コルドバのメスキータ(モスク) 786-787/962/987
首都コルドバのメスキータ(モスク)はアブド・アッ・ラフマーン一世により、786-787年に一年間で建設された、イスラーム建築を代表する傑作の1つ。当初、70m角の 5,000uを占める建物で、イスラームの伝統に従った中庭とそれに沿った横に長い礼拝堂で構成されていた。多柱様式の礼拝堂にはキブラに対して垂直なアーケードをもつ11廊があった。その空間は、西ゴート族(ヴィシゴス)や古代ローマの建物から再利用された110本のコラムにより12のベイに分割されていた。その大理石のコラムと柱頭は、前ウマイヤ朝時代のイスラムのスペイン侵攻の期間に荒らされた古代の都市の廃墟から取り出されたものであり、この建材の再利用は、このモスクのデザインを方向付ける一つの要因となった。礼拝堂は、木造屋根で覆われ、中庭側のファサードは大きな開口部で礼拝堂に光を取り入れていた。

最初の拡張
最初の拡張はアブド・アッ・ラフマーン二世によって、832年〜848年にかけて行われた。その時に礼拝堂は、200本のコラムの多柱様式によって縦方向に2倍の大きさに拡張され、キブラは南西に移動させられた。
二度目の拡張
二度目の拡張は、アブド・アッ・ラフマーン三世とその息子のアルハカム二世によって行われた。アブド・アルラフマーン三世は中庭を拡張し、34mの高さの方形のミナレットを中庭の縁に設置し、続いて961/2年にアルハカム二世はさらに礼拝堂を南側に12ベイ分拡張した(70m幅のままでであったが、 長さは115mになった)。この広大な多柱様式の礼拝堂と交差リブボールトの八角形のドームを持つミフラブは、コルドバのメスキータの独創的な特徴となっている。

三度目の拡張
三度目の拡張は、987年に、アルマンスールによって、行われた。今回は、南側に延長することが出来なかった為、8廊が礼拝堂の東側に加えられた(224本のコラムを追加された)。


多柱様式

巨大な室内空間は(例えばハランを形成した)均整がとれた高さを必要とすが、イスラムの建築家によってスペイン各地から(そしてプロバンスの様な遠い所から)かき集められた古代ローマまたヴィシゴス(西ゴート王国)のコラムは、ダマスクスの大モスクで再利用されたもの程、背が高くはなかった。この欠点を補うために、建築家はコルドバの多柱形式の偉大な発明案である独創的な解決策(一連の縦通材による平らな屋根、平行な円筒ボールト屋根、を支持する、2重に重ねられたアーケードのシステム)を生み出した。
メリダとセゴビアのローマ時代の送水路にヒントを得た、これらの上部のアーチは半円形であった。一方下部のものはわずかに馬蹄形をしている。この解決策は、一連の高のあるアーケードをもたらした。そのアーチは、赤色と白色の石材が交互に配されている(この2層の支柱のシステム全体に視覚的な優美さを与えたビザンティンのモチーフ)。明色材と暗色材のモティーフは、アブラクと呼ばれる。
コルドバの大モスク(西イスラム世界で最も巨大な信者の為の空間)は多柱空間の可能性を実証した。3.7エーカー( 1.5ヘクタール)の面積を超える、多数の身廊とベイを覆う600本のコラムを持つ、その建物は増殖と反復によって、以前の建物の外側に加えられた。ルネッサンス期の大聖堂の不幸な増築以前には、ホールに入ってくる来訪者たちは、コラムとアーチのこの膨大な数に畏怖しなければならなかった:どの方向も、薄明かりの中で消えていく、そして無限につづくように思わせるような、引き込まれる様な景観であった。モスクの中央のキリスト教の建物の存在にもかかわらず、この効果は、依然として残っている。
コルドバの多柱形式のモスクのすべての要素はそれをイスラーム文明の最も独創的な創造要素と結合させる。水平的空間(その目に見えない境界がその無限の空間を強調する)から、コラムの森林と層を成したアーチ(その2色のアーチ石は軽快に振動するかのようである)の絶え間ない優美さまで。以前には決してこのような巨大な屋内の空間は、存在していない。古代エジプトの寺院の多柱ホールも、ローマのバシリカも、コンスタンティノーブルの教会も、それと比べるまでもなかった。それらの空間は決して軽妙でもなく、そして透明でもなかった。。
コルドバのモスクをもって、イスラム教の建築はフスタート(現在のカイロ)のアムルのモスク或いはカイラワーンのアグラブ朝の大モスクでなされた構成形式の頂点に達した。そして、多柱様式の空間はイスラム教のスペインの影響下でマグリブで幾度となく繰り返えし建設された。
装飾
コルドバの大モスクの装飾は、カリフ、アルハカム二世の業績であった(特にミフラブの空間とそれを囲んだマクスラについて)。多くの点でこの礼拝堂の装飾は、エルサレムとダマスカスの伝統を発展させた。そしてその継続性は、ウマイヤ朝のスタイルに見ることができる。しかしながら2つの近東の創造物とアンダルシアの創造物には最終の状態において150年の隔たりがあるという事を覚えておく必要がある。
マクスラ
マクサラは、君主の為の場所を区切っている主要なミフラブの周りの囲いという意味のアラビア語である。この形式(イスラム-の原点の平等主義の理想に反する)は北部のスペインの当時のムーア人のアラビア様式の教会のイコノスタス(聖画)に対する建築的見地に関係すると考えられている。コルドバのマクスラは極めて豪華な多弁アーチが交差することによって、身廊は3っつの等しいエリアに分割されている。互いに交差するアーケードの演出はクラウストルムあるいは透かし抜かれたスクリーンを創造し、モスクの神聖性を高めている。


ミフラブ
コルドバのミフラブは、キブラ壁の単純な凹所ではなく、小さなシェルの形状をしたキューポラで覆われている。
それは、特有の『扉』を形づくる、大きな馬蹄形アーチを通して入る一つの空間となっている。ミフラブは決して偶像のためのニッチではなく天国への道の通路であり、それは闇に陥れられ、神の無限を暗示した見通せない神秘性で満たされている。しばしばこの形式はアンダルシアでそしてマグリブで度々使用された。例えばサラゴサのアルハファリアの宮殿の小礼拝堂、テレムシェンの大モスク、フェズのカラウィンのモスク、ティンマルの金曜日のモスク、セビーリャの大モスク等。

アルフィズ
この空間は、多彩色のモザイクと金色のモザイクで覆われ、派手で豪華な馬蹄形アーチの後に配されたのでさらに暗かった。ミフラブのアーチのまわりの大アーチ石の装飾は、金色と青色と赤色が織りなす背景の上の抽象的な果物と花の形状から成り立っている。このアーチのまわりには、浮き彫りのアルフィズと呼ばれる一種の四角いアーキトレーヴがあった。そしてそれはイスラム教の建築言語の典型である。これらのフレームもまた、青い背景に金色のモザイクで覆われている。
スパンドレル
ミフラブのアーチとのアルフィズのフレームの間のスパンドレルは大きな大理石の形式化された椰子の木の彫刻で飾られている。この彫刻された大理石は、モザイクのフリーズで交互に配された装飾的な帯、そして大きなパネルの双方で見られる。そして、それはミフラブの両側に柱脚を造っている。最も重要なミフラブのまわりとアルフィズの上には、小さなコラムに支持された7弁アーチの装飾パネルがある。これらのアーチは金色を背景とした美しい花のモティーフを構成する。そしてそこでは、蔓と群葉が散りばめられている。

キューポラ
マクスラの上に覆いかぶさる屋根は、疑いの余地なくモスクの最も興味深い建築的、装飾的要素である。スレンダーな8つのアーチ(組み合わせのリブが剥き出しで、直径が6mの八角形のプランに刻まれた)は、リブのあるキューポラを支持する。これらのアーチは2つの組み合わせられた正方形の原則に基づいて各々が 45度傾けて設置された一つのパターンを形成する(エルサレムの中の岩のドームでのものと同じプラン)。このボールトのシステムは、ゴシック様式の時期に、ヨーロッパの建築を大改革することになったリブアーチの先駆けである。

ビザンティンのモザイク職人
この複雑な天井は金背景の上の豪華なモザイクで完全に覆われる(ビザンティンの芸術家の作品で、ミフラブを囲んでいるモザイクの装飾である)。岩のドームとダマスカス大モスクのときの様に、コルドバで装飾を制作するための職人はコンスタンティノーブル出身であった。カリフ、アル・ハカム二世は、ビザンティンの皇帝( ニケフォロス2世(963-969年))から、モスクの『最も神聖な場所』を囲む黄金の装飾を制作するモザイク職人の一団を受け入れた。
これらのキリスト教徒の職人は、コンスタンティノーブルで2回の聖像破壊の重大局面( 730-787年と 815- 843年)があったため、ダマスクスの大モスクの中庭を飾った景色の描写より抽象的な作品を創作した。イメージの使用を禁じている聖書の命にそむくという理由でムスリムによって非難されて以来、何人かのビザンティンの神学者が聖像破壊の原理を広げたようである。いずれにせよコルドバでは(少なくとも近東でより)、政治的状況と軍事行動はウマイヤ朝のカリフとビザンティンの皇帝の間の実りが多い芸術的な協力を損なわなかった。この点は重要である。なぜなら、二つの宗教の組織における特別な心理的状態を示すからである。そして、それは後の十字軍とスペインのレコンキスタ双方の期間のイスラム教徒とキリスト教徒の間の関係を特徴付けた狂信とは無縁のものであった。

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継続的拡張された礼拝堂の最終型。

コルドバの大モスクの鳥瞰写真。785年から961年にかけて建設された。そのアーケードはキブラに垂直な鞍型の屋根で覆われている。後の時代にキリスト教徒によって礼拝堂の中央ハランに付け加えられたルネッサンス期の聖堂は、幽玄な空間を台無しにした。

コルドバの大モスクの側面の扉は初期のスペインのイスラム教徒の装飾的要素を示す。巨大なアーチ石の馬蹄形のアーチは大理石の穿孔された隔壁(claustra)のある多弁アーチにより形成された。 扉の上の豊かに装飾されたフリーズは小さな大理石の円柱の上の織りまぜられたアーケードを飾った。その壁はレンガの幾何学模様の卍のモティーフと石彫の蔓で交互にで覆われた。彫刻された柱頭のデザインはビザンティン美術の名残である。それらは、馬蹄形アーチの迫元石を支持する誇張された擬形を支える。

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コルドバの大モスクのメインドーム(右図)の側面にある二つのキューポラは組リブを持つ。961年に建造。

コルドバの大モスクのミフラブの前にあるメインのキューポラはアラビアの幾何学的構成 と対称な金色の装飾(アルハカム2世の為に、コンスタンチノーブルのモザイク職人が呼ばれ製作した)で成りたっている。その交差するアーチは互いに45度の角度に振られた二つの正方形のプランがベースとなっている。

大モスクのマクスラの交差する多弁アーチは効果的なシルエットを造りだす。一方でそれはミフラブの前のカリフのための場所の豪華さを強調している。その装飾は統治者の権力を演出する象徴的な役割を担っている。

アルハカム2世時代のミフラブ。突き出した枠を造っているアルフィズによって囲まれた、大きな馬蹄型のアーチは、キブラ壁の部屋の形状をしたニッチにつながる。この形式は西域の帝国のイスラム建築において、ミフラブの発展に特別意味を持った。


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コルドバの大モスクのミフラブの内部。その小さな空間は頂上に帆立貝のモティーフがある。後期ローマ帝国時代の装飾のモティーフ。 無限に広がる様に思える、コラムとアーチ。
987年建造の部分。

コルドバの大モスクの二重のアーケード。これらの重ねられたアーチはおそらく、メリダのローマの水路からヒントを得たものであろう。
784年建造の部分。

絵画と金色のモティーフでアクセントがつけられた豪華な天井。それに隠蔽された屋根のトラスのフレームの下には二重のアーチがあり、それはまたさらにそのほとんどが再利用された大理石の円柱で支えられている。
参考文献:
/ISLAM VOL.1 ;Henri Stierlin ;Benedikt Taschen
/MOORISH ARCHITECTURE IN ANDALUSIA ;Marianne Barrucand Achim Bednorz ;Benedikt Taschen
参考図版:
/a.c.d.g.h.i.l ;/ISLAM VOL.1 ;Henri Stierlin ;Benedikt Taschen
/b ;MOORISH ARCHITECTURE IN ANDALUSIA ;Marianne Barrucand Achim Bednorz ;Benedikt Taschen
/e.f.j.k. ;Four Caliphates : The Formation and Development of the Islamic Tradition (History of Architecture , Vol 6) ;Christopher Tadgell ;ellipsis


関連サイト

http://www.fullscreenqtvr.com/02panoramasdk41_48.html
http://www.infocordoba.com/spain/andalusia/cordoba/cordoba_mosque.htm
http://archnet.org/library/sites/one-site.tcl?site_id=31
http://www.muslimheritage.com/topics/default.cfm?ArticleID=262


05/09/22
05/10/11修正
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