スラと君主制の兆候


紀元前92年に、ルキウス・コルネリウス・スラ(紀元前138-78年)は、(当時ローマの支配下にあった)アナトリアの南東のキリキアの総督に任命された。彼は、Ariobarzanusをカッパドキアの王に任命した。カルデア人の占星術師は、彼に輝かしい未来を持っているであろうことを告げた。

ユーフラテス川沿岸で、スラは、パルティアの王、アルサケス八世(ペルシアとメソポタミアの支配者)の外交使節と協定を結んだ。それ以降、パルティア人(そしてササン朝) の兵力は、7世紀のアラブ人の介入まで、ローマの主な対戦相手となることになる。

サムニウム人との戦いの間、スラは、最後の反逆的古代イタリアの種族を征服した(紀元前88年に彼をコンスルにした勝利)。彼はその後、軍をミトリダテス六世(ポントス(黒海沿岸の小アジアの北部)の王)に向けた。86-85年に、彼は、エピルスのミトリダテスを攻撃し、アテネを占領略奪し、 デルフィとオリンピアの神殿を奪い、そしてケロネアで、そしてその後コルコメノンで勝利た。彼の軍事的成功は、彼が自身を「アフロディーテ(或いはヴィーナス)」に愛されたエパフロディーテEpaphroditeになぞらえたほどのものであった。彼は、その後インペラトゥルの称号を得た。

しかし、民衆は、マリウスにそれらの指揮権を移譲することにより、彼から彼の功績を奪った。スラは、それ故、マリウスを公衆の敵であると宣言し、ローマを行軍した。紀元前83、82年に、無残な内乱は、ひどい破壊をもたらし、プラエネステの町は、略奪された。スラは、再度勝利を得、紀元前81年に、フェリクスの肩書によって、終身独裁政権を獲得した。彼は、神々の寵児あると考えられた。「彼が、幸運に愛され、成功によって戴冠していたならば、彼は間違いなく神の血を引く者として、自身を神授の支配者のシンボル(ヘレニズムの王たちに特有性格)で飾ることができたであろう」と言われていた。しかしながら、彼は、ローマでの自身の君主政の理念を強要できないことに気づき、紀元前79年に、彼は独裁政権を放棄し、辞職した。彼は、その後1年内に死亡した。
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