ランゴバルド王国(ロンバルディア王国) /Langobard

ゲルマン人の一部族であるランゴバルド族(ランゴバルト族)が、568年に北イタリアのロンバルディア地方に建国した王国。勢力範囲は最盛期に、中部イタリアから南イタリアに及んだ。774年フランク王国のカール大帝の征服によって滅亡。

アルボイノ Alboino 561‐572 568年ランゴバルド人の全軍を率いて〉フリウリの国境警備線(リメス)を突破し翌569年にポー平原とミラノを占領。ビザンティン帝国領の要衝パビアを3年かけて攻略。
アウタリ Aithari 584‐590 584年に王政を復興。
アギルルフォAgilulfo 590‐616 残留ローマ人有力者を宮廷に登用し、607年にはカトリックに改宗。
ロターリ Rothari 636‐652 ゲルマン人支配者の伝統とアリウス派キリスト教の信仰を固く守り続けた最後の王。イタリア北部に残存したビザンティン帝国領を征服領有、内政面でも王国の基礎固めに尽力した。643年、ロターリ王法典(ランゴバルド法)を公布。
リウトプランド Liutprand 712‐744 全盛期
アイストゥルフ Aistulf 749‐756 全盛期
デシデリオ Desiderio 756‐774 全イタリアの統一を企てるが、カール大帝により制圧され滅ぶ。

ランゴバルド王国 6-8世紀 イタリア 9-10世紀

ランゴバルド人の侵入と定住は先住のローマ人に一種の恐慌を引き起こし、ベネチア地方内陸部の住民は海岸の潟の島々に逃げ込み、ポー平原の住民はジェノバに閉じこもった。残留ローマ人は土地を没収され武器携帯の禁止などの屈辱的状態に甘んじ、ビザンティン帝国への荷担の嫌疑をたえず受け、元老院貴族やローマ人司教も姿を消すようになった。

ランゴバルドの王達は、残留ローマ人有力者を宮廷に登用し、ビザンティン帝国の制度をまねた官僚・行政・警察機構も導入し国家基盤を築いた結果、地名や法律、行政、軍事などの用語は無数のランゴバルド語を含み、風習や人名も急速にゲルマン化し、イタリアの住民は、カール大帝によるランゴバルド征服(774)の直前には、ほとんど全員がランゴバルド人であると自覚するに至っていた。また王達は二重の肩書をもち、〈ランゴバルド人の王〉と称したほかに、勅令では王の称号にローマ人最高官が帯びていたvir excellentissimus の称号と、ローマ風のフラウィウス Flavius の名まえをつけている。

イタリアにおけるランゴバルド人の支配は、北部と中・西部の王国、中・東部のスポレト公国、南部のベネベント公国の集合体であった。
社会階層は、ランゴバルド人全体が、自由人、奴隷、アルディの3階層に区別されていた。
自由人 戦士である一般人。
アルディ 自由人と奴隷の中間に位置し、無抵抗で降服した者たち。割当地に緊縛され、一般に生産物での年貢を土地所有者に支払う義務があった
奴隷 一般に戦争の捕虜で若干の法的権利が認められていた

参考サイト:http://en.wikipedia.org/wiki/Lombards
参考文献:平凡社世界史百科

2006/11/02作成//追記 08/04/29

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