Baghdad/バグダード
アッバース朝(750‐1258)の首都。初代カリフのサッファーフ(在位750‐754)がクーファで即位した後、短期間のうちにクーファから北方の新都ハーシミーヤ Hashimiya、さらにバグダード西方のアンバール al‐Anbar へとめまぐるしく変わった。第2代カリフ・マンスール(在位754‐775)は即位後まもなく都をアンバールからハーシミーヤへ戻したが、ここはシーア派住民の多いクーファに近く政情不安であったから新王朝にふさわしい首都を他の地に求める必要があった。入念な調査の結果、ササン朝時代のイーサー運河やサラート運河などを活用できるティグリス川西岸の小村バグダードが選ばれた。
建設は762年から始まり10万人の労働者と400万ディルハムの巨費を投じて4年後の766年に、三重の城壁に囲まれた大規模な円形都市が完成した。マンスールはコーランにある天国(ダール・アッサラーム)の名にちなんで新都の正式名をマディーナ・アッサラーム Madina al‐Salam(平安の都)と定めたが、一般には、その後も旧来通りバグダードの呼称が用いられた。直径2.35kmの円城内には、黄金門宮と大モスクを中心に諸官庁・親衛隊の駐屯所、カリフ一族の館などが置かれ、外壁に設けられた四つの城門は、それぞれホラーサーン,バスラ,クーファ,ダマスクスに至る街道へと通じていた。イラクに伝統的な円城と中央にそびえる宮殿の緑色ドームは強大なカリフ権の象徴となった。首都がサーマッラーに移された時代(836‐892)を除いてアッバース朝の歴代カリフはバグダードに居を定めた。

グダードの円形都市の想定プラン/図版出典:Islam vol.1 Taschen

商業・産業
バグダードはユーフラテス川とティグリス川を結ぶ運河網が発達した肥沃な農耕地帯のほぼ中央に位置していた。しかも東西を結ぶキャラバン・ルートと南北の河川ルートの交差点にあったから帝国経済の発展につれてイランや中央アジアから商人や手工業者が来住し、まもなく市街地はティグリス川の西岸から東岸へと拡大していった。市場(スーク)は最初、円城の外壁と内壁とを結ぶ4本のアーケードに沿って置かれていたが773年円城の治安を維持するために約2km南のカルフ地区へと移された。
アッバース朝時代のバグダードは、絹織物・綿織物・ガラス・金属製品・刀剣・紙などの生産地として知られ、それぞれの同業者は組合(ヒルファ,ミフナ)を組織したが、その長は政府の任命であった。また,裁判官(カーディー)や市場監督官(ムフタシブ)による販売や両替の監督もすでにこの時代から始まっていた。最盛期の9〜10世紀になると人口は150万に達し、モスク・浴場(ハンマーム)・病院などの公共施設の数も飛躍的に増大した。一説によれば9世紀末のバグダードには6万の浴場があったという。
文化
アッバース朝のカリフは官僚機構を整備して帝国の行政をつかさどるとともに,学者や文人を保護してイスラム文化の振興に努めた。マンスールが建設した円城内のモスクは法学を研究・教育する中心機関となった。またマームーンによって建設されたバイト・アルヒクマ(知恵の館)では,ギリシア語による医学・数学などの自然科学書がアラビア語に翻訳され,その活動の成果はアラビア科学の発展に大きく貢献した。
アッバース朝以後
ブワイフ朝に続いてセルジューク朝(1038‐1194)が1055年にバグダードに入城する。1258年にモンゴル軍の侵入を受けるとバグダードはイル・ハーン国(1258‐1353)の一地方都市となり、イスラム文化の中心はマムルーク朝治下のカイロへと移行した。その後バグダードはティムール軍の侵入を2度にわたって受け(1392‐93,1401)、徹底的な殺戮と破壊によって数多くの街区が荒廃に帰した。さらに16世紀にはサファビー朝とオスマン帝国の争奪の地となりバグダードは極度に衰退して人口はわずかに1万5000を数えるまでに減少した。1638年以降はオスマン帝国の総督(パシャ)による比較的安定した統治が行われた。



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