ケン・フォレットの小説「大聖堂」の時代背景と建築様式

 12世紀中葉の史実を背景として、イングランドのキングズブリッジという架空の町に建築される大聖堂を中心として展開される群像劇である。そして「大聖堂」の舞台時期は、1123年〜1174年の約50年間である。

当時のイングランドは、ノルマンコンクエストにより、ウィリアム1世がイングランドの国王(1066-1087)となった時期から半世紀余りが経過し、ウィリアム2世の治世(1087-1100)を経てヘンリー1世の治世(1100-1135)となっている。物語は、その後のスティーブンの治世(1135-1154)を経て、ヘンリー2世の治世(1154-1189)の間で展開する。当時のイングランド国王はフランスのノルマンディー領の公爵も兼任していた。ヘンリー1世の娘にして国王スティーブンの姉マティルダ(モード)は、神聖ローマ帝国皇帝ハインリヒ5世と婚姻死別後、アンジュー伯ジョフロアと結婚。その婚姻は、息子ヘンリー2世(1154-1189)の時代からフランス国王を凌ぐ広大な領土を持つ、プランタジネット(アンジュー)朝(1154-1399)の端緒となった。彼女の孫であるヘンリー2世の子は、十字軍で名を馳せるリチャード1世獅子心王(1189-1199)である。彼の妻は、当時スペイン北部のナバラ王国サンチョ6世の娘ベレンガリアであり、その姉妹マルガリータはイタリアのアプリア公、カープア公、ナポリ公、そしてシチリア王であるノルマン人グリエルモ(ウィリアム)1世(1155-1166)に嫁いでいる。彼は神聖ローマ帝国皇帝フリードリッヒ2世(1220-1250)の叔父である。※イングランドの諸王朝の系図 ※オートヴィル家の系図

マティルダ(モード)は劇中で極めて尊大な態度をとる嫌な奴で描写されるが、実際、尊大ではなく、真に高貴な身分であり、イングランドだけではなく世界の中心にいた訳であるので、当たり前の態度であろう。その数奇な人生が性格を歪ませたとしても不思議ではない。

 当時の西欧の勢力図を見ると、フランスはカペー朝と北部のノルマン公国、ドイツはフランケン朝〜ザクセン朝〜ホーヘンシュタウフェン朝への遷移期、イタリアはシシリー王国(ノルマン朝)、教皇領、諸侯領の分立期であり、スペイン北部はナバラ王サンチョガルセス3世大王の元統一された国家が分立したレオン王国、カスティリア王国、ナバラ王国、アラゴン王国とバルセロナ王国のキリスト教国があった。そして、スペイン南部は、後ウマイヤ朝分裂後のイスラーム諸国が北アフリカのムラビート朝に制圧され、さらにムワッヒド朝に滅ぼされることになる時期である。その時期イスラーム国であったトレドは、1085年にアルフォンソ6世(レオン、カスティーリャ)に制圧された後も、カスティリャ王国のアルフォンソ7世、その後レオン王国のフェルナンド2世に統治された。サラゴサは1118年にアルフォンソ1世(アラゴン・ナバラ)に制圧された後も、アラゴン王国のアルフォンソ1世〜ラミロ2世〜パルネリャ〜アルフォンソ2世に統治され、双方の都市ともキリスト教王国圏内に取り込まれていた。※地中海東部・南部・西部地域を中心とした諸国家の興亡

  ジャックが訪れたトレドは、一早くキリスト教圏に取り込まれた都市であった(1085年)。しかしながら、トレドを制圧したカスティリャ王アルフォンソ6世は、ズル・ミッタライン「キリスト教徒とムスリムの王」と自らを称してスペイン全土の制圧を目指し、ムスリムを追放したり、改宗させたりする意志のないことを明らかにした。
 その為、キリスト教国カスティーリャにとどまったムスリム住人ムデハルは、その先進性から追放されることはなかく、イスラーム信仰とイスラーム法の適用を許され、マスジドの建設、軍への参加、土地の購入され許され、ムデハルとアラブ化したキリスト教徒(モサラベ)、そしてユダヤ教徒が、イスラム文化、アラビア語を長く守り続け、宮殿、城門、邸宅、民家だけでなく、キリスト教やユダヤ教の教会も煉瓦造のイスラーム様式で造られた。
 また、トレドの大司教ライムンド(在職1125-50)は、フランスで当時高まりつつあったアラブの学問に対する要求に応じて、東方ムスリムの哲学者「アル・キンディー、アル・ファラビー、イブン・シーナー、アル・ガッザリー」やグラナダのユダヤ教徒「イブン・ガブリオール」の哲学書をラテン語に翻訳させた。
 イタリア、フランス、イギリス、ドイツからぞくぞくと留学生がトレドに集まり、アラビア語をマスターし、ユダヤ教徒の助けも借りて、「哲学・数学・天文学・光学・工学・科学・医学・錬金術・占星術・魔術」などの難解なアラビア語の書物をラテン語に翻訳した。またアラビア語に徹底的に翻訳されていたアリストテレス、ユークリッド、プトレマイオスなどの古代ギリシャ・ヘレニズムの文献も西欧に紹介された。
 ジャックが訪れたトレド(1142-1145)は、そんな時期であった。
 一方で、当時破竹の勢いのあったクリュニー修道院出身の新しいトレド大司教ベルナルドは画策しモスクを奪い教会に転用している(当時の修道院長がやり手のユーグ1世)。

 またサラゴサでは、1118年にアラゴン・ナバラ国王のアルフォンス1世は、サラゴサ制圧後、クリュニー修道会にアルハフェリア(ターイファスの支配者の一人、アフマド・イブン・スレイマン・アル・ムクタディル(1046〜1081年)が首都サラゴサに建てた壮麗な城砦宮殿)を修道院として寄進した。

 これからクリュニー修道会が結果としてムーア様式をイギリスにフランスに伝えた片鱗が伺われる。これらは、間違いなくクリュニー修道会の建築様式に多大な影響を与えたであろう。

 因みにキングスブリッジの修道院はクリュニー修道会が属するベネディクト派である、、、っていうか創立の時期からクリュニー修道会の分派ではないか?と目される。

 このように、小説の舞台はイングランドの小さなキングズブリッジという村落であるが、西欧は大きく変化を遂げようとしていた時代でもあった。※中世スペイン/タイファ時代の国家とその支配者たち

そしてその時期のイングランドの教会堂の最先端の様式は、キャスル・エーカー小修道院(1147頃聖別)に見られるようなクリュニー修道会の建築様式であった。前述のトレドやサラゴサで見られた連続交差アーチが顕著にみられる。小説のなかで描写された教会堂とはずいぶん趣がちがうのではないだろうか?

 この遺構を例に出すまでもなく、現在はゴシック様式建築して高名なカンタベリー大聖堂/Canterbury Cathedralの当時から残る区域にもそれが顕著に表れている。1096−1130年に増築された区域である。

 この辺りを物語に加えてミステリーとしたならば、「薔薇の名前」並みの小説になったかもしれないと、、、それはまた別の機会に。

 

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