Regno di Sicilia/シチリア王国
 12世紀以降シチリアを支配した王国。シチリアは9世紀から11世紀までイスラム勢力の統治下にあったが、1040年以降首長たちの間に内紛が生じた。このころメッシナに定住していたノルマン人がこの内紛に乗じてシチリアに進出、1061年から91年までに全島を征服した。その指導者ルッジェーロ1世は〈シチリアとカラブリアの伯〉を称し、その子ルッジェーロ2世は〈シチリアとプーリアの王〉となり、ここにシチリア王国が成立した。彼は教皇庁と争ってその王位を承認させ、トリポリなど北アフリカ沿岸への遠征を行って、地中海における重要な勢力となった。その国家は国王による権力集中とノルマン、イスラム、ビザンティン3要素の共存、宗教的寛容が特徴であった。

 王国の政治は12世紀中葉に一時動揺したが、グリエルモ2世Guglielmo II(在位1172‐89)によって秩序が再建された。しかし男系が絶えたため、グリエルモ1世の妹コンスタンツァと結婚したホーエンシュタウフェン家のハインリヒ6世が王位継承権を主張し、各地の抵抗を鎮圧して即位した(在位1194‐97)。彼の死後、王国は教皇インノケンティウス3世の仲介によってハインリヒの子フリードリヒ2世(在位1198‐1250)に受け継がれたが、その際に教皇はノルマンのシチリア征服以来王国が教皇の封臣であることを宣言した。フリードリヒはノルマン朝の伝統を受け継ぎ、教会、都市、封建領主などの権利を厳しく制限し、官僚制を整え、裁判権を集中する一方、塩、鉄、絹などの国家独占によって財政基盤を強化した。このようなシチリア王国の制度は1231年に制定されたメルフィ法典(〈皇帝の書 Libre augustalis〉ともいう)にまとめられた。
 1220年に皇帝となったフリードリヒは王国と神聖ローマ帝国を結合させて強力な国家を建設しようとし、またノルマン朝以来の地中海政策を展開した。北アフリカのスルタンと友好関係を維持し、エルサレム王位を獲得した(1225)。首都パレルモには王宮を中心に国際的な文化が開花した。この時代がシチリア王国の最盛期である。

 フリードリヒの死後、その子マンフレディが王を称したが、フランスから南下したシャルル・ダンジューが圧倒的な軍事力によってこれに取って代わった(1266)。フリードリヒと厳しく対立していた教皇庁がシチリア王国に対する宗主権を主張して彼をシチリア王に招いた。王国の首都はナポリに移された。シャルル・ダンジューの支配に反感をもったシチリア島民は〈シチリアの晩鐘〉の乱を起こし、アンジュー勢力を全島から駆逐した(1282)。シチリアはアラゴンの支配下に入り、アラゴン王ペドロ3世がシチリア王を称した。その結果、二つのシチリア王国が出現することになった。両者の戦いは1372年になってようやく和解に達し、アラゴン支配下のシチリア島は〈トリナクリア王国という名称でアンジュー家のシチリア王国(実際はナポリ王国)の封臣ということになった。しかし、トリナクリア王国は内紛のためにまもなく衰え、1412年にはアラゴンの直轄領となった。
 この国家はリソルジメント期にガリバルディの〈千人隊〉によって征服されサルデーニャ王国への合併が決定されるまで存続した。



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