木の町、石のモスク


大部分のトルコ人の町(特にイスタンブール)では、ほとんど全ての住宅(集合住宅も個建ても)が、木材で建てられた。これは、地震の衝撃を低下させる為であると言われている。町は、背の高い木造家屋の茂みを抜ける、舗装されていない小路のほどけない縺れと、袋小路の曲がりくねった道で、極端に密集し入り組みがちであった。オスマン朝の時代のイスタンブールにとって、火災は非常に危険であった。大災害を避けるために、監視塔が建てられ、見張り番は、どんな発生の徴候も見つけ出した。

町の住宅は、森林に建てられた農村住宅田舎の家と大差なかった。結局のところ、大部分のイスタンブールの居住者は、地方出身であった。コンスタンティノープルの人口は、占領された時に、減退期にあった(恐らく4万人を下回る)ものの、間もなく、アナトリアとバルカン諸国から一族が流入した。スレイマンの治下には、早くも(コンスタンティノープルの陥落の100年後)、40万人の住民がその首都で暮らしていたと推測され、これは、Andre Clotによると、17世紀初期までに70万人に増加した。イスタンブールは、その時までには、地中海の沿岸、最大の都市となっていた。

住民は、三つの主要な地区に詰め込まれた :
マルマラ海と金角湾の間の岬のスタンブール(イスタンブールの旧市街地/訳注)それ自身(かつてのビザンティン);ボスフォラス海峡のヨーロッパの沿岸のベーオールー;そして、アジア沿岸のウスクダル。

商業地区の、空き地或いは街路は、特定の職業にあてられたであろう(職業ギルドの保護の下の各々);これは、東殴と西殴に共通な中世の伝統であった。ここに、革職人が集り、ここで、服地屋は、様々な布地を販売した。その街路の片側には銅細工師がおり、もう片方には陶芸士がいた。ある街路は、香料商人に充てられ、もう一つ金細工職人に充てられた。ここに両替商があった;食料品は、他の場所にあり、それ自体が区画された:その一画で、肉屋は、肉と生きたままの家禽を販売した;ある街路では、果実が、もう一つの別の街路では生鮮野菜が販売された。

それらは、オスマン帝国各地から陸路と海路を使って来た為、販売された物品の多様性は、驚くばかりであった。港湾地区は、従って、その都市の中で最も忙しく、最も込み合っていた。商業港は、完全に海軍のドック(兵器庫の近くに横たわり、Tophane地区を独占した)から分離していた。

ちょうど、特定の職業が特定のゾーン或いは街路のみに位置していたように、異なる共同体(アラブ族、トルコ族、アルメニアのキリスト教徒、そしてユダヤ人)は、もっぱら別々に生活した。ユダヤ人に対するスルタンの政策は、非常に寛大なものの一つであり、彼らは、多くのスペインから流出さた者たち受け入れた。別の共同体は、ギリシャ正教徒たちによって形成された。カトリック教徒の共同体(もっぱら小売商人から成る)は、小さな共同体であった。ペラとガラタの埠頭にはいることを許された唯一のキリスト教的の業者は、(交易所を開いた)ベニス人とジェノバ人であった。

各ゾーンの共同体を確認するために、家々は、特別な色に塗られた。これは、差別のしるしではなかった。オスマン朝の社会は、寛大で、非トルコ人は、イスタンブールの人口の約40パーセントを成した。

都市の雑然とした街路の背後にある、トプカプ・サラユ(ボスフォラス海峡達する半島の先端にある庭園に置かれた)は、平穏のオアシスのように思われたにちがいない。キュッリイェも、平穏な囲い地となった(それは大モスクのドームを統括した):ファティフ・ジャミ、スレイマニイェ、シェフザーデ、その他。それらのミナレットは、その特徴的な建物の輪郭をイスタンブールに与えた。そこらから、一日に五回、ムアッジーン(礼拝時報係)の信徒を礼拝に呼び出す声が、聞かれた。

その町の地味な木造家屋群(タイル貼られ壁のあるそれらの大部分) は、モスクとマドラサの青白い石と灰色の鉛のドームと顕著なコントラストを成したにちがいない。何ものも、束の間の人の作品と宗教の「永遠の」創造物のコントラストを、これほどには明瞭にはできないだろう。


ロッジア
イスタンブールの古いトルコ人の地区にある、オスマン朝の都市住人に住まれたそのような伝統的な木造家屋は、依然として残存している。道を張り出したロッジアが、典型的である。

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