第6章 /スレイマン二世下のシナンの全盛時代の活動



エディルネのセリミイェ

スレイマンの死の時までに、オスマン朝の建築は、シナンの一層更に創意に富んだ設計においてその極致に達した ( 一連の非常に優れた建物で実現された) 。エディルネのセリミイェの落成式の時には、既にシナンは85歳の老人であった(彼は十分な能力を保ってはいたが) 。彼は、建築に革命をもたらした(それによって(それにも係わらず)非凡な彼の先行者たちは制限されてきた、限界をあらゆる点で越えようとする)。彼らが好んだバシリカ型のプランは、比類なき明るさと調和を与える集中式プランに置き換えられた。

我々の目先を、彼が1566年以降に建てた傑作に向けてみよう ;それらは、一層、複合的な技術を反映する、彼の熟練した見事な実例を示している。我々はまず、1570年〜1572年に遡る、イスタンブールのソコール・メフメト・パシャ・ジャミから始め、次に1577 年に落成したイスタンブールのアザプァプ・ジャミに進み、最後に(技術に関して) 1574年に完成したエディルネのスレイマニイェに進もう。

最初の二つのモスクは、大宰相ソコール・メフメト・パシャによって委託された(彼は、1565年から1579年(その年、彼は暗殺された)までオスマン朝の宮廷の中で最も高い地位を占めた)。メフメト・パシャは、ボスニア出身で、生まれはキリスト教徒であった ;彼は、既に、スレイマンの治世の最後の年にはオスマン朝の政務の責任者で、セリム二世(1566-1574) の治世を通して、そしてムラート(1574-1595)の治世の一期間に、官職を統括した。スレイマンの死を巡る困難な況の中での、スムーズな権力の移行は、かなりの程度まで、ソコールによって演じられた役割に負うものであった。スレイマンは、セゲド(現代のハンガリー)で包囲攻撃を行なっていたその時、彼は、90000人の男と300台の大砲から成るトルコの陣営を指揮している最中に、死亡した。権力へのセリムの継承は、オスマン朝の王朝史において最も劇的な瞬間の1つである。

彼の大宰相は、スルタンの死を彼の側近に隠し、依然として主人の命に従ってかのようなふりをした。彼は、その一方で、セリムに告げた。そして彼は亡き父の王座を継ぐために43日の間、キュタヒヤからアナトリアに移動した 。スレイマンの他の息子たち、ムスタファとバイェジト(双方共がセリムより疑いなくずっと有能であった)の早死は、その後継者となる者が売春婦で囲まれた大酒飲みであることを意味した。そして権力の支配権は首席大臣の手に残った。

ソコール・メフメト・パシャは、法廷の最高位の建築家としてシナンを留任させ、実際に、二つのモスクを依頼した(彼はそれを首都に寄付した)。これらの二つの作品(それらのどちらも、さほど大きくない)の面白さは、シナンがそれらの建設に使った新しい技術にある。


ソコールとイスタンブールのアザプカプ・ジャミ

(正方形の基部の上の4つのコーナーのピアに載せられ、球形の断面の滑らかな三角形のペンデンティヴによってドームの基部と連結させられている)単独のドームを持つミフリマフ・ジャミは、この時期に至るまでのシナンの最も革命的な建物であったに。ソコール・ジャミにおいて、彼は、15年前のカラ・アフメト・パシャ・ジャミ六角形の形式に戻った。しかし、彼は、中央のドームと側面の二組の半円ドームに、より卓越した統一性と一貫性を与えようとした。これは、主として卓越したエレヴェーションによってもたらされる。シナンは、ここで、六角形のドームに戻った ;その120度の角度は、1つの曲面からもう一つの曲面への移行を和らげている。これは、礼拝堂の中心部とその側面の拡張部との卓越した統一感を生み出し、シナンは、この様にして賞賛に値する一体感を獲得した。

斜面(ボスフォラス海峡からそう遠くない、競技場からの下り坂)に建てられた、ソコール・メフメト・パシャ・ジャミは、訪問者を驚かせる。85m×65mの球形とモスクを囲む(柱廊のある中庭のある)区域へのアクセスは、一種のトンネルを形成する階段で造られている。この通路は、テッキイェの建物の下を通過する、8m上の中庭へのエントランス(その場所で最も低い地点にある)に繋がっている。訪問者は、その通路から出現し、気がつくと、個室に面しているアーケードで囲まれ、まるで白昼の日の光に照らされたかの様なモスクのファサードを見せつけられる、中庭の中立っている。そのモスクは、七つのドームが架けられたベスタビュール(玄関廊:訳注)と内弧面がイズニックタイルで覆われた一つのドームによって蓋をされたスタラクタイト工芸のポータル(正門:訳注)を持っている。

入口に経て進むと、訪問者は、長方形の礼拝堂の見かけの大きさに驚く(その控えめな大きさにもかかわらず) :14m×18m、そして要石までの高さ25m。キブラは、白地 に青い花を示すタイルで覆われている(その真上の、ティンパヌムは、二列の3つの多彩色の窓によって明かりを採っている) 。それぞれの面に、その建築家は、内部柱廊(六角形のアーチの側面に位置する組の半円ドームを戴く)を備えた 。側面の構造部のペンデンティブがスタラクタイト工芸で覆われている点に注目しよう。ホールの横断軸もあり巨大な柱は、アーチの起拱部を支持している。中央ドームの6つの滑らかなペンデンティブは、イズニックタイルによって装飾され、その基部には、20の窓がある。実際、そのモスクのたくさんの窓は、ドームから下向きに、光でそれを溢れさせている。

ソコール・ジャミは、空間の一体性(六角形のドームを用いて達成することができた)を示した。(イスラム建築の最初期の間の)長方形の礼拝堂の伝統が保たれているにも係わらず、ここでは、垂直性に特別な重要性が与えられている。手短かに言えば、ソコール・モスクは、シェフザーデとスレイマニイェの双方の伝統との関係を断つことを示している。それは、エディルネのセリミイェ (それも六角形のプランを採用している) の徹底した表現を見い出した、新しい可能性を例証する。

シナンが試みた様々なデザインの中で、八角形のプランは、特別なメリットをもっていた(建築家に主軸のアプスと対角にあるスキンチを交互に配置することを可能させたもの)。イスタンブールのアザプカプ・ジャミは、明瞭にこの仕掛けを例証する。金角湾のガラタ側に位置する(スレイマニイェの反対側)、このモスクは、造船所の労働者のためのものであった。それは、比較的控えめな大きさである。ホールの最も高い点は、17.5mで、その最も長い面は23mである。この長方形のスペースの後にある、ミフラーブは、一種のアプスを成している。1つのドームの荷重は、2つの巨大なピア(このアプスと6つの八角形のコラムを構成する)の間で配分されている。それは、ポインテッドアーチの頂部によって持ち上げられている。それは、このように、エディルネのセリミイェで採用された形式の小型の変異形を形成している(それは建物の権威に欠け、セリミイェを特徴付ける自明の正当性的意味を持っていないけれども)。


セリミイェのデザイン

スレイマンが1566年に死亡したのに続いて、工事がエディルネでセリミイェで遅くとも1567年には始まったので、シナンのデザインは、情況が彼にそれを実現することを可能にする以前に、すでにあらましが描かれていた様に思われる。 その機会が訪れたのはエディルネ(首都の北西225q)においてであった。オスマン族にとっての、この都市の重要性は、ハンガリー方面作戦の最前線に近い砦としてであった。セリミイェは、イスラム教の旗手となっていった。

1568年は、トルコのパワーの更なる発展が祝われる年であった。条約は、皇帝マクシミリアン二世(毎年30000枚のダカット金貨の貢物をセリム二世に支払うことに同意した)と調印された。そして、使節団がペルシア(同様に平和条約を獲得することを切望した)から受け入れられた。

サブリメ・ポルテの政策において、エディルネが担った重要な役割は、従って、スルタンのモスクの建設に充分な価値があった。戦争の成果によって、そして貢金によって、賄われた工事は迅速に進んだ ;1572年までに、ドームを支えるアーチが完成され、1573年にそのドームそのものが設置された。落成式は、次の年に行われた。

セリミイェは、長方形のテメノス(200m×110m)の中の高台の上に立っている;その区域の中央に、中庭を持つモスクが、モスクの東の角(キブラの端に)に二つの四角いマドラサがある。1580年頃に、建築家ダウド・アーは、バザール(市場:訳注)を持つキュッリイェを完成した(それは複合施設の長い南側にそって走る) 。ダウド・アーは、シナンの弟子(ムラート三世(1574-1595) の下で仕えた)であった。

エディルネで、シナンは、耐力構造を彼の以前の建物でより、更に整合させ、中央ドームのそれぞれの面にある四つの極端に細長いミナレットを据えることによりその構成材のコンパクトなヴォリュームと対称性を強調することにした;そのコントラストは、建物の垂直のマッスを強調する。シナンは、このように、建物に強力な垂直方向の動的性質を与え、ピアを補強する役割を担うミナレットを利用することによって、素晴らしい構造的効率性を明白な垂直性の強調と結合した。

建物全体は、長さ100m、幅68mである ;礼拝堂は、奥行き35m、幅46mである。舗装された床から測られたドームの最も高いポイントは、44mである。そのドームの荷重は、半ドーム(直径約12m)のスキンチによって対角で支えられた8つのピアにのる八角形の基部に載っている。これは、シナンに、巨大なペンデンティヴ(彼が他の場所で使った)なしで済ませ、従来の長方形の内部空間の中で、より素晴らしい空間の感覚を与える構造を創造することを可能にした。その礼拝堂は、このようにして、統一感を増した。

実際には、八角形をドーム円形の基部と四つの巨大なコーナー・スキンチの基部と連結する角度にペンデンティブがある。しかし、それらは、それらを覆うスタラクタイト細工によって隠されている。そのドームは、直径31.5mである(そうして、アヤ・ソフィアのそれを半メートルだけ越える)-後者は、12mほど更に高く、わずか4つのピアの上に載っている。もう一度、我々は、シナンがアヤ・ソフィアを目標として扱わなかったことに注目する ;彼は、その建築家トラレスのアンテミオスとミレトスのイシドルスを凌ごうとはしなかった。その代りに、彼の対象は、新しい形の屋根(そこでの中央ドームは、半円ドーム或いは側廊を補強する必要がない)を念入りに造ることであった。アヤ・ソフィアと対比すると、八角形の四つの軸上にある面とホールのコーナーにある、窓が穿たれたティンパヌムは、静穏な尚一層の光をもたらしている(ドームの基部ある32の窓によって入れられたそれに加えて) 。

ミフリマフで、シナンは、光に溢れた礼拝堂を造った。殆ど細部に至るまで、セリミイェは、透き通ったシェルである ;270を超える窓がある。このように光をあてられた、礼拝堂は、透明な、ほとんど実体のない種の、重さのない構造体のように思われる。これは、非常に質の高い建築である ;西洋のルネサンスでさえも、比肩する芸術の熟達を示するのに苦労している。

いかにして、シナンは、ドームの重さによって発生した推力の問題を解決したのだろうか ? シナンの構造(実は、彼の建築言語への)への鍵は、内部の補強壁である。そしてそれは、彼を二重のシェル構造を造るように導いた。この1つの発現が、礼拝堂を囲み、主要なピアの背後を抜ける柱廊である。それらは、それらの機能が目に見えず、全体構造のなかに姿を消すほど完全に建物の形態に統合されている、目立たない内的補強の形態を造っている。

礼拝堂の統一感は、特筆すべきである。そこには、穏やかで、透明な空間 をかき乱す様な、下位区分が全くない(それは従って一枚岩的な印象を与える) 。それは、驚くべき妙技の産物である。更なるシナンの偉業の追認は、内部のリズムの形で提供される :小尖塔を戴く八角形のピアでの、マッスとヴォリュームの演出、そして、大きな僅かに尖ったアーチの下の幾つものティンパヌム。セリミイェは、さらに、迫力のある、殆ど妨げるもののない、垂直方向の力を示している。

シェフザーデと同様に、柱廊のある中庭の表面積は、礼拝堂の面積に等しい。しかし、ここでは、双方のエリアは、長方形というより正方形である。その中庭は、エントランス側に沿って7つのドーム、それぞれの面に5つ、そして礼拝堂に接して5つのさらに大きなドームを持っている。その中央には、16の面を持つ大理石のチャドゥルヴァンがある。それらのコラムは、スタラクタイトの柱頭が被さっており、優雅な柱廊を支えている。礼拝堂の反対側で、シナンは、エントランスを形作る2組のコラムに基づく左右対称のリズムを選択した。その事実は、同じパターンが多くのキリスト教会に備わっている(「神殿」に関する概念に帰するソロモンの象徴的表現)が故に、注目に値する。シナンは、スレイマニイェの時に同様に、これに影響を受けたのであろうか? 同じ選択が、礼拝堂の内陣の奥廊の側面(ミフラーブを内包するアプスの両側)に位置する柱廊でなされた。

シナンには、疑いなく傑作と言えるものを建てた時でさえ、まだ95年の寿命のうちの11年が残されていた。それは、建築の言語に革命を起こした独創性と完璧な論理にかなった集中形式を結合している。この点において、彼は、彼の同時期の者たちの理解を完全に越えていた。セリミイェは、シナンの独創性の遠達点を示し、彼の後継者(彼の弟子でもあった)は、それが意味した論理を追求しなかった。それらは、さらに偉大な一貫性、優雅さ、そして光輝に関する夢多き老人の探求を理解することができなかった。

感嘆すべき才能の生命はシナンのものであった ;彼は、決して成功に安んじず、彼自身の業績に少しも満足していなかった。それは、まるで彼が、その想像力の抑えられない供給源を示すことを決心したかのようであった。95歳の時、彼は、ハジジ或いは巡礼の儀式的義務を果たすことを決意した。彼は、聖地(メディナとメッカ)を旅し、カーバ神殿、黒石(それは、伝説によると、ガブリエルによってアブラハムに贈られた)を周回することによってムスリムとしての義務を成し遂げた人々に授与された資格(ハジジ)を得て、無事に戻った。


シナン後期とシナン後

これらの目覚ましい成果を納めた革新的な建物に加えて、シナンは、彼の名前を、より伝統的で、あまり洗完成度の高くない建物に与えた。老名匠は、すすんで、これらのうちのいくらかに対する責任を委譲したように思われる(ある程度のイニシアティブを「公共事業企業」に与えて ) 。彼のスタジオ・アシスタントは、多数の建物(シナンは、監修したのみ)を生み出した。これは、多くのモスクに当てはまった;そのようなものの一つが、ボスフォラス海峡の岸にあるフンドゥクル・ジャミ(1565年に建てられた)である。その六角形の方策に興味がないことはないけれども、それは、ある否定し難い欠陥を示している。

コンヤ(以前のセルジューク朝の首都)のセリミイェは、これらの「標準的な」生産物(仮にその言葉が、軽蔑的な意図なしで使わたとしても)の範疇にある。グルグル回るダルウィーシュ(踊り狂うイスラム神秘主義の修行者:訳注)の修道院の近くに建てられた、それは、美しい柱廊玄関 (ギャラリー・ヴェスタビュール)(その七つのアーチが架けられたアーケードは二つのミナレットに挟まれている)のあるファサードを持っている。そのモスクは正方形のプランで、単独のペンデンティヴのドームが載っている(それは概ね立方体の輪郭をしている)。1階に、それは、側廊と二つのスキンチに挟まれた奥行きのあるアプスを持っている ;ミフラーブは、アプスの後ろにある。このモスクは、シナンの芸術の全ての顕著な特徴を持っている。その輪郭線に、スタラクタイト工芸のスキンチを頂部に載せたその凹のカーブに、そして、そのモールディング(建物の本体を統一感をだす為に、正に、水平、垂直に走っている)に、工匠の技は歴然としている。

ボスフォラス海峡の岸にあるイスタンブールのトファネ地区で1582年に建てられたクルチュ・アリ・パシャ・ジャミは、対照的にシナンの芸術の着実な発達に対する奇妙な例外である。それは、クルチュ・アリ、トルコの艦隊の司令長官(トルコが228隻の戦艦(ガレー船)を失ったスペイン、ベニス、そして教皇政治の武力に対する悲惨なレパントの戦い(1571)の唯一の生存者)によって委任された。そのモスクは、マドラサ、チュルベ、ハンマーン、そして公共の泉を包含するキュッリイェの中心部を形成する。

クルチュ・アリ・パシャ・ジャミは、アヤ・ソフィアの約3分の1のスケールで、美しく造られたレプリカである。それは、38mの長さ(そのポーチを除いて) であるが、それは、その有名なモデルの全ての特性を再現している:二つの半円のドームに補強された中央のドーム、二階分の側面の柱廊によって構成された側廊、コラムの上に載るティンパヌム、その他。スレイマンのアイデアは、ここにでは、本当に控えめな効果でしか表現されていない。

90歳のシナンがアヤ・ソフィアのモデルに戻り、そのような計画をデザインしたと考えることは、不可能なように思われる。それは、確実に、彼の弟子ダウド・アー(ちょうどその時、エディルネでセリミイェ地区のバザールを完成していた) の作品であるに違いない。このイミテーションは、従って、ちょうどその時に始まった、ポスト-シナン時代に属している(シナンは、1588年の死まで宮廷に主任建築家の地位を占め続け、司令長官のモスクは、それゆえに、彼の名前への理に適った要求権をもっていたけれども) 。

シナンの死後、ダウド・アー(優れた実務家であるが、決して彼の師匠ほどの才能はない)は、イスタンブールのガラタ橋の反対側に、イェニ・ヴァリデ・ジャミのような作品を建て「署名」し始めた。1597年に建設が始められた、このモスクは、いくつかの点で、(三弁のプラン、中央ドームの周りの四つの半円ドーム、そして正方形の中庭を持つ)シェフザーデのレプリカである。それは、工匠の立派な学生の作品である。シェフザーデが建てられて半世紀で、建築は退けられたが、ダウド・アーは、それを気に留めなかった様に思われる。彼が、かつてないその発達を理解していた唯一の徴候は、より高いドラム、半球体ドーム、そして(手短かに言えば)、シナンの末期の作品から借用した力学で表現された、卓越した垂直性への明白な願望に表れている。


宮殿複合施設 :トプカプ・サライュ

我々は、スルタンによって委任された最高の宗教的モニュメントを考察してきた。彼らが支配した広大な帝国の至る所で、彼らは、慈善施設の建設を命じた(貧困と病苦の手当ての為、巡礼者、戦士、そして修道僧の為に、確立されたキュッリイェ)。しかし、彼ら自身の宮殿は、どのようであったのであろうか? スブリメ・ポルテのスルタンのライフスタイルは、どうであったのであろうか ?

オスマン朝の宮殿の我々のイメージは、概ねトプカプ・サライュ(金角湾とボスフォラス海峡の間の美しい岬に立っている)によって形成されている。−そして正にその地に、2 千年前に、ビザンチウムのギリシアの都市の神殿が立っていた。他の官邸は(例えば、エディルネのそれらのような)、消失してしまっている。

トルコ族は、常に、遊牧民種族のテント村に対するある程度のノスタルジアを感じていた。トプカプ宮殿のまとまりのない、不規則な(heteroclyte→heteroclite?誤植?:訳注)プランはその十分な証拠である。9ヘクタール(おおよそ450m×200m)の区域上にある、壁で囲まれた複合施設は、3つの個別のゾーンから成っている。最初のゲートの後の、巨大なスペースは、最初の宮殿を形成している;ここには、公式歓迎会、軍隊見分、大規模な祝祭、そして、スルタンの呼び集められた守衛の演習が、行われた。宮廷は、実用的な施設によって南東で閉じられている :厨房、パン焼室、等。シナンの伝記作家によれば、これらの建物の幾つかは、工匠自身によって設計された。

これらの建物の反対側(北西)に、柱廊に面した石造建築物がある。それらは、会議室(Council Chamber)を含んでいた。そしてその背後では、国王の住宅の区画とハーレムが、建物の極めて複雑に入り組んだマッスを形成している(それは余分なスペースが必要とされたときはいつでも、拡張されたように思われる)。

一つの出入口が、三番面の宮廷へ繋げている。そのすぐ後ろに、拝謁室がある(おそらくプライベートな拝謁者のために使われる比較的小さな建物)。柱廊で囲まれた、それは、頻繁に改築され、そして王座とバルダキーノ(飾り天蓋)があった。北には、中心軸から僅かに離れて、西洋の影響の明瞭な徴候を示すアフメト三世(1718年に)の下で建てられた図書館がある。右側のハンマーンそして左側の小さなモスクは、他の建物で観られた方角から外れている。

四番目の宮廷に導く柱廊の背後に、宮殿の最も美しい部分が横たわっている。それは、芝生の間に散在させられたり、木に囲まれ気持よく横たわったり、或いは見晴台(そこでの景色が最も素晴らしい)の様に、配置された、一連の開放的なキオスク(四阿:訳注)を包含している。それらは、バーダロ・キョチュキュ(ムラート四世の治世を端緒とする、それは1638年のバグダッドの占領を記念するために建てられた) ;レヴァン。キョチュキュ(それは1635年にエレバンの占領を記念している) ;そして、カラ・ムスタファ・パシャ(17世紀半ばに遡る)のキョチュク、を含んでいる 。後者は、2階部屋とそれ専用な小さな湖をもっている。四阿の繊細な木構造、低い屋根の形、そして更に低い階のガラスの壁は、「モダニスト」的様相をそれらに与えている ;実際に、それらは、フランク・ロイド・ライトの作品を思い起こさせる。それらの四阿は、支配者の権威や壮麗さを示しているものではない。

これは、喜びのアートである。優雅さは、堅苦しさに取って代わり;軽い開放的な構造は、記念碑性に取って代わる;その印象は、当時の西洋の宮殿の壮観さと厳粛さとは正反対である。オスマン朝の宮廷と比較されたとき、ベルサイユのマリー・アントワネットの bergeries (田舎のコテージ ) さえもが、少し厳粛なように見える。はかないキオスク(四阿:訳注)の繊細な雰囲気は、恐らく、数世紀前の、アナトリアのスルタンになったシベリアの遊牧民の指導者が住んだテントに立ち戻る。

これらの木造家屋(莫大な富の蓄えが控えめな大きさの部屋の為に、分割された宮殿の一部)と壮大なスケールと礼拝堂と他の宗教的大建造物で観られる装飾の間には、顕著な差異がある。オスマン朝のスルタンは、彼らの富を、王子が住む宮殿の中ではなく、慈悲と信仰の基盤の建設物と取決めの中に示した。

トプカプのキオスク(四阿:訳注)は、 ボスフォラス海峡或いはマルマラ海の岸のイスタンブールの富裕な帰化外人の第2邸宅とは、ほとんど何も似ていない。そこでは、金持ちは、パヴィリオン(別館:訳注)とイァリスを建てた−その居間が木々の間に抱えられるように佇む、或いは海の上に突き出す木造の家。治者と被治者は、一様に、著しい虚飾の欠如を示した。ドルマバーチェの様な、大宮殿は、後の18世紀に建てられ、西洋のものの手法から生まれた。


TURKEY

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