壮大なデザイン:イスタンブールのファティフ・キュッリイェ


聳え立つ要塞
オスマン人は、ビザンチンの包囲攻撃を強化するために、海峡に強力な要塞を建設した。メフメト二世によって1452年(その都市が占領される1年前)に建てられた、ルメリ・ヒサリの要塞は、ボスフォラス海峡の最も狭い地点に立っている。


メフメト二世征服王(1451-1481)によるコンスタンティノープルの占領は、オスマン朝の建築への意味深い刺激剤となった。大志は、ビザンチンの傑作との日常的な接触とオスマン人がビザンチン人の帝国の威信を継承したという自覚によって、感じとの毎日の接触によって高揚させられた。オスマン帝国の大きさに相応しいスケールで建てられた、新しく象徴的なモニュメントに対する要求が、それに続いて起こった。イスタンブールは、キリスト教のビザンチンの傑作に匹敵する一連の大建造物を受け入れることになった。

メフメト二世は、自身の周りを、ギリシア、イタリア、そして中央ヨーロッパからの学者、芸術家、そして技術者で囲んだ。スルタンは、芸術と科学における最新の成果を、知り、理解することを切望した。彼は、大砲に興味を持った最初のムスリムであり、彼は、ドイツの金属細工師たちに大砲の生産を委託した。メフメト・ファティフは、ビザンチンを占領したときには、弱冠24歳であり、彼の歳に応じた「現代性」を求めた。彼の明晰さは、称賛に値した。彼は、決して狂信者ではなく、(母の信仰であった) キリスト教 にかなりの興味を持っていた。彼は、ユダヤ人を保護し、ペルシアのシーア派の教義を研究した。彼は、(彼のために読まれた)ラテン語とギリシア語の著者の作品(特にセネカ、ポリビウス、クラウディウス・プトレミーのもの)を所有していた。彼は、西洋の技術を評価し、そして、晩年に、画家ジェンティーレ・ベリーニを彼の宮廷に招いた。

彼は、正にこの精神で、イスタンブールにスルタンにモスクを建設することを決めた。モスクとその巨大なキュッリイェの基礎は、コンスタンティノープルの丘のうちの一つにユスティニアヌスによって建設された聖十二使徒教会の廃墟の上に置かれた。その教会は、第四次十字軍(1199-1204) のフランクの略奪行為以来、廃墟となっていた。彼が選択した建築家は、キリスト教徒、クリストドウロス(彼のトルコ名、アティク・シナン(先人シナン)でより知られている、そしてその名は彼をスレイマンとセリム二世の為に仕えた後の偉人シナンと区別している)であった。その建築家は、完全にブルサ派との関係を絶った。

ファティフ・ジャミ(征服者のモスク)は、320uの面積を占めるキュッリイェの中心部に、 1463年から1471年にかけて建てられた。それは、地震によって1766年に破壊された。それを代替したモスクは、全く異なったプラン(シナンのシェフザーデとメフメト・アーの青のモスクから等しく、そのインスピレーションを引き出している)で1767年に造られた 。しかし、我々には、征服王のモスクがアヤ・ソフィアの影響を示していたことを発掘調査と当時の彫刻からわかっている:それは、サディルヴァンの周りに配置された長方形の柱廊のある中庭を持っており、堂々たる大きさのものであった:96m×56m。

その礼拝堂は、直径26mのドームで覆われており、さらにミフラーブの真上の半円ドームで覆われた矩形の空間があった。中央のドームの両側では、一連の三つの小さなドームが、全体を補強していた。我々は、この方式に、ユスティニアヌスのビザンティンのバシリカの中央と後の部分のより小さな大きさの類型を見る。前の部分は、その半円ドームによって、除去されてた;この改変は、おそらく古典イスラームにおける伝統的な種類の長方形の礼拝堂の要求を反映していた。しかし、それがその北のファサードでの補強をそれから奪った為、それは、また建物の崩壊の一因となったかもしれない。

ファティフ・キュッリイェの残存している建物は、生き延びて、我々が複合体の大きさを掴むことを可能にしている。(どちらかといえば偶発的なやり方で広くまき散らされた) ブルサの宗教建造物群と異なり、ファティフの複合体は、完全に直線的な組織を持っている。そこには、それぞれが、その内側のファサードに柱廊になった中庭を持つ、八つのマドラサ、複合体の辺にそって長く配置された八つの建物(これらは店舗や宿泊施設であった)、巡礼者の宿舎或いは大衆食堂、キャラバンサライ、そしてチュルベ(霊廟)があった。その複合体の厳格な対称的な配列は、いまだにエスプラネード ( 都市の優れた景観を見渡す)に現れている。

この壮大にデザインされた総体は、西欧の殆どのルネサンスの建築計画よりはるかに大きなスケールであった ;それは、またずっと機能的でもあった。そのスケールと機能の結合は、ファサード・キュッリイェを次世代のオスマン朝の建築の理論的枠組み(パラダイム)にした。

勝利を記念して
1453年に、メフメト二世ファティフ(征服王)は、コン スタンティノープルを征服した。そしてそれは、その後間もなくイスタンブールとなった。荒廃したビザンティン聖12使徒教会の場所に、彼は、一群の公共の建築物で囲まれたモスクを建てた:マドラサ、図書館、イマレト(大衆食堂)、キャラバンサライそしてチュルベ。この巨大な複合体、キュッリイェ或いは慈善設立物は、1463年〜1471年の間に建てた。そのファティフ・ジャミは、10ヘクタールに及ぶ複合体の中心に立っている。その対称的なレイアウトと巨大なオープンスペースは、建築家アティク・シナン(先人シナン、より有名なシナン(スレイマンとセリム二世に仕えた)と異なる)の作品である。

1. モスク
2. 中庭
3. チュルベ
4. マドラサ
5. キャラバンサライ
6. 図書館

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