ノルマンの種族の侵攻と展開


ノルマン人(北方の人)はデーン人(デンマーク人)、スウェーデン人、ノルウェー人の三つの種族からなる。ヴァイキングと呼ばれロシアではヴァリャーグと呼ばれた。



デーン人(ヴァイキング) ノルゥー人 スウェーデン人(ヴァリャーグ)
北欧から見て南域に進出 北欧から見て北・西域に進出 北欧から見て東域に進出
790年〜840年頃
海岸地域、特にケルト人領域への侵入強奪。799年からはフルースラント、ザクセン沿岸地域をあらし、カール大帝に海岸警備隊の設置を促した。この時期のノルマン人の特徴は、春に攻撃をかけ冬に帰郷すること。



 
840年以降、航海は強力な軍事事業となり、軍勢は河口と留まって設営し越冬。
フランク王国の河川に近い諸都市を略奪
アストゥリアの略奪(844)
プロヴァンス、トスカナの略奪(859-862)
 
866年ロンドン、テムズ川の河口のタネット島から組織的イングランドの征服始まる。
イングランドのノーサンブリアとイーストアングリア
すなわちデーン・ロー地域を征服
 
アングロ・サクソン族アルフレッド大王(871-899)によるノルマン人への抵抗。
 
896年セーヌ河口に定住。
 
911年ロロ指導下、フランク王シャルル単純王(898-923)の間でのサン・クレール・シュル・エプトの協定。
ロロは領土を封土として与えられ、引き換えに防衛を引き受けた。洗礼(912年)後、公となりその封土はノルマンディー公領となる。




 
クヌート王(1016−1035)の元、イングランドはデンマークに併合。キリスト教に改宗。王の死後1042年まで息子たちが支配。

  

 
1066年ノルマンディー公ウィリアム(懺悔王とは従兄弟)、エドワード懺悔王(1042-1066)をヘースティングの戦いでやぶる。ウエストミンスター大聖堂で戴冠、イングランド国王となる。
 
1059年ノルマン人はメルフィの宗教会議で教皇の封主権を承認。ロベール・ギスカールはアプリア及びカラプリア公となる。
南イタリアにおけるビザンツとシチリアにおけるアラブ人の支配に終止符を打つ。
1061年メッシナ征服
1072年パレルモ征服
*イタリアのノルマン人はノルマンディー出身であるが、ノルマンディーの公爵家とは直接の関係はない。
 
1071年イングランド、ウィリアム征服王、全イングランドを征服。
 
1130年ロジェ2世(1105-54)はシチリア、カラプリア、アプリアを統合し、パレルモを首都とする(両シシリー王国)。
1137年アマルフィ征服
1139年ナポリ征服。
*ノルマン人のシシリー攻略はアラブ人の内紛に乗じたものである。実際アラブ人都市攻略にアラブ人の傭兵を用いている。シシリー王国が後までアラブ人に寛大であったのはそう言った理由。宗教的差異は重んじられなかった。
 
ロジェ2世の娘コンスタンツァはハインリヒ6世と結婚し、ハインリヒ6世はノルマン王国を相続。
 
コンスタンツァとハインリヒ6世の息子フリードリッヒ2世はドイツ王、シシリー王、神聖ローマ帝国皇帝となる。
8世紀よりシェトランド諸島とオークニー諸島を占領
 
フェロー諸島、ヘブリディース諸島、アイルランドを占領












 
ハーラル美髪王(860年頃〜933年)によるノルウェー統一後、多くのノルウェー人は郷土を捨て874年以降、アイスランド(860年発見)に移住。







 
930年、法と裁判集会(アルシング)の成立をもって、領土占領の時代は終了する。











 
982年、グリーンランドに航海。


 
1000年頃、アメリカ大陸(ヴィンランド)に航海。
*コロンブスより約600年前。
8世紀、バルト海を支配
 
東欧地域への遠征を計画。スラヴ人とフィン人の諸部族に招かれ、リューリクに率いられてノヴァゴルド地域に渡来。
 
800年〜850年頃
ロシアの河口を遡って黒海に達する。行く先々で戦略基地を設け、これを基に小国家を建設する。短期間に被征服民者の民族性に同化していく。
 
840年キエフ公国建設。
 
850年ノヴゴルド公国建設。
 
860年リューリクの従者アスコリドとジールによる最初のコンスタンティノープルの攻撃が失敗に終わる。
 
ビザンティンと商業取引。
アラブ人と商業取引。
(ルーシー商業路:ビザンツに至るドニエプル川、アラブ世界に至るヴォルガ川)
 
882年オレーグ賢公(879-912)はキエフ公国(南部)とノヴァゴルド公国(北部)を統一。キエフはルーシー国家の首都となる。
  
ノルマン人上層部は10世紀にスラブ化。
 
944年のイーゴリ(912-945)は船団を組んでのコンスタンティノープルの攻略に失敗した後、ビザンツ帝国と通商協定を結ぶ。
 
スヴャトスラフ(961?-972)は国際商業路を支配、ハザールカン国(モンゴル系イスラム国・−966))とブルガリア王国を滅ぼした。彼の後継者がリューリク朝としてルーシー公国(キエフ)を支配。
 
980年、後継者の一人ウラディミール1世(輝く太陽)はノルマン人の援助を得て単独支配者となる。
東ローマ(ビザンツ)皇帝バシレイオス2世の妹アンナと結婚、988年のキリスト教改宗、洗礼の後キエフは宗教的中心となる。(主教座)
 
ヤロスラフ賢公(1019-1054)の治世。
キエフは学問芸術の中心地となる。
ビザンツ法とスラブ慣習法を結合したルーシー法の編纂。
 
1054年以降ルーシはいくつかの公国に分裂。国家は弱体化していく。

        

 
12〜13世紀にキエフの政治的・経済的・文化的没落が始まる。







 
ラテン帝国の建設(1204年)後、黒海貿易もヴェネツィアに奪われる。



 
1245年以降モンゴル支配が全ルーシを覆う。
主たる参考文献/カラー世界史百科/成瀬治監修/平凡社
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