Mozarabs/モサラベ
アラビア語 must'aribn「 アラブ化」から派生した。アラブ人の支配下でジンミーとして生活したキリスト教徒。 言語はイスラム化したスペイン語で主にキリスト教徒の共同体で使われた。
スペインイスラーム支配下のモサラベは、宗教的身分はアラブに隷属していたものの、生活面文化面では相対的に決して北部のフランスやドイツのキリスト教徒に劣っていた訳ではなかったし、スペインのムスリムに比べて極端に貧しかったわけでもなかった。中にはイスラーム政権の中核にあり、実質的に政権を左右する者もいた。アミールの強力な協力者であった彼らはムスリム民衆の妬みをかうほどであった。イスラーム・スペインの統治者達は、同族よりむしろ、スペイン人(キリスト教徒)を信頼した様である。(東域では、トルコ人がカリフの身辺を警護した様に)

*政権の中枢にあったモサラベ(キリスト教徒)達
ハシント 800年頃、ハカム一世の小姓。政治に精通し、アミールの実質的な参謀となり、宮廷の陰謀やアミールの諮問官たちの人事を左右した。
レオビヒルド 9世紀中葉、ムハンマド一世(852-886)の治世、コルドバの宮廷の高官。後ウマイヤ朝と西欧諸国の関係をとりもった。858年サン・ジェルマン・デ・プレの聖職者に殉教したキリストの遺骸を政府の名の下に渡す。
ロマヌス 9世紀中葉、医師。コルドバの宮廷の高官。
セルバンド 9世紀中葉、アルアンダルスのキリスト教徒界の総伯爵。コルドバの宮廷の高官。
オステヘシス 9世紀中葉、マラガの司教。アミールの右腕であったハージブのヒシャムと親友関係にあった。
ゴメス・イブン・アントニオ 9世紀中葉、モサラベ共同の裁判書記・会計・総務を担当した役人(エスセブトール)。ローマ時代からの古い家柄のイスパニア人。フリアン伯爵の玄孫。
フォルトン 10世紀初期、コルドバのアミールの小姓。新ムスリムとキリスト教徒(モサラベ)から成る混成反乱部隊の鎮圧に王宮のムスリム軍と共に参加し、降伏させるための交渉の陣頭指揮をとった。
レセムンド 10世紀中葉、エルビーラ司教、アラビア名、ラービー・ビン・ザイド・アル・ウスクフ(ウスクフはカトリック司教の意)。ラテン語とアラビア語に精通し、学識豊かでカリフ、アブド・アッラフマーン三世とハカム二世の実質的参謀。外交使節としても活動し、神聖ローマ帝国皇帝オットー一世やビザンツ皇帝コンスタンティノス七世の宮廷などに赴き、エルサレム巡礼も行なった。マディーナ・アッ・ザーヒラ宮廷都市の建設において、コンスタンチノーブルから持ち帰った二つの噴水盤は伝説的至宝。「コルドバ歳時記」の著者として有名。
ホセ 11世紀中期、タイファ王国時代コルドバ王国の軍事指揮官。聖エウロヒアの弟。
イブンル・マルガリ 11世紀後期、タイファ王国時代セビーリャ王国アル・ムウタミド王の寵臣。キリスト教聖職者。
イブン・ゴンディサルボ 11世紀後期、タイファ王国時代サラゴサ王国アル・ムクタディル王の首席大臣。キリスト教徒の詩人。
アブ・ル・ラビ 11世紀後期、タイファ王国時代ズィリー朝のバーディース王の寵臣。実質的な行政長官。

*アミールに仕えたモサラベ(キリスト教徒)の軍隊

アブド・アッラフマーン一世の治世 4万人のキリスト教徒の軍隊を擁する。(当時のアラブ人の人口は3〜5万人であった)
ハカム一世の治世 *キリスト教徒を対象とする自由人傭兵制度の完成。
都市や農村のキリスト教徒共同体毎に、それを監督する伯爵が志願兵を募って100-150人からなる中隊をいくつか作り、その中隊は共同体の治安維持を図る他、ムスリムの暴動や反乱を鎮圧したり、遠方の軍事遠征に参加した。
ハカム一世の親衛隊(2000人の兵からなる15中隊)の指揮もコルドバのキリスト教徒伯爵に任されていた。
ナルボンヌとラングドック人からなる中隊はその絶対的忠誠心ゆえにアミールのお気に入りであった。
アル・マンスールの時代 アル・マンスールの軍隊には多くの自由人キリスト教徒兵士がいたが、マンスールは彼らを高く評価し高給を支給した。
タイファ王国時代 キリスト教徒兵士は小国の王の軍隊に多数入隊し、将校や司令官の地位に達するものも多くいた。
エル・シッドもその一人。

参考文献:イスラーム治下のヨーロッパ他
関連:イスラムスペインの様々な集団

2006/08/19追記//2006/10/15
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