スレイマン壮麗王のチュルベ(霊廟;訳注)


スレイマン(1566年没)の為に、シナンは、チュルベ或いはモニュメンタルな墓(スレイマニイェの奥廊にたち、墓の為に用意されたペリボルス(peribolus)の主軸の中央に聳えている)を設計した。 ロキセラナ(ウクライナ生まれのスルタナ、スレイマンの愛妻)は、1558年に没し、宮廷建築家によってスレイマンの為に建てられたチュルベの東に小さな霊廟に埋葬された。チュルベの伝統(ルーム・セルジューク族がそれに塔墓を与えた)は、セルジューク族によるブルサでの様に、オスマン族によってイスタンブールで継承された。

スレイマンの墓は、直径と高さの双方が21mに達する八角形の建物である。墓の周りの低いギャラリーは、儀式的周回(イスラーム世界での崇拝を特徴付ける慣習)を スムーズにしている。その中央スペースは、八本のコラムに載った八角形のアーケードに載せられた半球状のドームに覆われている。

様式的な観点から見ると、その建物は最初のイスラムの葬式用記念碑に由来するチュルベの系統に属している:862年に遡るサーマッラーのカリフ・アル・ムスタンシルの墓。アッバース朝の建物であるそれは、八角形で、同様に故人の墓を包含するドームが架けられたホールを囲むギャラリーを有する。このプロトタイプは、それ自身の先祖を有す(特に、687年に遡り、同じ特性を有する、伝統を誇るエルサレムの岩のドーム):周回廊を持つ八角形の中央の空間。

スレイマンの墓の屋根は、一つの独特の特徴を持っている:それは、二つの外皮(外側のドーム(直径16mの大きさ)の中に入れられた、内部の度ドーム(直径11m))から作られている 。この扱い方もまた、岩のドームに由来し、そこでも、木造のドームが二つの外皮を持っている。そのシステムは、ティムール朝によって採用され、グル・イ・ミル(1404年に遡る、サマルカンドにあるタマーランの墓)には、二つの同心のドーム(一つは他方よりかなり大きい)がある。後に、同じ形式が、ペルシアのサファヴィー朝によって建設された一連の建物のために採用された。

そうして、シナンがスレイマンの墓を設計するようになった時、彼は、建設の技巧によって、完全な伝統様式を再現しよう試みた。このモニュメンタルな記号学は、ムスリムによって、建築における象徴的形態と特質に与えられた重要性を物語っている。

彼のキュッリイェのあまり出入りのない庭の中にある、モスク(その象徴的表現は彼が指図していた)の奥廊に、スレイマンは横たわっている。
トルコにその究極のパワーをもたらした男の霊廟は、信徒たちの墓で囲まれている。

スルタンの埋葬地
スレイマニイェの後ろの共同墓地に、シナンはスレイマンの為の八角形のチュルベを建てた(1566)。その立面図と断面図は、ドームが架けられた部屋を囲み、巡回の儀式をスムーズにする回廊を示す。
老年期のスレイマン
スルタンのこの肖像画は、ニガリによって 1565年頃に製作された。それは、カフタンを纏い、やつれた顔をした、灰色の顎鬚をたくわえたスレイマンを表している。彼は、二人の法廷使用人を従えている。
(トプカプ・サラユ博物館の図書館。イスタンブール)

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