ちょっと似すぎ!?part2


A B C D

どれがイスラム教の建築として建設されたものはどれでしょうか?
ヒント:上の写真は全てスペインの建築物です

実は、上の写真の内二つは、キリスト教国の施設として当初から建設されたもので、イスラム教国のものではない。年代順に並べるとA(10世紀)⇒C(11世紀)⇒D(13世紀)⇒B(13世紀)である。日本の建築史の本にはめったに登場することはないが、欧米の建築史の本では、上の二つのキリスト教国の建築はあからさまにイスラム建築文化を採り入れたものだとされているものである。年代的にそれらの建築物は後ウマイヤ朝が崩壊した後のものであるが、小国に分裂し後、スペインにおける十字軍と言われるレコンキスタの時代、まさにその時期に建設されてものである。キリスト教建築とイスラム教建築という対立構造が頭にあると、理解し難いのではないだろうか?
後ウマイヤ朝時代のイスラム国ではドームに架かる様々なリブ構造が考案されていた。下の図面は「ちょと似すぎpart1」で紹介したトレドの後ウマイヤ朝時代の小モスクのドームを図面化したものである。ここでは、恰も後生の建築のためのお手本として設計されたかのように、そのドームはリブパターンのカタログとなっている。年代が新しいものの方が雑にみえるのは、退化した為か?
トレドの「サン・クリスト・デ・ラ・ルス San Cristo de la Luz」。の詳細図、断面図、そして9つのリブヴォールトのあるドームの構造図。(C.Uhdeによる)今日の小さな教会は1000年頃にプライベートなモスクとして建てられた。下は全体写真。
出典:Moorish Architecturein Andalusia
/Benedikt Taschen
 スペインのレコンキスタによりキリスト教国はイスラム教国を制圧していったが、文化の面ではどうだったのだろうか?建築の面では、技術的にも、そのデザイン的な完成度においても、完全に優位に立っていたイスラム。キリスト教国がそれから何を学んでいったか?それが問題だろう。後ウマイヤ朝崩壊後の時代、小国分立(タイファス)の時代以降の文化的拡散にそのヒントがあるように思うのだが、、、?

問題の答え
A:コルドバ(スペイン)。後ウマイヤ朝のモスクのミフラブの前のドーム。966年完成。アルハカム2世の事業。
B:
ブルゴスの近くのラス・ウエルゴス(Las Huelgos)の修道院のカピリャ・デ・ラ・アスンスィオン(Capilla de la Asuncion)ラス・ウエルゴスは1187年に、アルフォンソ8世によって彼の妻(イングランドの国王ヘンリー2世の娘)の為に建設された。カピリャ・デ・ラ・アスンスィオンは、13世紀初期までには完成されなかったとされている。
C:
サラゴサ:アルハフェリア。礼拝堂のドーム。
元の名前は「 Dar al Surur (悦楽の館)。Abu Ja'far Ahmad ibn Sulayman al-Muqtadir billah (1046/47-1081/82) )によって11世紀後半の間にエブロ川の土手、その首都サラゴサの西に建てられた。小国分立の時代。
D:ナバラ(スペイン)のTorres del Rio。1200年頃

出典
ABC:
Moorish Architecturein Andalusia/Benedikt Taschen
D:THE Early Medieval Architecture/Oxford University Press

補足:
下の写真は12世紀初期の南フランスの修道院のヴォールトとドームに架かるリブの写真。同時代のイスラムの建築のレベルに比べるとあまりにも、粗末で未熟。南スペインのイスラム建築の影響を受けたものとする説もあるが、そうであれば、先進国であったスペインの工匠から直接工法の指示を受けたというより、伝え聞いた情報にインスピレーションを受け、見よう見まねで自ら開拓していったものだろう。例えば、四半世紀ほど前のの建築、やイスラム建築の建築に携わった工房で修行したキリスト教徒(モサラベ)の末裔の作品であるとされている後のの作品に比べると、その建築的レベルの差は歴然としている。
モアサックのサン・ピエール修道院。エントランスポーチのリブ構造。1125〜1130年。 モアサックのサン・ピエール修道院。ドームのリブ。1125〜1130年。
出典:Medieval Architecture in Western Europe/Oxford University Press

追記:
比較建築研究会の掲示板で、松本氏から情報提供して頂いた、ドームに架かるリブの写真を公開します。(松本氏に感謝)
枠内の文章は松本氏からご教示頂いたものです。

サン・クロワ教会はオロロン=サント・マリーOloron=SAinte Marieという町にあります。Bearn地方のPyrenees-Atlantiques県になります。ポーPauという大きな町から南西に40キロに位置します。ポーの近くに「奇跡の泉」で有名なルールドもあり、こちらは南東に50キロくらいです。オロロンの町は二つの丘の上にあって片方にはタンパン彫刻で有名な大聖堂(楽しみにして行ったのに修復のためトタン板に覆われていました)、もう一方の丘の上にサン・クロワ教会があります。歴史をみると、スペイン貴族の出資により建てられたのだそうです。
オピタル・サンブレーズL'hopital Sainte Blaiseはオロロンの町から約20キロ北西にあり、教会の名前がそのまま地名になっています。ここはバスも鉄道もなく、教会の周りに数件の農家とレストランがあるだけでした。2軒あるレストランのうち、道路向かいのレストランのオムレツが絶品でした。(だそうです。笑。hamat)

Map

見ての通り、サン・クロワ教会とオピタル・サンブレーズは考え方も構成も上記DのTorres del Rioとそっくりです。スペインのイスラム建築の影響が南フランスに及んでいたという貴重な好例と言えるのではないでしょうか?後ウマイヤ朝崩壊後、スペインの小国分立の時代イスラムの建築文化・技術がサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路をその連絡線として伝播していったのではと考える得る可能性はこのあたりにあるのではと思っています。(Hamat)


inserted by FC2 system