アンダルス・文化の発信(異文化の交流)
/アブド・アッラフマーン3世とオットー1世


 アブド・アッラフマーン3世は936年に、コルドバの北西西5キロ、ガダルキビル川を一望に見渡す地に新都の建設を思い立った。離宮を中心としたザフラの町である。この宮殿でアブド・アッラフマーン3世は多くの外国の君主や使節に会った。ナバラ王国(バスク人の国家)の女王、ビザンティン皇帝の使節、南プロヴァンス、イタリア、遠くライン川のほとりからきた使節もあった。そして神聖ローマ帝国皇帝となったドイツ王オットー1世とも950年ころから使節の交換が始まった。
神聖ローマ帝国の使節、修道僧ヨハンは当時のコルドバとザフラの離宮につて次のような記録を残しているという。
「コルドバの迎賓館からザフラまでの沿道は軍隊が垣のごとく立ち並び、騎兵は擬戦を行って砂塵がもうもうと立ち上がっている。離宮の玄関から帝座までは絨毯がしきつめてあり、正面にはアブド・アッラフマーン3世があたかも近づきがたい神人のように坐っていて、使者に手をさしのべ、その接吻をうけた。」
 同時代に帝座についたアブド・アッラフマーン3世とオットー1世には交流があったようである。かつてのローマ帝国を夢見ていたオットーにはアブド・アッラフマーンの姿はまるで目指すローマ帝国皇帝のように見えたかもしれない。賢帝アブド・アッラフマーン3世の下、当時のウマイヤ朝は建国以来の大繁栄を遂げ、ビザンティンをも凌ぐヨーロッパ随一の国家であった。そこには世界中の至宝、文化、学問が集中したといわれる。勢力域はピレネーから西部北アフリカに及ぶ最強の国家であった。

MEMO

アブド・アッラフマーン3世
912年、若干21歳の若さで即位する。端麗な容ぼうに深く澄んだ青い目をし、やや赤味がかった金髪をしたこの若者、祖母はバスクの王女、その母はフランク人であったともバスク人であったとも言われている。性格は善意に満ち、礼儀正しく、寛大公正で、読みが深く、王者に相応しい不屈の雄々しさを持っていたという。(アラブは父系一族である。多民族有力者の血縁との婚姻により、ヨーロッパに入って250年、8代目のエミールとなれば、アラブの血よりゲルマンの血のほうが濃かったとしても不思議ではない。風貌は全くヨーロッパ人のそれであった。本人はアラブの血統の証を求め、髪を黒く染めていたようだ。)
地方の有力者の叛乱(イスラム教徒やキリスト教徒)で群雄割拠、無政府状態、崩壊間際であった国家を建て直し、空前絶後の黄金時代をつくり上げ、エジプトのウマイヤ朝を脅かしていた強敵ファーティマ朝のカリフに対抗し、自らカリフを名のる。

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