シャンジュール(アブド・アッラフマーン)/985頃?-1008−d1009

サンチェロ/サンジェイロ(小サンチョの意)とも呼ばれる。本名はアブド・アッラフマーン。後ウマイヤ朝のハージブ(侍従)アル・マンスール(ムハンマド・イブン・アビ・アーミル)の息子(三男)。母はパンプローナ朝ナバラ王サンチョ・ガルセス2世(b935-970-994)の娘でイスラームに改宗したナバーラ王女アブダ。前ハージブ、アブドゥル・マリクの腹違いの弟。ラカブは、アル・マームーン(安んじられるもの)。

虚栄心が強く放蕩者であったとも伝えられているが、実際は有能であったという説もある。カリフ、ヒシャーム2世とは共にバスク人の母として生まれたこともあってか気が合い、互いに女たちを引き連れて行き来しては遊楽に耽りコルドバ市民たちの噂の種になっていたという。ヒシャーム2世は自分の後継としてシャンジュールを指名したが、カリフの様に振る舞い、ベルベル人を重用したことから、ウマイヤ家一族、官僚貴族、市民の反発を強めた。

シャンジュールは、1009年1月、レオンの内乱に介入する為に出兵したが、その間隙にぬって1009年2月にコルドバでクデーターが起こり、トレドからコルドバに引き返す途上で主要な軍団の兵士は離反し、反乱軍により殺害された(1009年反アーミル家革命)。このクーデターにはシャンジュールの異母ジェルファーが関わったと謂われている(彼女は息子アブドゥル・マリクの死がシャンジュールの陰謀であると考えていた)。彼は僅か20歳そこそこで生涯を閉じることになった。

*彼を無能で放蕩者で不肖の息子というアラブの史料は、そのまま鵜呑みにすることは出来ないだろう。彼をキリスト教国の王の孫となじったアラブの有力者からの態度からも、正にバスク人の国家ナバラ王国に対する恐怖感が逆に感じられる。何故なら、当時の政権は共に
ナバラ王家の正統な血統を持つカリフ、ヒシャーム2世とそのハージブ(侍従)シャンジュールの強力タッグからなっていたからである。見様によってこの政権は、バスク人のムスリム王朝と、とれなくもない。実際、同じバスク人王妃トダの血をひく同世代人ナバラ・アラゴン国王サンチョ大王(在位1004-1035)(シャンジュールとは従兄弟の関係で、面識もあったに違いない)は、そういった血縁関係でキリスト教スペインをほぼ統一したのであるから。アラブの血をひく有力ムスリムたちが疑心暗鬼になったとしても、バスク人にアラブ人が乗っ取られると考えたとしても無理のないことではないか。ヒシャーム2世とシャンジュールの風評はそうして不当に貶められたのではなかったか?、、、 ヒシャーム2世がシャンジュールに唆されたのではなく、、、女たちを引き連れた遊楽が大石庫之助的な策謀であったとしたら、、、自分の子でなくシャンジュールをカリフに自身の後継に指名するほど意気投合した親密な二人のバスク人がそこでどんな会話を交わしたか?、、、、、そして後にそこにサンチョ大王が加わっていたとしたら、、、、バスク人の血統 がムスリムをスペインから駆逐しスペインを統一する以前に、宗教の枠を超えた強大なバスク・ムーア帝国が出現したかもしれないし、さらにフランクを制圧し、イングランドを制圧し、ヨーロッパを統一したかもしれない。

そんな会話が、二人のバスク人の間で交わされたかどうか?事実と幻想は歴史の闇の中である。、、、、彼らは、事を性急に運びすぎたのかもしれない。


1009年のレオンの内乱の時代のレオン国王アルフォンソ5世は、シャンジュールの父マンスールの妃の兄弟である。また嘗てレオン王国サンチョ1世を王位に復権させたのはヒシャーム2世の祖父アブド・アッラフマーン三世である。レオン遠征にも十分な理由があったのであるが、異例の冬期の遠征にもなしかしらの意図が感じられる。

シャンジュールが逃亡先にイスラームではく、キリスト教の修道院を求めたのも、その側で最期まで戦った忠義の兵士がレオンのキリスト教徒であったのも、意味深で、逆に当時のキリスト教徒のシャンジュールに対する心情を思わせる。

*彼の死後、サラゴサのトゥージーブ家の保護下にあった、彼の息子アブドゥルアズィーズ(?-1021-d1061)は、1021年バレンシアのサカーリバたちに統治者として招き入れられる。彼はハンムード家のカリフ、カーシム(18、20代アミール)に忠誠を誓い、バレンシアの代官に任命された。実質的にはアーミル朝の成立。周辺諸国との抗争に、キリスト教国の兵を導入した。
また、アブドゥルアズィーズの息子(シャンジュールの孫)、アブドゥルマリクは、彼の死後王位を継いだが、1066年、トレドのズンヌーン朝のアル・マームーンに、バレンシアを開城。宰相アブー・バクルが、バレンシアの代官となり、アブドゥルマリク王は投獄され、アーミル朝は終焉した。




1009年当時のバスクとアラブの人間模様を表わした系図


参照: スペイン諸王朝の系図/クライシュ族の系図/ナバラ王国とウマイヤ朝の婚姻的相関図/

2006/10/09//追記修正2006/10/09// 07/02/10
トダ・アスナレス アブド・アッラフマーン3世 アル・マンスール アブドゥル・マリク アブドッラー ハカム2世 バスクとアラブの系図1009 inserted by FC2 system