スルタンたちに仕える地場の請負人たち
セルジューク朝のキャラバンサライ |
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シトー会の教会 |
セルジューク朝のキャラバンサライと中世の西洋の教会との類似は、以前より指摘されてきた。これは、我々が、一方のカイセリとアクサライの近くの二つのスルタンハヌ、Avanosの近くのサルハンと、もう一方の、Fontenay、le Thoronet、I'Escale-Dieu、そしてBonmontのシトー会修道院の教会の内部空間を比較するとき、特に印象的である。その類似は、写真において、疑いなく明白で、単なる一致ではあり得ない。
これらのキャラバンサライは、1220年から1250年の間のいつかにまで遡ることができる。それとは対照的に、最初期のシトー会の建物は、1130年〜1180年頃(1139年〜1147年を端緒とするFontenay、1160年〜1180年を端緒とする1e Thoronet 、1143年〜1160年を端緒とするI'Escale-Dieu、そして1131年〜1190年を端緒とするBonmont)のものである。我々は、それらの大修道院がキャラバンサライに影響を与えたと結論を下すべきであろうか ?それは、ありそうもないように思われる。
しかし、ここで比較の三番目のポイントが、生じる。すなわち、アナトリアのセルジューク朝の建物の幾つかを建てた建築家と請負業者たちの起源である。我々は、ディヴィリーイのモスク(1229)が、二人の工匠によって造られたということを知っている:アリメニアのゲラト或いはアーラト出身のフッレム・シャーとゲオルギアのティフリス出身のイブン・イブラヒム。
ヘキムハヌシ(1218) (アナトリアの最も重要なキャラバンサライのちの一つ)は、シリアン・アルメニアの内陸地の、マラティヤのアブル・ハサンの作品である;彼は、シリア人と自称したが、アルメニア語で記述した(下を見よ) 。シバスのギョク・メドレセは、工匠カロヤン(その名前はアルメニア語のものであるように聞こえる)の作品である(彼はシリア人であると主張したものの)。Tercan (エルズルムのい近くの) テルジャンのママ・ハトゥーン・キュンベトは、(アルメニアのアーラト出身の)独眼のムファッダルと呼ばれた建築家によって1192年に建てられた 。そして、最終的に、アランヤとシノペの要塞は、シリアのアレッポ出身のアリク・ラッカ・アルカッタニによってケイクバド一世の為に建てられた。
シリア・アルメニア人の建築家と石切工は、従ってセルジューク朝時代の建築において傑出していた。スルタンが、石材をもって、彼らの治世を讃えることのできる工匠たちを探したとき、彼らは、これらの地場の専門職たち(既にその価値を証明していた芸術家たち)から、製作を依頼した。
この証拠は、マラティヤの近くのキャラバンサライ、ヘキムハヌの銘で発見されることになる。そこで、我々は、読む:「アルメニア人の時代の、その年667年に、私は、この宿屋を建てた。」これらの言葉を記録した建築家は、アブ・サリム・イブン・アブル・ハサン(彼はシリア人であると言い、医業を営んだ)であった。しかし、彼は、アルメニア語でこれらの言葉を書き、551年から始まるアルメニア暦で日付を明記した。
何が、シトー会の教会とセルジューク朝のキャラバンサライの間の類似から、推論されるできであろうか? 第一に、それが、スルタンの命でアナトリアで働いた)職人達の集団を率いた、アルメノ・シリアン(シリア・アルメニア人)の建設業者であったこと。そして、第二に、いくらかのこれらのアルメニア人(1071年のマンジケルトの戦いの直後にそれらの国から逃げた)が西欧に避難場所を求めたことである。でこで、彼らは、最初にクリュニー第三聖堂に現れた後、シトー会の建築を特徴づけるようになった四心アーチと尖りヴォールトを導入した。
北部シリアとアルメニアの、建築術の伝統は、キリスト教の時代の最初の世紀の大胆な教会建築に基づいて、持続されてきた。これらの建築業者たちの際立った特徴は、尖りヴォールトと四心アーチのしようである(9世紀と10世紀にコーカサス山脈の谷間に現れる)。12世紀のヨーロッパと13世紀のアナトリアにおける共通の伝統の存在は、(我々が指摘した)その類似点に対しての解釈以外に考えられない。1世紀離れた、同じ伝統は、世界の全く異なる場所での二つの全く異なる建築術の発達に影響を与えた。
代表的な記念碑の建設、とりわけ、13世紀の着手時の、小アジアの通商路に沿った中継基地として意図された一連なりのキャラバンサライの急速な建設、を要求する、サルタンの依頼が届いたとき、東アナトリアの地場の建築家たちは、彼らが知る唯一の空間的ボキャブラリー(キリスト教会のそれ)を使用する、象徴的な建設物を建てることによってそれに応えた。そうして、彼らは、彼ら自身のヴォキャブラリーをパトロンの要求に適応させていった。
この仮説によってのみ、我々は、いかに天井の高い身廊(冬の天候に不適当な)が、セルジューク朝のキャラバンサライの建物において、中心的なエレメントを形成するようになったかを説明し得る。なにより、この事実それ自体が、トルコのアナトリアのスルタンの下で生まれた、宗教建築の多くの様相に対する一つの手がかりを与えている。
フォントネーからアクサライまで |
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le Thoronet からカイセリまで |
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I'Escale-Dieu からアヴァノスまで |
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ペンデンティヴに支えられたドーム |