ハンムード朝/Hammudid (1016-1057)
1009年のアーミル家革命後のコルドバの混乱期に、アンダルシアのコルドバでカリフ位についた一族の政権。イドリース朝の末裔ハンムードが、スペインでの始祖。ハンムードの息子アリー・イブン・ハンムードはアーミル家に仕えていたが、カリフ、ヒシャーム2世の死後、後継者に指名されていたと自称しカリフの地位に就いた。アリーの殺害後、兄カースィム・アル・マームーンがカリフ位に就くが、アリーの弟ヤフヤ(カースィムからカリフ位を奪う)との抗争が絶えず、両者ともコルドバ市民を制圧することができず、結局勝利したヤフヤも1026年頃コルドバからマーラガに戻り、マーラガ政権のみを一族に継承させることになった。

(弟)アリー・イブン・ハンムード
イドリース朝の末裔ハンムードの息子(弟)。アーミル家のディーワーンに登録され、サブタ(モロッコ)の代官であったが、ヒシャーム2世の復位を名目にマーラガに渡る。ハイラーン(アルメリーアに政権を樹立したサカーリバ)、ザーウィ(エルビーラのサンハージャ族)もこれに合流した。
1016年コルドバのベルベル族を破り、アル・ムスタイーン(アブド・アッラフマーン三世の曾孫/15代アミール)を処刑し、カリフ位(16代アミール)に就く。コルドバ市民とベルベル族の和解に努め公正な統治を行なっていたが、1018年上辺境の諸豪族と東海岸のサカーリバは、アブド・アッラフマーン三世の別の曾孫、アル・ムルタダー(アブド・アッラフマーン4世)をカリフ(17代アミール)に擁立したことから、焦ったアリーは、軍資金集めの為市民を圧迫し、宮殿のハンマーム(浴場)でサカーリバに殺害された。
(兄)カースィム・アル・マームーン(カースィム1世)
イドリース朝の末裔ハンムードの息子(兄)。タンジャとアルヘシラスの代官を経て、セビリアの代官となった。1018年弟、アリーの殺害を聞きつけ、コルドバに駆けつけカリフ(18代アミール)を自称した(アル・ムルタダーのカリフ擁立は失敗)。融和政策で、サカーリバと和解し、サハラ砂漠以南の黒人を大量に兵として採用したが、それに反発した弟アリーの息子ヤフヤが、1021年、サブタで反乱を起こし、カリフ(代19代アミール)を自称し、コルドバに入った。カースィムは、セビリアに逃れ、そこでカリフ位を主張した。1022年、ヤフヤは、ベルベルによりコルドバを追放され、カースィムは、ベルベルにより、コルドバに迎えられる(20代アミール)が、ベルベルの傀儡となり、コルドバのベルベルの、市民への掠奪、暴行が横行する。1023年、コルドバ市民軍は、カースィムとベルベルを追放し、カースィムは、セビリア市民からも入城を拒絶され、ヤフヤの軍に捕らえられ、マーラガに投獄された。
ヤフヤ1世アリーの息子)
アリーの息子。1021年、サブタで反乱を起こし、カリフ(代19代アミール)を自称する。1022年、ベルベルによりコルドバを追放されるが、マーラガに逃走するも、カリフ位を主張し、アルヘシラスとタンジャーをカースィムから奪った。翌年の1023年、コルドバ市民軍によりコルドバから追放されたカースィムを捕らえ、マーラガに投獄し、1025年には、コルドバを奪回(23代アミール)したが、結局コルドバを掌握できず、半年後マーラガに帰った。その後マーラガのハンムード朝は1057年、ムハンマド3世(アリーの孫)の代まで続く。下家系図参照↓
ハンムード朝の系図
参照
1037年頃のタイファの勢力図中世アンダルシアの主要都市(詳細)part2中世スペイン/タイファ時代の国家とその支配者たち
 


07/02/14作成//追記補正 07/03/10
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