第7章 /巨大帝国


オスマン朝様式の伝播

レパントの戦い(1571)の様な軍隊の敗北、そして、貢納によるハプスブルク家の解放(1592)の様な政治的な逆風にもかかわらず、オスマン帝国は、17世紀の終りまで、大部分が無傷のまま残った。そして、ウィーンの壁の下でのオスマン朝の軍隊の大敗北(1683)は、神聖同盟の形成につながった。続き様に、トルコ族は、ハンガリー (1699)、ダルマチア、そしてモレア(ペロポネソス)を失った。

没落の最初の徴候は、スレイマンの死となって(即ち彼の後継者セリム二世という人物となって)表れた 。そして、レパントの敗北は、来るべきものに対する警告であった。ムラート三世は、には現状を維持することができるように思われた ;臣下の将軍は、ペルシアを破った。しかし、残忍なムラート三世(1595-1603)(彼の息子と19人の兄弟の処刑を命じた) は、アジアにおける絶え間のない暴動を撃退し、イスタンブールそのものでの度重なる暴動を鎮圧しなければならなかった。


青のモスク

アフメット一世(1603-1617)の下で、オスマン帝国はエレバンとカルスをペルシアの軍隊に奪われ、スルタンは、非常に不利な平和条約に署名するように強要された。この治世の間に、有名な「青のモスク」、または、スルタンアフメット・ジャミが建てられた(1609年〜1617年の間に)。それは、イスタンブール馬術演技場の南の端に立っている。それは、ある意味、すぐ近くのアヤ・ソフィアに呼応している。そして今日の来訪者にとって、それは、最も人気のあるトルコ芸術のモニュメントの一つとなっている。しかしながら、シナンの後期の作品との比較になったとき、そのモスクは、決して革新的ではなく、多彩色の装飾の豊かさと、その建物の大きさが、その外観の最も大きい特徴である。

その建築家は、メフメト・アーであった。彼は、セフザーデ(シナンの最初のスルタンのモスク)で採用された集中式のプランから着想を得ている(その礼拝堂は、ここでは正方形ではなく、長方形ではあるが)。その建物の注目に値する特徴は、その上に立ち上がる6つのミナレットである。それらの配置は、ユニークで、シナンの影響を如実に語っている。セフザーデと同様に、それらのうちの2つは、ホールと中庭の接合にある ;スレイマニイェのレイアウトをそのまま繰り返し、2つは、中庭の前面の角に立っている ;そして、最終の2つは、まるで、セリミイェでシナンによって採用された形式のイミテーションのであるかの様に、キブラの長側に配置されている。

青のモスクの外観、そしてマルマラ海を見渡すその位置が、否定し難い輝きを与えているというという事実に変わりはない。その中庭は、奥行きより幅があり、八つに対して九つのドームから成っている ;その建物全体は、長さ110m、幅64mで、礼拝堂は、エントランスからミフラーブまでは、52mである。

そこには、直径23mの中央ドームがある。それは、4つの半円ドームによって補強されている;4つのコーナーには、さらに小さなドームがある。建築的表現について、そのモスクは、名匠からの引用の集積である。しかし、シナンの文体を使ったこの小論は、とても成功とは言えない;四つのピア(そこから、ペンデンティブが中央ドームに登る)は、あまり優雅さがない。この観点からみると、その本質は、模造品というより対照となるものである。

ここでの革新さは、タイルの徹底的な使用(そのモスクはその名前をそれに負っている)である。タイルは、ギャラリーから上に向かって、全てを覆っている(スタラクタイト工芸だけを除いて)。壁、そしてドームと半円ドームのドラムを穿つたくさんの窓には、美しい多彩色のガラスが嵌められている。大きさ、壮観さ、贅沢さ、そして、鮮やかな色彩が、青のモスクの主たる特徴である。


キャラバンサライと宮殿

アナトリアのセルジューク族によって約350年前に造られたキャラバンサライのスタイルは、当時すでに時代遅れであった。しかし、国を横断する郵便物と交易の安全確保が、重要な問題である事には、変わりなかった。スレイマン二世の下で、カッパドキアのインジェスに、美しいオスマン朝のキャラバンサライが建てられた。大宰相の名をとってカラ・ムスタファ・パシャと呼ばれる、それは1660〜1680年に建てられた。ヴォールトが架けられた柱廊で囲まれた広大な中庭の後に位置する冬のホールは、美しい切石の交差リブヴォールトで天蓋が架けられている。横のベイは、四角い柱の列に載せられている(そこからポインテッドアーチが立ち上がっている)。鉄製の繋ぎが、構造を補強している。壁に沿った大きな持ち上げられた台座(旅行者の便宜の為の)は、各々が暖を採ったり、料理をする野外炉が装備されている。更に低い、ホールの中央部分、には馬小屋があった。

その都市のマルディン門からそれほど遠くない所にある、ディヤルバクルのデリレル・ハヌも、17世紀を端緒とする。二層になった量隗感のあるアーケードは、旅行者たちの部屋の前にある。壁の白と黒の装飾は、石の互い違いになった層と、様式化されたアラビア文字から得られた幾何学のモチーフをうまく利用している。ディヤルバクルは、シリアの国境からそれほど離れていない、そして、オスマン朝の様式は、地方の影響(形態と職人の技能の両方に表れた)を受けた。

そのような様式の「混合」の影響は、なおさら、(ドーウバヤズトの地にある) アララト山 (トルコ語のアーリ) から遠くない 、トルコの極東部にある、奇異な、実に衝撃的な建物、に明白に表れている。これが、1784年頃に完成した、イシャク・パシャの宮殿である。それは、クルド人の統治者たち( オスマン朝から半独立していた) の威厳のある住居であった。

この複合体の最も顕著な特徴(とても防御しやすい山の高い位置に立っている) は、その混合主義である。スタラクタイトのニッチを持つ、純粋なセルジューク族の様式の模範的なピシタクの後ろにある、中庭のファサードは、アルメニア人、グルジア人の作品に関係した様式の卓越した彫刻されたアーキトレーヴ(台輪)を表わしている。織り交ぜられたフリーズ、動物のモティーフの帯、4通りの対称形を示す図形は、 即座に、バン湖にあるアクタマル Akhtamar 島の聖十字架教会(915)を思い起こさせる。

そのモスクには、礼拝堂(その天井は、アーケードと小さなドームを支える細いコラムに載っている)がある。その後の、スキンチに載せられたドームは、ドラムに穿たれた8つの窓によって明かりが採られている。交互に赤色と黒色の層を持つ円筒状のミナレットは、スタラクタイトのギャラリーを載せている。

モスクの後に、地方の支配者は、恐らく嘗て屋根が架けられていた、中庭の方角に向いているアパートを建てた。両側の、コラムに載った3つのアーチは、柱廊を形成する。その中庭の端の周りには、台座が走っている。それらのアーケードは、八角形の小柱の上に載せられ、僅かに尖ったアーチを持っている。一方で、繊細に彫刻された柱頭は、ムカルナスに由来する多種多様なモチーフを差し出している。

手短かに言えば、美しいピンクの石において実現されたイシャク・パシャ・サライュの装飾言語は、大いなる想像力を示し、様々な伝統を結合している。それは、多くの経路の接合点に立っており、そして、認められる影響は、オスマン、ペルシア、アルメニア、グルジア、セルジューク、そして取り分け北シリアの芸術を含んでいる。


ハマーとダマスカスのアゼム宮殿

オスマン帝国の下で、遠方の行政区の総督たちは、小王の様に振る舞う傾向があった(帝国が、衰退する時に加速した傾向)。シリアにおいて、これは、ハマーの素晴らしい例で説明される:アゼム宮殿。それは、悲しいかな、1982年にひどく損傷されられた(イスラエルが、先のレバノンへの侵入の後に続いて、シリアと衝突した時)。その宮殿は、総督、アサド・パシャ・エル・アゼム(ワリ:地方行政長官/訳注)からその名前をとっている。その外部は、多少残存してきたが、内部のいくぶんバロック的な魅力は、主として1982年以前の写真で我々に知られている。

その建物のメリットは、無関心な来訪者にとっては、はっきり分からないところにある。なぜなら、その家或いはベイト(1742年に建てられた)は、ハマーの古い迷宮の町に隠されているからである。いったん、あなたが、それを見つけたならば、あなたは、最初の階に行く為に狭い階段に登らなければならない (その建物の柱廊のあるファサードが周りに立つ、美しいテラスに出る前に) 。宮殿の後に位置する住宅群から、美しいAsi川 ( 古代のオロンテス川 )の浅瀬の景色が見える。

宮殿そのものは、逆「 T 」の形をした眩いレセプションルームから成っている。「交点」には、4つの大アーチに載る頂塔ドームがある ;それらのペンデンティブは、ムカルナスで覆われている;豪華な多彩色の大理石、金めっきされたスタラクタイトのフリーズ、そして木製の天井(その蜂の巣状の隅部は壁と天井の間の遷移部を覆っている)、全てがその壁の、贅沢で優雅な好みを、例証している。これらの部屋は、地方の実力者の日常生活のための背景を形作り、アイユーブ朝とマムルーク朝の建物の影響の下にあるオスマン朝の建築の変遷を例示している。

オスマン朝の芸術とマムルーク朝(彼らはセリム一世によって1516年に征服された)の芸術の間の、様式的な収斂は、非統治者の様式を吸収同化する勝利者の良い例である。ハマーのアゼム宮殿は、それでもダマスカスのもの(それに我々は帰するであろう)より、マムルーク様式のシリアでの生命をはっきり示している。舗装、スタラクタイトのフリーズ、金めっきされた屋根の木製の梁、そして柱頭よりむしろ、多彩色の大理石への好みが、二世紀前のスルタン・カイトバイ Sultans Qa'itbay 、或いはアルグリal-Ghuri のそれらの様式的連続を保持している。

同じアサド・パシャ・エル・アゼム(その後、シリアのオスマン朝の総督になった) によって1749年に建てられたダマスカスのアゼム宮殿は、全くその大きさが異なる。その中央には広大な中庭(ハレムルク)がある。そしてその中程では、池と樹木が、心地よく誘う木陰と清涼感を与えている。このオープンスペースの周囲に配置された建物は、柱廊のある大広間と一連の専用の小さなハンマーンを持つ集合住宅である。多彩色の石材と木材を使った、装飾のスタイルは、ハマーと同様に、非常に精巧である。イスタンブールの宮殿と同様に、比較的小さな部屋は、ある程度の質素さを示している。恐らく、これらのシリアの邸宅で最も顕著な容貌は、外部への誇示の欠如である。これが統治者の住居であることを外部に示すものは、少しもない。


レバノンの輝き

更に、オスマン朝の近東の折衷主義の建築の証は、ベイト・エッディンの宮殿によって提供される(魅力的な様式でエミール・バシル二世 Emir Bashir U のためにレバノンの山の中に1810年に建てられた) 。

ダマスカスのアゼム宮殿と同様に、ベイト・エッディンは、二層になった二重の柱廊を持つ美しい中庭の周井に構成されている ;その細長い風通しの良いアーケードは、八角形の小柱によって支えられている。中央の泉は、その景色を展望を完結している。そこにも、覆いのある部屋、または、凹部 ( それは、イワーンのようにファサード側に開いている ) ;これらは、ペルシア様式の会合室のように思われる。その宮殿で特に興味を引くところは、オスマン帝国の周辺というその位置である。そしてそこでは地方の影響が、オスマン朝の性質を殆ど抑えて、優勢である。


ヌスレティイェ・ジャミにおけるトルコ式「バロック」

地中海東岸の地域において、地方の影響は、次第にオスマン朝の審美観に取って代わった。19世紀初期のイスタンブールで、それは、広く行き渡っていた西欧の影響であった。拡大するヨーロッパの経済は、スブリメ・ポルテがもはや適応できない程の、活況を示し、抗えない魅惑を及ぼした ;これは、イスタンブールの建築の表現の基礎を築いた。

恐らく、末期オスマン朝の建築におけるバロック様式の最も特徴的な例は、トファネ地区にあるヌスレティイェ・ジャミである。ここでは、いくつかの装飾と建物の全体の外郭が、「ルイ15世様式」(それは、独自の風変わりな魅力を持つ)を示唆する。ネオバロック様式の西欧の形態と、(ドーム、ミナレット、ティンパヌムのような)典型的なオスマン朝の建造物の結合は、妥協の結果であった。そのモスクは、1823年から1826年にマフムト二世(1808-1839)の下で、キルコル・バルヤン(アルメニアの建築工の古い家系の子孫である)という名の建築家によって建てられた。

そのモスクには、中庭がない。その正方形の礼拝堂は、スルタンの特別席が主役となっている ;突き出した奥廊は、ミフラーブを包んでいる。ドラムの24の窓は礼拝堂を照らしており、そのドームは、四つ巨大なアーチに置かれた滑らかなペンデンティブの上に載っている。

この西欧化された折衷主義には、ヌルオス・マニイェ・ジャミ のような作品の先例があった(オスマン三世によって大バザールの近くに1754年〜1757年に建てられた)。このモスクのプラン(半円の柱廊のある中庭のある)は、この保守的伝統の中でのちょっとした大改革であった。それは、シモン・カルファという建築家によって設計され、単独のドームに覆われた正方形の礼拝堂を提示している ;そのミフラーブは、半円形のアプスの中にある。

同じ種類のトルコ‐西欧の混合主義は、ドルマバチェ・ジャミで見られる(スルタン、アブドュル・メジィト (1839-1861)の母、スルタナ・ベズミアレムのモスクとしての知られている。;それは、1853年に完成された。ヌスレティイェのモスクのように、それは、単独のドームを持つ正方形の礼拝堂と両側にミナレットからなる。しかし、その建物の様式言語は、完全に西欧のものである。


オスマン朝の陶磁、細密画、そして装飾

セルジュークとオスマントルコの審美観に加えられた最も重要な1つの影響は、自明の、ペルシアのそれである。この恩義は、スタラクタイトとムカルナス(イスファハンの大セルジュークの建物に由来する )のような、ある建築要素について言及されてきた。1514年のチャルディランのオスマン朝の勝利後、ペルシアの芸術家によってアナトリアで製作された多彩色のタイルについても話してきた。その年のタブリーズのペルシアの都市の占領は、トルコの陶磁産業(イズニックに本拠を置くこととなった)を開発する際の、極めて重要なステップであった。セリム一世は、700人のペルシアの陶芸家に、彼らの家族と共にアナトリアに移住するように強要した ;到着に際し、彼らは、彼らの技術を供与するように命じられた。これらの陶芸家の作品は、イスタンブールのソコールとアフメット一世のモスクとエディルネのセリミイェだけでなく、スルタンのテーブルをも飾った(皿、壺 、そしてゴブレットがその宮廷で特別に造られた)。

陶磁の芸術に関していうと、装飾のレパートリーは、15世紀のペルシアのティムール朝美術に由来した。トルコにおいて、生き生きとした、上品な、ティムールの審美観は、トルコ族の趣味に合わせられたが、多くのペルシアの起源の痕跡が残された(特に花模様) :繁茂した植生を形成する蔓草の葉と共にある、カーネーション、バラ、チューリップ、キンポウゲ。16世紀に、(自然に感化された主題を持つ)このペルシアの装飾の流入は、迅速に最早期のオスマン朝芸術の幾何学装飾の主題に取って代わっていった。

ティムール朝の影響が感じられた、更なる領分があった :書籍の芸術、そして取り分け、細密画のもの。実際、セルジュークと初期オスマントルコ時代の間のトルコ人の間のかなりの試行錯誤の発端の後の、絵画の宮廷美術の出現は、タブリーズの占領の後の年に遡ることができる。ペルシアの出身の幾人かの画家と細密画家が、イスタンブールの宮廷に1515年に来訪し、そこで彼らは、ある流派を形成した(どちらかといえば、古典的写字室の手法の)。

15世紀半ばに遡る、最早期のトルコの彩飾本は、シーラーズの影響を明らかに示すけれども、それらは、その後ほどなくして、更なる影響を受けた(ヘラートの名匠のそれに)。ペルシアの影響は、更にトプカプの宮廷工房の威信が増した、16世紀に示されるようになった。最も美しい写本は、スレイマン壮麗王ろ彼の直ぐ後の後継者ムラート三世の治世に遡るものである。これは、彩飾芸術の開花であった(イスファハンのサファヴィー朝のそれに匹敵する、通常、最高のクオリティーをもつもの)。

スレイマンナマ(又はスレイマンの本)はこれらの作品の範疇にある。そしてそれはトプカプ図書館の蔵書の一部となっている。1558年に完成させられた、それは、1520年から1558年までスルタンの治世をとり上げている。とても小さい(その体裁は、225o×145o)その五巻は、自体が記念物である。その文章は、マトラクチュ・ナスフ(スルタンの鎧持ち)という名前の年代記編者によって書かれた。それらの細密画は、ペルシアの流派で修行した数人の芸術家によって描かれた(彼らは、ハンガリーの画家と並んで働いた );後者の作品は、西洋の城、町、そして人物の的確な描写をする上で、特別に力添えしたものであった。

ペルシアの細密画の全ての慣例が、これらのすばらしい実例において見られる。例えば、我々は、遠近法を表すいくらかの目録、そして、想像力に溢れた色彩の使用を認める。建築の表現は、非常に独特的で、幻想的な雰囲気がある。その文章は、シルヴァニ (その名前は彼が北ペルシアの出身であることを示している) という名の能筆家によって、ペルシア語で書かれている。

ところで、アフメド・フェリドゥン・パシャの年代記(大版の挿絵で誉れ高い)の様な、スレイマンの生涯に関する別の出典がある :その書物は、300o×200oである。その作品は、1568年〜1569年に大宰相ソコール・メフメト・パシャに捧げられた。

トルコの細密画の芸術への最も独創的な寄稿は、恐らくシヤーリィ・ナビ或いはムハンマドの生涯である(16世紀末のムラート三世の治世に造られた六巻)。それは、既に200年経った(14世紀の下期の間に書かれた)、エルズルム出身のダリルと呼ばれた盲人(彼は彼の物語をカイロのマムルークのスルタン、マリク・マンスールに語った) の話に従った文章に基づいている。予言者のこのとても大きな挿絵入りの伝記は、ムラート三世の宮殿で着手された ;予言者について語る彩色画の大作の製作を求めるには、少なくとも、全権を有する支配者の、権威を必要とした。イスラム教においては、偶像の禁止(とりわけムハンマドと神のシンボルに関して)が、その核となっているからである。この創設者の生涯の814に渡る彩色画は、従って、最も神聖な規則に違反していた。

シヤーリィ・ナビの六巻に関して、一巻と二巻そして六巻は、イスタンブールのトプカプ図書館に、三巻はニューヨークの国立図書館に、四巻は、ダブリンのチェスター・ビーティ図書館に属している。五巻は、ドレスデン図書館にに属していたが、失われた(おそらく第二次世界大戦の間に焼却された)。

ムラート三世の治世に遡るもう一つの有名な写本は、特に注目に値する。それが、ヒュネルナメである。この非常に大きな作品(490o×310o) (その内の最初の二巻のみが残存する) は、トルコ人の歴史を扱っており、有名な名匠オスマンによって描かれている。それらの絵画は、例外なく、非常に質が高い。その文章は、サイィド・ロクマン(スルタンに史料編纂官)の作品である、そしてこの年代記は、恐らくトルコの歴史に捧げられた偉大な一つの芸術作品である。

ペルシアの影響は、オスマン朝の細密画の歴史を通して、存続するが、表現のスタイルは、ますます独走的になる。ティムール朝或いはサファヴィー朝の慣例が、貴族の視点を強いたのに対して、トルコの細密画は、物事に関した、更に自由で、更に自然で、本当にユーモアのある、想像力をしばしば示す。

18世紀のトルコの絵画は、トルコの建築のように、結局、独創性を低下させ、西洋の影響を受ける傾向があった。しかし、この突然の細密画の芸術の開花において、舗装の花模様、カーペットの唐草模様、そして、一般的なオスマン朝の時代のささいな装飾芸術においても同様に、我々は、内在するペルシア人の審美観の影響に気づく。そして、我々が、建築そのもの(スタラクタイト工芸、透かし細工のパネル、そして一般的な装飾のようなテーマを除いた) が、ほとんど完全に、ペルシアの影響を除去されたと考えるならば、この結末は、いっそうの驚きである。


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