕上げとモザイクとは、明らかに、対照的である。


広大なキュッリイェ

スレイマンとロキセラナRoxelana(彼の妻)のチュルベ(霊廟:訳注)を囲む区域に加えて、シナンのサルタンの複合施設によって占められたそのエリアは、一般的なキュッリイェの建物群から成る。その土地は、キュッリイェの「基盤」が不規則なダイヤモンド形を形成するように、両側に傾斜して下っているので、その建物群の方向はモスクによって規定されている。

浴場或いはハンマーンを除いて、そのレイアウトは、直線の状態を残している(しかし、軸に沿ってはいない)。スレイマニヤのミナレットの一つの頂上から見ると、そのドームの集団は、多くの中庭の輪郭となっている。東と西に、5つのマドラサがある;北には、病院の診察室、巡礼者たちの食堂、そして書店及び図書館がある。これらの低い建物には、概ね、中央の柱廊のある中庭がある(そこから人々は、複数のドームが架けられたホール或いは個々の部屋に至る) 。

モスクを囲む成木と芝生の間にバランスよく配置された、スレイマニイェの複合施設は、まばゆい建築的偉業である。そのメッセージがなんであろうと、スレイマンのためのシナンの作品は、その並外れた才能に恵まれた建築家の不足のない量目を与える。シナンとスレイマンの親密で、信頼に満ちた関係は、この複合施設の創造にとって極めて重要であった(そして、それは、たとえ西欧に同時代のライバルがあったとしてもごく少ない) 。このスケールでの事業を設計し実行するを誇れる、ルネサンスの芸術家がいるだろうか ?

その複合体施設を迅速に完成させた1つの要因は、シナンに対する利用可能な信頼できる財政的支援であった。建設には10年も満たない。トプカプのアンナルスAnnalsは、2500人の労働者、キリスト教徒とムスリム(彼らの全てに賃金が払われ、徴収された者はいない)がその場所で労働したこと、そして、彼らが5,500,000人日働いたということを、我々に告げている。


工法的技術

シナンは、砕石工、石積工、石彫工 、作業員、そして全ての種類の公共事業における専門業者たちから成る、この目を見張るほどの要員を使った;宮廷の主任建築家としての役割の中で、彼は一種の労働大臣であった。一つのそのような事業の分野が、「水の建築」であった :送水路とハンマーン(公衆浴場;訳注)。イスタンブールの市民の生活水準を向上させることを意図する、これらは、16世紀半ばの建設事業の大部分を占めた。

シナンの水力工学の偉業の中には、首都の送水路のネットワークがあった。オスマン朝の首都として栄えた世紀に、イスタンブールは、賑やかで人口の多い大都市になり、水の需要は、著しく増加した。大量の泉(セビルsebil が礼拝所の固定装置であった) とハンマーン(公衆浴場)が造られた:これらの施設は、多量の水を必要とした(時折、送水路によってかなりの距離を輸送された) 。

人口に適応するスケールでの水の供給とイスタンブールの新しい施設は、二つの取り組みにつながった。一方で、ロマノ‐ビザンチンの送水路(ヴァレンスValensの送水路のような)は、系統的に修復された。他方で、新しい事業が、ベオグラード・フォレストと呼ばれた低地を繋ぐ為に、町の北東で始められた。
これらの新しい送水路 (それらのトルコの名前はウズンケメル(長い送水路 ))は、1563年に遡り、長さ716 m高さ26mの二段のアーケードから成る。もう一つ別のもの、エーリケメル(「曲がった送水路」)は 、長さ342mで、地上35mの水路を載せた三段のアーケードを持つ。(粗造りの石積と半円アーチを持つ)これらの2つの工作物は、優れた技術の功績である。

これらの工作物は、イスタンブールの公衆浴場の給水を供給した。1つのハンマーン(公衆浴場)は、 シナンによって設計され、アヤ・ソフィアの反対側に立っている。スルタナ・ロキセラナの命で造られたそれは、 ハセキ・ヒュッレム(彼女のトルコの名) のハンマーンで、 1556年に建設され、美しく修復されている 。それは、左右対称に考えられた(一方は男性用、もう一方は女性用)。それは、 ( 順番に、外側から )プールのある入口ホール、八角形のドームの下のスチームバス、そして、マッサージ、脱毛、美容の為の機能を持ったキャビンを持つ化粧室より成る 。これら全てが、ドームが架けられたホールであり、そして、それら全てが、もう一方の側で再現されている。慣例に従って、ドームが架けられた空間には、小さな鉛の屋根に開口部(頑丈な円錐形のはめ込みガラスが嵌められた)がある 。

シナンの公共事業のなかで、我々は、ダマスカスでスレイマンのテッケも言及するべきである。テッキイェ或いはテッケという言葉は、修行者の為の修道院に関係している。しかし、この場合、その建物は、メッカへ向かう途中の巡礼者を収容することを意図していた。1553年に創設されたこのキュッリイェは、約100m×150mの広大なエリアを占めている(その後ろには、二つのミナレットに挟まれた美しい単独のドームが架けられたモスク立ち上がっている。) ;それには、4コラムの玄関ホールと12本のコラムに支えられた突き出したキャノピー(その内の二つは、それぞれの側で玄関ホールの主軸と直角に交わっている)がある。これは、中庭の中心にあるチャドゥルヴァンの前に置かれている。ドームが架けられた部屋の列は、中庭の両側にある優雅な柱廊に面している。その場所のもう一方の端 (バラダ川によって縁取りされている)のモスクに面して、食堂に両側を挟まれたイマレト(巡礼者の宿坊:訳注)が立っている。


シナンの独創性

相当数の労働者(シェフザーデとスレイマニヤの建設のために、シナンによってイスタンブールによって集められた ) は、すぐに、同様の事業にかかるように配属された。これに関して、シナンは、彼らを解散せよというスレイマンの命に強要された時点で、革新的方策をとった。スレイマンがスレイマニヤに与えようと試みた象徴的な意義は、シナンに、彼自身の直感に従うことを、そしてアヤ・ソフィアの原型から距離を置くことを、抑制していた。今度こそ、彼は、自身の為の探求に戻ることができた。

16世紀の半ば頃に、大宰相アフメト・パシャ彼に、 マルマラ島と金角湾の中程のランド・ウォールの近くにモスクを建設するように依頼した。その仕事は、やっかいな経歴を持っていた :シナンのパトロンは、1555年に殺害され、そしてそのモスク(カラ・アフメト・パシャ・ジャミ)は、約10年後に完成させられた(元々計画された大きさより小さなものとして、その時まで、資金が不足していた為)。

このデザインの特徴的な様相は、4つの半円形のドームに両側を挟まれた六角形のドームである ;全体の印象は、長方形のホール(28m×18m)の中に配置されたバルダッキーノのようである。そのドームの六つのコーナーは、再利用された古代の赤色花崗岩のコラム(壮麗なスタラクタイトの柱頭を持つ)の上に載っている。

このように造られた内部空間(高さ約20m)の均質性は、周囲のコラム以外に全く支持材を持たない、注目すべき技術的且つ審美的な偉業である。その補強は、キブラ壁を完全に垂直にしておく、二重の壁のシステムによって形成されている。これは、屋根の頂上から基礎へ向かって下降するピラミッドのマッスを形成するドームの「カスケード(滝状のもの:訳注)」に関する、注目に値する発達である。

シナンは、王女ミフリマフ、スレイマンの娘、に捧げられた、注目に値するモスク(エディルネ門の近くに立っている)の堂々とした中央ドームの形式に戻った。工事は、ミフリマフの死後、1558年に始まり、1562年と1565年の間に完成させられたと考えられている。それは、実に大胆な事業であった。この時期に、長方形の礼拝堂の大きさは、22m×33mで、ドームの頂部は、舗装された床上、38mであった。

そのプランは、非常に大きな柱廊のある中庭 ( 礼拝堂より、両側で、ずっと広い ) が前にある、長方形のハラームであることを示している。中央ドームの両側には、三つの小さなドーム(トリビューン(演壇:訳注)を側廊の上に配置することを可能にした)がある。キブラは、それ自身が開口部を持つティンパヌム(ドアの上のまぐさとアーチの間のスペース:訳注)を支持している。両側の、3連のアーケードは、赤色花崗岩の2つの重厚なコラムの上に載っている;それらが、今度は、同様のティンパヌムを支えている。元来、同じものが、モスクの後壁にも該当した。しかし、地震による損壊が、再建を必要とし、その結果、、いくつかの窓が「サーマルウンドウthermal windows」になった(全てを犠牲にして) 。4つの外部のピアは、中央ドームの積荷を受けている、そしてそれは巨大なペンデンティブによってその基部に達している。主席大臣のモスクと同様に、ミフリマフ・ジャミは、キブラ壁にの中に明白な補強材はなにも持っていない。これに反して、キブラは、完全に垂直で、ほとんど透けて見える。そうして、それに穿たれた窓は数えきれない程である。同様に、ティンパヌムの中に19の窓、そしてキブラそのものの中に同じ数のベイがある。それぞれ側壁と中庭のファサードは、それぞれが、また同じ数の窓を持っており、そのドームのベースには24の開口部がある。その結果、風通しの良い空間は、約200の窓からの光で溢れている。その内部空間には、透明感がある;
それは、まるで、その構造が重力を無視して空中に持ち上げられた蜘蛛の巣であるかのようである。

シナンのミフリマフ。ジャミに於ける様式的なレパートリ(ドーム、ペンデンティブ、そしてティンパヌム、アヤ・ソフィアの特徴でもある)にも係わらず、彼のモスクは、驚くほどの革新的であり続けている。ここには、我々に、アヤ・ソフィアの建築家たちの技術を思い出させるなにものもない。ミフリマフ・ジャミは、技術的、空間的啓示である。

スレイマン壮麗王の死の前1566年ですら、72歳の、スルタンの建築家は、なんとかビザンチンの模範を離れたオスマン朝の建築を得ようとしていた。


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