ウィトルウィウス(Vitruvius)の理論の誤解



その大きさという効力によって、 アウグストゥス ( 紀元前2世紀に就任) のフォルムは、そのヴォールト(丸天井)と曲線のデザインを持つ パレストリーナとチボリの聖所によって、創始された革新の継承においてその地位を得た。この芸術は、ウィトルウィウス(その作品が現存する建築に関する唯一のローマの理論家)によって監督されたその大部分が残存している。

ラテン語で書かれた(De Architecturaと題された)建物の芸術に関する10巻の書の著者である、ウィトルウィウスは、彼の業績(神殿、劇場、バシリカ、そして霊廟に関するローマ人の美学の原理)の中に真理を見極めようとした大多数の歴史家を魅了した。

彼の著作の写本が工作物の原稿が、1415年に、セイント・ゴールの大修道院図書館で Poggio Bracciolini によって、再発見されて以来の格別の名声を恵まれて、ウィトルウィウスは、 1486年に出版された首位を占めるラテン語の出版物となった。ルネサンスの最も偉大な建築家は、このマンナ(天の恵み)を糧とした。それは、論評され、例証され、そして、法典に編集された。特に ( 1537年に ) Serlioは、ウィトルウィウスに基礎を置いて、建築の古典オーダーを定義した。

ローマの建築が歴史において最も重要な部分のうちの1つであるという、この本への導入における、(ウィトルウィウスの著作を引き合いに出した)私の主張は、挑発的にも思われるであろう。創造物の大きさ、モニュメントの数、空間とそして技術の双方に関する質の高さ、にもかかわらず、つい最近まで、ギリシアの芸術の副産物以外の何者でもないと見なされた(実際、例外なく称賛され、崇められた古代ギリシャの建物の過剰化粗悪化版)ローマの芸術は、中傷されがちであった。これらの評論家は、必ずしも、ローマ建築の独創性と革新性を理解していた訳ではない。

40年前には、一部の評論家は、ローマの創造物を古典の美学のぎこちなく、あじけないコピー(アテネ、オリンピア、或いはデルフィの創造物(全ての質の究極の基準)の盗用)と見なしていた。美術史は、(部分的には、ウィトルウィウスの文書の解釈に基づいて)この先見の明のない視野を克服しなければならなかった。De Architectura は、実際、いくつかの重大な判断の過ちを促した。

ウィトルウィウスの思想(そのギリシアの先駆者たちのそれを反映する)は、共和政時代の終りの壮大な事業の斬新さを認めていなかった(実際、主ウィトルウィウスのが本を出版する少なくとも50年前に建設された要な構造物は、まだ言及されていない)。その著者は、プラエネステのフォーテュナ(運命の女神:訳注)の神殿とチボリのヘーラクレース・ヴィクトルの神殿の魅惑的な創造物(両方ともローマから一日の行程)を知っていたに違いない。なぜ彼はそれらを論じなかったのか?。スラの名前(彼の統治は、君主制主義的傾向という理由で一般的に非難の対象であった)はタブーのであったのか?。或いは、単に、この広大な構成物が著者の思想の美学的理論(ヘレニズム期文化(Hellenistic)といいうより古代ギリシャ文化(Hellenic)が吹き込まれた)と一致しなかったのか ?

理由が何であっても、この ウィトルウィウス式省略は、重大な誤解のその基底にあった。長い間、それは、建築の歴史家がローマの様式の本質を理解することを妨げた。これは、さらに年代的錯誤によって悪化させられた。:ルネサンス期に、学者たちは、大部分の文献学に関して、紀元2世紀の末期或いはちょうど3世紀(基本的な変化期間)までにのウィトルウィウスの時代を定めた(一方、我々は、現在彼が紀元前88年生まれで、紀元前26年に没したことを知っている)。

彼が紀元前31年頃に建築に関する10巻の書を出版した時、ウィトルウィウスはアウグストゥスの創造物、ティベリウス或いはネロのもの、或いはフラビアヌスの芸術(特にドミティアヌスのもの)殆どを知るよしもなかった。アントニヌスの王朝の間のトラヤヌスとハドリアヌスの作品は言うまでもなく、ローマの建築術の創造性の頂点である。従って、彼の論文がローマの最も重要な貢献を反映することは、不可能であった。

ウィトルウィウスの作品によって引き起こされた誤解は、20世紀の初めまで尾を引いた。彼の解説者は、ギリシアの芸術の「壮大なスケール上で」はローマが単なる継承者であったという考えに関して責任がある。彼らは、建築術のオーダ(ドーリア式、イオニア式、コリント式、そしてトスカナ式)がローマの芸術の基本的性格であるという幻覚(学問的教示が基づいた概念)に権威に与える。しかし、ローマが、それらに実際の構造的役割を与えることなしに、ギリシャのオーダーからインスピレーションを得たならば、それらの役割は主として装飾品であったに違いない。建築術の思考の本質は、他の場所にあった :アーチ、ヴォールト(丸天井)、そして(とりわけ) 、ドームによって達成された空間の創造に関して、ウィトルウィウスは、この様相を探究してない。

De Architectura は、同様に、他へも反響を与えた。帝国の黎明期に現れた、この教科書は、おそらくローマ建築において、ある意味で抑制の根拠となった。彼の作品をアウグストゥスに捧げる際、ウィトルウィウスは、アウグストゥス期の芸術の初期の憶病さを奨励した。
彼が常に、外へ外へと力を向け続けた、その慎重な態度に合わせる様に、アウグストゥスは(ローマの議員がそれに反するということを知っていたので)、首都では、あらゆる見栄の虚飾を避けた、それ故、彼は、彼の独裁の大望に背くであろう何にでも慎重なアプローチを運んだ。全ての新しいものに対する心からの不信感を公言する、ウィトルウィウスのような理論家は、間違いなくそのような姿勢を貫いた。実際、ウィトルウィウスは、共和党の時代の終りのローマのデザイナーの活発な創造性を一時的に凍結させた、ネオ‐アッチカ(アテネ:訳注)の様式の、古典的様式に従った伝統主義様式を支持した。壮大な建築は、アウグストゥスのフォルムと共に、徐々にその活力を回復し、そして、ネロ以降の治世からやっと、自らにその行動の自由を与えた。

ウィトルウィウスの文書は、それにも拘らず、重要さを失っていない。人は、ローマの Ecole fransaiseによって組織された国際会議で Pierre Glosによって強調された様に、その研究の復活を見さえすればよい。De Architectura は、 3つの新版において再発行されるべきである。 :「既知の思想を完全に再評価するであろう」ドイツのもの ;「多くの改訂、それらの幾つかは当惑させる」より信頼できる原文に近い文章を定めるであろうフランスのもの;そして、「新しい活力をウィトルウィウスの思想に与える」であろうイタリアのもの。共に、研究は、彼の機械の知識を研究し、「技術的なウィトルウィウス、古代ギリシア人の技術者の末裔」を発見している。

それでもなお、ウィトルウィウスにおいて、彼がいったい何を見落としたかを我々が知り得ないというその事実が残る。:建築のローマの精神の本質、すなわち、アーチ、ヴォールト(丸天井)、そしてドームによる空間的な独創性のある、着想し、創造物を造り上げる能力である。ローマの建築師は、日中の光のなかでの「彫刻」と見なされるべきであった、ポーチ(porticoes)と柱廊(colonnades)を建設することに、自らを制しなかった。それらは、とりわけ建物の空間的内容に興味を持っていた。;組み立てられたシェルが収容したボリュームに。;外部と内部空間の交換において ;内部と外部の弁証法に。全てのローマの天賦は、ここにある。そういうわけで、ローマの建築を専門とする研究は、(ローマの世界の建築師にって携えられた正にその理想の構成要素となる)特定の目的 を分析するために、 ウィトルウィウスを越えなければならない。


  
ローマのカピトールとフォルム
ウィトルウィウスの論文を根拠として、19世紀の歴史家に託された再現図による。(l.canina,Foro romano,1845)

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