Horseshoe ahrch/馬蹄型アーチ
迫元と起拱線の間に、上部アーチの円弧が連続する形状をした石造部を持つ、上心迫持アーチ。馬の蹄に似ている事から、馬蹄形アーチ(Horseshoe ahrch)と呼ばれている。
馬蹄形のアーチとしては、コルドバの北西6?のメディナ・アサーラが有名。10世紀の中頃にアブト・アッ・ラフマーン三世によって離宮として建設された。/図版出典:Islam vol.1 Taschen
馬蹄形アーチの起源
多くのイスラムの建築物でこのタイプのアーチが使われているという単純な理由で、馬蹄形アーチはアラブの建設業者が考案したとされることが多い。しかし、紀元7世紀(ターリクのイベリア半島上陸以前)を端緒とする、スペインのビスゴス(西ゴート族)のモニュメントには、エブロ川とドゥエロ川の間で、既にこの構造の形式が使われていた(例えば、サン・ファン・デ・バニョスの教会(661年)で)。一方で、近東でも、キリキア(シリシア)のアラハンの様な修道院教会にも、紀元560年を端緒とする幾つかの控えめな例がある。この様に、馬蹄形アーチはすでに帝政ローマ帝国時代には存在しており、幾つかの例を、紀元2世紀と3世紀以降のスペインの墓碑石板に、見ることができる。この様に、アラブ人が西側に馬蹄形アーチを持ち込んだ訳ではない。しかし、彼らが、8世紀以降にそれを広く採用しため、結果的に、それは彼らの建物の特徴を示すものの一つとなった。

661年に建設されたビシゴス(西ゴート族)のサン・ファン・デ・バニョス(バレンシア)の教会の馬蹄形アーチは、この形式が少なくとも、アラブが到着する50年前にイベリア半島にあったことを示している。/図版出典:Islam vol.1 Taschen キリキアのアラハンの修道院教会の馬蹄形アーチ。あまりはっきりした馬蹄形ではない。      /図版出典:A Christian journey through Anatolia

7世紀の西ゴート時代の石版には、興味深い例がある(下写真)。それに登場する馬蹄形は、帆立貝の装飾から形成されている。馬蹄形アーチという名称から、馬の蹄をイメージしてしまうが、そうではなく貝の形状がその原型ではないだろうか?ギリシャ神話に由来すると思われる帆立貝の装飾(スカラップ)は、ローマ帝国時代からニッチのキュドフォーを装飾する題材として使用されていたが、下の写真に見られる様に、その輪郭がアーチとして独立し西ゴード時代に標準化したと推測される?それがローマ時代のニッチのキュドフォーの装飾であるスカラップに由来するとすれば、ローマ帝国が同時に支配していたスペインとシリアで類似形状のアーチが発達したとしても不思議ではない。ちなみに多弁アーチの起源もやはり帆立貝である。

この西ゴート時代の装飾板は、イスラム以前の馬蹄形アーチを示している。:Spain, 7th century/14 x 48 x 84cm/Cut and shaped stone/Museo Arqueologico Nacional, Madrid, inv. no. 62286/図版出典:cloudband - dedicated to rugs, carpets, textiles, Asian art and tribal art.

ローマ帝国時代の建造物に残る、私の知る限りの最古の例は、ローマのトラヤヌスの市場にある。この市場は、2世紀の始めにダマスクス出身の建築家アポロドロスによって設計されたものである(下写真)。このアーチは壁面に埋め込まれた隠しアーチとなっているが、美しい真円の延長による、馬蹄形を成している。これを見ると、既にこの時代には馬蹄形アーチがモティーフとしては確立していたのではないか?と思わせる。ただしここにおいて、その形態は積極的に使用されている訳ではなく、一部の使用にかぎられており、メジャーなモティーフとはなり得なかった様である。ローマ帝国の建築家たちは、生真面目な真半円を好み、この様な形態は中途半端に思ったのかもしれない。皇帝トラヤヌスは南スペインのセヴィリャ近くのイタリカの貴族の息子であったが、その事実と、このモティーフとの関係は定かではない。確かなことは馬蹄形アーチのモティーフ自体はローマ帝国時代の2世紀初頭には既に存在していたという事実である。
トラヤヌスの市場の隠しアーチとなった馬蹄形アーチ。2世紀始め。/図版出典:Rome Taschen
10世紀中にアブド・アッラフマーン三世により建設されたマディナ・アッ・ザフラーのサロン・リコには、このトラヤヌスの市場の馬蹄形アーチに類似した興味深いニッチの例がある。この二つの例に共通するのは、馬蹄形アーチがアーチ下部の正方形のフレームと合わせた構成になっていることである。この馬蹄形アーチ+矩形の構成形態にはなにか意味するところがあるのだろうか(古代ギリシャ自然哲学の関係?、円と正方形は特別な意味を持つ形)?  単なる偶然の一致とも思えないし、10世紀にサロン・リコをデザインした工匠が2世紀に建設されたローマのアーチからインスパイアされたとも考え難い(10世紀にこれは目に見えるかたちとしてあっただろうか?)。なんらかのデザイン思想的背景があったと想定したくもなる。皇帝トラヤヌスが生活したスペイン時代、この形態はなんらかの特別な意味をもって既に文化的に成立しており、イスパノ・ローマ人の工匠から8世紀間引き継がれてきたものと考えられないだろうか?後ウマイヤ朝のアンダルシアの建築は、アラブの建築文化が持ち込まれたものとして説明される傾向にあるが、実はイスパノ・ローマ人の工匠の末裔たちが継承してきたその建築文化との融合によるものではなかったのでないだろうか?後ウマイヤ朝の建築文化は確かにアラブの建築から多大な影響を受けているが、スペイン独自の建築様式を誕生させ、それは逆に北アフリカや西アジアにも伝播している(馬蹄形アーチはその代表)。スペインのムスリムの建築様式(ムーア様式)は、イスラーム建築のスペイン版という以上に、イスパノ・ローマの建築様式とアラブの建築様式な幸福な融合といえるかもしれない。、、、そう考えるとコルドバのモスクでさえ、最初に設計したのは、イスパノ・ローマ人の工匠の末裔(キリスト教徒或いはムスリムであったとしても)だったかもしれない。初期のイスラーム建築では、その設計がキリスト教徒や異教徒によるものも珍しくない(エジプトのイブン・トゥールーンのモスクがキリスト教徒の建築家によって設計されたことは有名)。
マディナ・アッ・ザフラーのサロン・リコのニッチ。10世紀中葉。/図版出典:http://www.cantua.nl/introduction.htm



キリキアのアラハンの修道院教会の関連サイト

View from a Turkish Monastery Introduction to the Early Byzantine

Alahan
A Christian journey through Anatolia
後ウマイヤ朝の関連サイト
cloudband - dedicated to rugs, carpets, textiles, Asian art and tribal art.

05/05/27//2006/01/07//2006/01/15//2006/10/22追記
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