中世スペインにおけるコスモポリタンな時期
中世スペインにおいて、とても気になる時期がある。イスラムの王国、後ウマイヤ王朝が崩壊し、ムラービト朝までのタイファス時代(小王国乱立の時代)である。後ウマイヤ朝時代その隆盛を誇り、近隣キリスト教国を脅かし、従属させていたイスラム権力は、その求心力を失い、逆にキリスト教国に従属していく。その時代は、キリスト教国、ムスリム国、相まみえ、キリスト教国同士が、またムスリム強国同士が独立を賭けて、宗教を超えて連合した時代であった。当然文化の相互貫流が進み、当時としては最高の文化レベルを誇ったイスラムの学問・文化がキリスト教国側に流出していったと考えられる時期である。アルフォンソ6世やエル・シッドの動向は、これを裏付けるように思える。

アルフォンソ6世
レオン国王(在位1065‐1109)、カスティリャ国王(在位1072‐1109)。
父王からレオン王国を継承したが、兄のカスティリャ王サンチョ2世に追われ、イスラム王国だったトレドに亡命。兄の死後レオン・カスティリャ両国の王位についた。兄の筆頭家臣だったエル・シッドとの不和から史料での評価は芳しくないが、現実の王は祖父以来のヨーロッパ接近策を継承促進し、南下軍事政策のための背後の守りを固め、典礼統一をはじめとするローマ教皇庁の意向に答えて自らの立場を強化するなど、優れた外交感覚の持主だった。
一方で彼は、イスラムの進んだ文明を擁護し、かつてムスリムが行ったような、宗教の自由を認めていた。従って彼の治世下、カトリックとユダヤとイスラムは共存できた。カスティリアの南下軍事政策を十字軍の一連の行動の一種とみなされ国土回復運動と言われることもあるが、その動機は全く政治的・軍事的な領地争いであった。

エル・シッド
本名はロドリゴ・ディアス・デ・ビバル。通称シッドはアラビア語の〈主人〉を意味する語に由来する。貴族の家系に生まれたロドリゴは幼い時に宮廷に入り、サンチョ王子の下で成長。※Wikiより:ブルゴスの北にある小さな町ビバールで生まれる。その正確な誕生日は未だに不明であるが、1043-1045年の間ではないかと言われている。シッドの父はディエゴ・ライネスと呼ばれていたことが知られ、幾つかの戦いに参加した軍人である事が知られている。若き日のシッドは、そういった縁もあって、サンチョ2世付きの小姓としてカスティーリャの王家に育てられた。(アマゾンプライビデオムのドラマ「エル・シッド」はwikiの説による物語)
1065年に王子がサンチョ2世として即位するとカスティリャ軍総帥に任命されたが、サンチョ2世が暗殺されて弟のアルフォンソ6世が王位を継いだ時(1072)、アルフォンソには暗殺荷担の疑いがかけられ、これを否定する宣誓を旧家臣を代表してアルフォンソに要求したことから、1081年に王の怒りに触れ国を追われ、生涯のほとんどを流浪者として送った。
国を追われた後、彼は部下を率いて当時イスラム国だったサラゴサの王に仕える一方、もうひとつのイスラム国バレンシアの事態に介入、これを1094年に征服した。

後にエル・シッドはスペイン十字軍の尖兵隊の様に称され英雄として伝説になるが、実際は十字軍的意識をもったキリスト教徒として領土を獲得したことはなく、彼の部下も、アラブ人あり、ベルベル人あり、キリスト教徒あり、と多人種の混成部隊であった。その活動は傭兵部隊、海賊的性質を多分に帯びていた。



01/08/21 (火)//23/02/22追記
inserted by FC2 system