ヴェストヴェルクの謎



ヴェストヴェルクについては、もう少し自分の仮説?が纏まってからと思っていたのですが、松本さんに刺戟されて(笑)その未だぼんやりとし感覚?だけでも(どちらかというと自分に問いかけるつもりで)少しばかり記述しようと思います。

「>皇帝が巡行した際の玉所で典礼のみならず議会や裁判をここで行ったようです・・・」
と、松本氏も記述されていますが、そうであればですが、僕にはそれがどうしても引っかかっているのです。

なぜわざわざ教会でそれを行わないといけなかったのか?またそういった慣例となっていったのか?それが問題なんだろうと思います。(それには時代をカロリング朝まで遡る必要があるのでは?などと考えています)。

これに関して以前より気になっている系譜?があります。それは、ローマの旧サン・ピエトロ大聖堂(4世紀)、そしてそれを模して設計されたとされているケントゥラ(Centula)サン・リキエ修道院付属教会堂(790-799年)です。この二つを比較すると、ちょうどサン・ピエトロのナルテクス(拝廊或いは玄関廊)の部分に、ケントゥラでは、ヴェストヴェルクらしきものが配置されています。サン・ピエトロではナルテクスの前のアトリウムに洗礼盤が設置されていたようなので恐らくケントゥラでも同様なものがあったのではないかと思います。そしてさらに、コルヴァイの修道院付属教会堂(855−873年)です。これらを連続した時系列に載せて観ると、ローマの総本山で確立されたカトリック教会の原型がカロリング朝時代にナルテクスがヴェストヴェルクに変化し、さらにサン・リキエにおいて、そのヴェストヴェルクの前の洗礼盤(或いは洗礼堂やプール)を含むアトリウム(回廊)が削除されたように思えるのです。

比較建築研究会の御意見箱で記述した、「未だカトリック教徒が少なかった時代、、、洗礼儀式が主体の礼拝式」と考えたのはこのあたりです(ヴェストヴェルク自体を洗礼堂からの発展形であると見る説もあるようですが、僕もこれはちょっと無理な気がしています。)。

特に形態的にサン・リキエ型の形態は注目に値します。なぜなら、教会堂の構成としてヴェストヴェルクがその主軸(東西の)の意味深な位置するからです。興味深いのはヴェストヴェルクをゲート(門)として考えるならば、ヴェストヴェルクを境として西側を「俗」、東側を「聖」として観ることができるのではないかということです。そしてヴェストヴェルクを前述した「皇帝」の座とするならばカトリック教徒は、ヴェストヴェルクの前のアトリウムに据えられた洗礼盤(或いはなんらかの洗礼施設)で洗礼を受け、すなわち、皇帝の目前で、皇帝が証人となり、洗礼を受け、皇帝の足の下を通ってでなければ(ここが重要)身廊に入ることが出来ない訳で、「聖」なる区域である、身廊に入ってからも、常に背中には皇帝の目があり、見守られて(監視されて)いる訳です。(宗教的儀式は教会に委ねるが、それを監理し、保護するのはあくまで皇帝であるという意志表示?)

尚且つ、ヴェストヴェルクを「皇帝」トランセプト以東を「法王」として象徴的に見るならば、「俗」の長としての「皇帝」を、「聖」の長としての「法王」を観る事ができます。つまり、政治は皇帝に、宗教は法王に、ということを象徴的に表現しているのでないでしょうか?(皇帝のものは皇帝に、神のものは神に/或いは皇帝と法王の双立)。

カール大帝が自ら西ローマ帝国の皇帝の王冠を頭に載せたという逸話を思いおこせば、この対極的配置は、それなりに必然性のあるものではないかと考えています。

こういった典礼構造を考え得るならば、ヴェストヴェルクと洗礼儀式とは本来一体であった(と勝手に考えている私です)ものが、住民の殆どがカトリックに改宗してからは、その意味が薄れ、それと共にヴェストヴェルクの前のアトリウムと洗礼盤も消失していったのではないでしょうか?また二世代目からは、生まれ持ってカトリック教徒になる運命にあった訳ですから、その役割は短かったかもしれません。

こう考えると、身廊が完成する前に、西側部分(すなわち皇帝の座)が先に建設されたり、ヴェストヴェルクが分離的形態とし建設されたり、教会全体のプロポーションとしてヴェストヴェルクが異様に大きかったり、トランセプト以東とヴェストヴェルクが同じ大きさであったりすることは想像に難くないと私的には思っているのですがどうでしょうか?

ただ現在のところ全く確証はなく、仮想の域を抜けていません。また当初はそういった経緯があったとしても、建築の様式にはありがちですが、次第にその元の意味は薄れ、消失し、その形態的権威(或いはブランド?)のみが、残っていくことになるので、後の建築家或いは建設を指示した者に、そういった意識があったのかどうかもわかりません。

つらつらと書いてしまった、最初におことわりした様に仮説以前の仮説ですが、御意見頂けるとありがたいです。
ローマの旧サン・ピエトロ大聖堂
(4世紀):A
ケントゥラのサン・リキエ修道院付属
教会堂(790-799年):B
コルヴァイの修道院付属教会堂
(855−873年):C

図版出典:ABC共に、THE EARLY MIDDLE AGES/XAVIER BARRAL ALTET/Taschen

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