サン・ピエトロ大聖堂の計画案の遷移


ヴァチカンのサン・ピエトロ大聖堂は、イエスの12使徒の筆頭でネロ帝の迫害により殉死したペテロの遺骸をまつった寺院であり、キリスト教カトリックの総本山である。ペテロの死から150年後、キリスト教を公認宗教に加えたコンスタンティヌス帝の時代に創建され、1506年、名匠ブラマンテの指揮のもとに大規模な再建工事が開始された。しかしブラマンテの後任者ラファエッロ、そのあとを継いだサンガッロ、ミケランジェロが次々に建築プランを変更したため、造営事業はなかなか進捗しなかった。
          
設計:ブラマンテ/1506 設計:ラファエッロ/1515−20 設計:サンガッロ/1539 設計:ミケランジェロ/1546−64
ミケランジェロはサンガッロ案が、古代の良き様式ではなく、むしろドイツ風の様式と作品を模倣としているとし、退けたという。(時はルネッサンス期)
恐らくこれはケルンのザンクト・マリア・イム・カピトール(下図11世紀中)を指して言ったものと思われる。逆に言うとそれほどザンクト・マリア・イム・カピトールは特徴的なその形態でドイツを代表すると国外の人々が考えていた大聖堂であったことが分かる。下図と比べて見るとサンガッロの案はザンクト・マリア・イム・カピトールのプランの周りにさらに一重の側廊を廻しているプランであることが分かる。
参考文献・引用図版:ゴシックとは何か/酒井健/講談社現代新書

ケルンの三葉型バシリカ大聖堂


ケルンの三葉形式のバシリカはザンクト・マリア・イム・カピトールから時と共に次第にその大胆な三葉型が縮小し、150年後のザンクト・アポステルンに至っては元来の十字形が主体構造の内部に埋没してしまっているように見える。
St.Maria in Capital/1040-69 Gross St.Martin/1150-72 St.Aposteln/1190-1219
引用図版:Medieval Architecture in Western Europe : From A.D. 300 to 1500/Robert G. Calkins/Oxford University press

 ザンクト・マリア・イム・カピトールは、一見してバシリカの派生形というよりも、集中形式の崩しと思われる形態(The Romanesuque の著者もそう言っているが、定説なんだろうか?)に、その名前が似つかわしいと思われる大聖堂ですね。これから派生したと言われるのケルンの他の大聖堂の平面プランも調べてみましたが、気になるのが、そういった集中形式の崩し的形態が後の時代ほど、薄れてきている点です。ザンクト・アポステルンに至っては、これだけを見せられると明らかにバシリカからの派生形としてしか捕らえ得ないのではないかと思うほどです。集中形式の教会堂は、東ローマ帝国(ビザンティン)ではごく一般的な形式なのですが、西欧では、特別な事情が無い限りはあまり採用されない形式ではないかと思います。その理由として、当時形式が一般化してきたカトリックの礼拝式と関係があるのではないかと推測しているのですが、どうでしょうか?
 カロリング朝時代に発達したヴェスト・ヴェルクもその起源・使われ方に関して定説が定まっていないように思いますが、それにも、そういった宗教的な礼拝式の形式(未だカトリック教徒が少なかった時代、行われていた新たにクリスチャンとなるための洗礼儀式が主体の礼拝式?)が建築的形態に関与していたのでは、、などと考えています(未だ勉強不足)。
一方でザンクト・マリア・イム・カピトールを考えてみると、その名前からもマリア信仰の総本山的な意味を感じるのですが、すくなくとも相当な意気込みをもって、その設計が建築家に託されたものであろうと想像できます(それ故、集中形式を骨格として採ったのでしょう?)。ただ想像ですが、その頃にはすでに教会の礼拝式の形式がすでに固定化されてきていた時代に入っていたのではないかとも考えます。すなわちザンクト・マリア・イム・カピトールの建設時分はどうであったかはわかりませんが、その後の時代にあっては、三つ葉型建築の形態と礼拝式の機能が一致してこなくなっていたのではないかと思うのです。現代でも建築の形態としての完璧さ?と機能的な無駄のないという意味での完璧さはその幸福な一致をみることはなかなか困難なのですが、けっこう礼拝式に都合の悪い形態で、そういった意味で特徴的な3葉型が縮んでいったのではないでしょうか?ある程度の葉っぱらしさは、聖遺物崇拝に合致した配置計画となったと思いますが、ザンクト・マリア・イム・カピトールのような堂々とした葉っぱは不必要に感じられたのかもしれません。
 他地域においても、後発の教会堂がそういった形態を採らなかったのはそういった意味があるかもしれません。というか、あまりにも特徴的な形態はケルンを象徴するもので、都市がその独自性を誇っていく時代にあっては、ケルンの二番煎じはやりたくなかったのかもしれず、かといってアーヘンのカール大帝の宮廷礼拝堂ほどの権威ももっていなかったのではないかと思います。逆に、バシリカという形式が定番として定着しており、これなどは、異形の教会として皆の目には写っていたのかもしれません。後の時代に二転三転した、サンピエトロ大聖堂の設計案の一つサンガッロ案は、このプランに似ていますが、このプランがローマ的というより、あまりもドイツ的(ケルン的)であったと見なされたため、却下された事件なども、一度やってしまったあまりにも独創的な建築を、後のプライドの高い建築家が(二番煎じとなるため?)好まなかったという事も示唆しているのではないかと思わせます。
(因みに、こういった状況は現在では、ちょくちょくあります。二番煎じと思われる建築作品は良くできていてもあまり褒めてはもらえません(^^;)。

とここまで書いて思ったのでが、このような中心的意味合いを持つ建築に、ローマは反感を抱かなかったのだろうか?と、、、。ローマの横やりで集中形式がその後とれなくなったのでは、、、なにせ集中形式は西欧では権威を示すモニュメントに採用されることが多いですから!?(考え過ぎかな!?)

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