中世スペインにおける様々な集団の呼称とその地位・役割
(なにかと混同しがちなので纏めてみました)

アンダルスのムスリム

アラブ人支配者集団:主として都市や肥沃な平野に居住)

バラーディーユーン baladiun
→征服者として最初にスペインに入来したアラブ人。

シャーミーユーン shamiyun
→ シリア人という意味。741年以降に、入来したアラブ人
*741年頃におこったベルベル族の叛乱に対抗し、スペイン総督イブン・カタンはシリア・エジプト軍に援軍要請するが、その後イブン・カタンは彼らとの抗争で敗北、処刑される。この時のシリア・エジプト軍のアラブ8000人とマワーリー2000がシャミーユーン(シリア人)と呼ばれることになる。


ベルベル人
(征服に対する貢献度にもかかわらず従属的地位に甘んじ、主として山岳地帯に住んだ。)

マワーリーmawali
自由民あるいは解放民としてイスラームに改宗し、それによって、外見上彼らの主人であるアラブ族の一員となった非アラブ人(ベルベル人など)。


アラブ・ベルベル以外のムスリム
(アンダルスのイスラムの主要な担い手であり中には貴族となる者もいた。)

ムワッラドゥーン muwalladun

→アラビア語の「育ち、教養がある」の意。新したにムスリムになったもの。スペインのイスラームに改宗したキリスト教徒の子孫。特に混血的理由による改宗者ムスリムを指すこともある。ヨーロッパ人には「ムワッラド」がなまって「ムラディ」と呼ばれる。

ムサーリム musalim
→政治的理由による改宗者。半島土着の人々でアンダルスにおけるムスリムの大半は彼らであった。

非ムスリム

ジンミー
→税を納入するかぎり宗教・思想・財産が保証されてた非ムスリム聖典の民(キリスト教徒とユダヤ教徒)イスラム法でジンマ dhimma を与えられた人々をいう。この場合のジンマは非ムスリムに対する生命・財産の安全の保障を意味する。
 また次の義務を負っている。
(1)ムスリムの主権を認め,ムスリムに政治的に服従すること。
(2)戦争の際ムスリムを助けること。
(3)ムスリムにジズヤ(人頭税)とハラージュ(土地税)を納めること。
(4)ムスリムの旅人を毎年3日間歓待すること。

モサラベ

→アラブ化した人々というアラビア語のスペイン語なまり。スペイン・イスラムの風俗をまとったキリスト教徒やユダヤ教徒。ターイファスの時代に、フランスやイギリスに、スペインの優れた学問、技術、芸術、風習を伝えたことによりヨーロッパで12世紀ルネサンスがおこった。彼らがそれに果たした役割は重要である。

キリスト教徒
としての信仰を保持しつつも言語・文化・風俗の点でアラブ化した者。彼らは都市に住み、芸術家、建築家、文筆家、商人として活躍し、ムスリム社会と非ムスリム社会の交流・融合を促進させた一方で、通商活動に通じて北方のキリスト教諸国にイスラム文化を伝達した。

ユダヤ教徒
→西ゴート時代と異なって寛容に処遇されたので、北アフリカなどから当地に移住する者も多かった。彼らの中にはギリシア語、ラテン語、アラビア語などに精通する者が多く、後ウマイヤ朝のアブド・アッラフマーン3世以降は、翻訳活動をはじめ多くの文化事業に従事した。また彼らは奴隷貿易や奢侈品の独占貿易に従事し、アンダルス経済の重要な担い手となっていた。

*モサラベ建築様式
ムスリム統治時代のアンダルス様式(イスパノ・イスラム様式)の影響を受けた、スペイン北部キリスト教徒国の建築、特に教会建築を指す。
スペイン、イスラーム圏では当時、キリスト教徒の工匠や職人もムスリムの工匠と共にスペインの建築工事現場で一緒に作業にあたっていたわけで、デザインは共有されていたと考えるべきだろう。モサラベ建築様式はイスラーム圏から亡命してきたモサラベの建築様式と言って良いかと思われる。従って、スペインのキリスト教徒の建物すべてを包括している訳ではない。イスラーム圏の経済力のあるキリスト教徒はイスラーム様式色の強い豪華絢爛な建築物を所有していたことだろう(基本的に教会の新設は認められていなかった様なので教会建築は除かれる)。(キリスト教徒は、カリフの親衛隊や側近の官僚としても仕えたので、裕福なキリスト教徒はもちろんイスラーム色の濃い=荘厳な建物を所有していた)。

奴隷

サカーリバ saqaliba
→スラブ slav からなまったものといわれ、おもにヨーロッパ諸国(フランス、ドイツ、ロシア)から戦争捕虜として、また商品としてもたらされ、宮廷における家事奴隷として、また諸君主の親衛隊として活動した。

キリスト教徒支配下のムスリム

ムデーハル
→アラビア語のムダッジャンがスペイン語に転訛したもので、〈残留者〉の意。

キリスト教徒に再征服された後のイベリア半島で,自分たちの信仰・法慣習を維持しながらその地に被支配者として残留を許可されたイスラム教徒をいう。
1085年のトレド陥落以後のレコンキスタ(国土回復戦争)の進展でムデーハルの数はしだいに増加した。
時とともに彼らはスペイン社会に同化してロマンス語を話すようになった。
彼らがイスラムの優れた文化・学問・技術を中世スペイン、ひいてはヨーロッパ諸国に伝達した役割は大きい。彼らの多くはコルドバ、セビリャ、トレド、バレンシアなどの大都市に居住し、建築業、革細工、金属細工、彫刻業、織物業、文筆業などに従事していた。彼らの活動によってイスラム文化と中世スペイン・キリスト教文化との融合がなされた。

memo

ロマンス語→古代ローマ帝国の共通語であったラテン語が長期間にわたって変化し地域的な分化を遂げることによって、おそらく8世紀ころまでに形成された諸言語の総称。→スペイン語

モリスコ
→〈小さなムーア人〉を意味する語で,キリスト教徒治下のイベリア半島に居住したイスラム教徒を指す。

元来はイスラムに改宗したスペイン人の呼称であった。従来レコンキスタ(国土回復戦争)の後もキリスト教徒の地にとどまっていたイスラム教徒はムデーハルと呼ばれていたが1492年のグラナダ陥落以後、彼らはモリスコと呼ばれるようになった。以後モリスコの歴史は迫害・反乱・追放のそれであった。

参考文献:平凡社世界大百科事典/アラブとしてのスペイン/イスラーム治下のヨーロッパ

2006/08/20追記
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