○トレド |
タイファの勢力図
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主な出来事 |
ローマ時代 |
トレトゥムToletumと呼ばれ、イベリア半島中央部(メセタ)の地方的中心都市であった。ローマ時代末期西暦400年で、イベリアのキリスト教会が第三回司教会議をここで開催した時期から歴史に大きく浮かび上がってきた。 |
西ゴード時代 560-711 |
第16代アタナギルド王 Atanagildo(在位554‐567)が、560年に宮廷をトレド(トゥールーズ→メリダ→トレド)に定める。その後、イベリア全土の政治の中心地となり、聖俗両界にまたがって政策の審議決定の場となった。教会会議が17回ここで開かれたことから、トレド司教座の権威は7世紀に高まり、イベリア全土の首座大司教座として認められるようになった。 711年に、イスラムのターリクにより占領、西ゴート王国崩壊。最後の王は第35代ロドリゴ(ロデリック)。 |
アラブ時代(植民地) 711-755 |
ムーサの息子アブドル・アジーズが西ゴート王国最後の王ロデリックの妻と結婚しスペインを統治。首都はコルドバに移り、トレドは辺境(スグール)の中心都市となる。アラブ時代にはトゥライトゥラと呼ばれる。 クライシュ族のヒシャーム・イブン・ウルワ、フィフル一族や二代カリフ、ウマルの子孫ら少数のアラブが市政を支配する。 *トゥール・ポアティエの戦(732年)はこの時期に起こる。 アラブ貴族、ベルベル族、イスラムに改宗した西ゴード王国の旧貴族(ムワッラドゥーンやムサーリム)の混在は後の抗争の火種となった。 またアラブ時代を通じて、ユダヤ教徒、キリスト教徒は宗教の自由を認められ(ジンミー)、それぞれの地区に居住した。
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アラブ時代(後ウマイヤ朝) 755-912 |
755年アブド・アッラフマーン1世、総督ユースフを破り後ウマイヤ朝のアミールとなるが、トレドは独立しようとし、アブド・アッラフマーン1世以後も抗争(敗北)を続ける。 768年シュクナーの乱(ファーティマの子孫であると自称するシュクナーを支持するベルベル族の乱)。 785年叛乱(ユースフの子の反乱)。 788年スライマーンの乱(アブド・アッラフマーン1世の子、第2代カリフ、ヒシャームの兄) 796年の叛乱(ウバイドゥラー・イブン・ハーミルを支持するイスラムに改宗した西ゴード王国の旧貴族ムワッラドゥーンの乱。ムスリムとキリスト教徒の国の建国を目指し、アスチュリアス王国に軍事援助を求める→濠の虐殺) 812年−837年トレド市民の反抗 854年グアサレテ川の戦い(トレド市民がアスチュリアス王オルドーニョ一世(850-66)に救援を要請) *この時期856-860年に、第12代王オルドーニョ一世は、レオン、アストルガ、トィーイ、アマーヤのローマ都市を再建し、アンダルスから移ってきたキリスト教徒(モサラベ)を入植させた。 870年頃トレドのムワラッド市民間闘争。 887−923年頃ズンヌーン家(ベルベル族)の台頭とトレド市民の抗争。 897−906年トレド市民カ−スィー家の招聘→独裁を嫌い寡頭体制を再建。 *この頃トレド市民は第13代王アルフォンソ三世に三度支援を要請し、貢納。
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アラブ時代(後ウマイヤ朝) カリフ国の時代 912-1018 |
930−32年アブド・アッラフマーン3世のトレド鎮圧。 *この期間にアルフォンソ3世の孫のラミロ二世はトレド市民から救援の要請を受けた(敗北) この後トレドでのウマイヤ朝の反抗がやみ、イスラーム信仰及びアラビア語とロマンス語のバイリンガルに基づくアンダルス人としてのアイデンティティーが強まり、西ゴード旧貴族はそのアイデンティティーを失った。 1013年首都コルドバでベルベル族傭兵が勝利しカリフ、アル・ムスタイーンを立てるも、それに従わず、ターイファスの国としての一歩を踏み出す。 1018年トレド市民は、キリスト教国の侵攻に備え、ベルベル族ズンヌーン家のイスマイールを迎える。ズンヌーン朝の成立。
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ターイファス時代 1018-1085 |
1031年の後ウマイヤ朝崩壊の後、アル・アンダルスが小国群(ターイファス)に分裂するが、トレドはそれに先立ってズンヌーン朝の首都となっていた。イスマイールの子アル・マームーン(ヤフヤー)は専制を強めた。また同じターイファスのフード朝と対立し、キリスト教国と連合する。 *この時期に戦乱のコルドバから多くの知識人(法学者・天文学・数学・薬学・農学・史学・哲学)が移住した。 アッ・ザルカーリー(ラテン名:アルザケル−1087)の観測器アストロラーベと「トレード天文表」は有名。 1044−46年アル・マームーンは、ナバーラ王ガルシア・サンチェス3世(弟)にサラゴサのフード朝侵攻を要請。→フード朝は対抗してカスティーリャのフェルナンド1世(兄)にズンヌーン朝侵攻を要請。 その後アル・マームーンはカスティーリャのフェルナンド1世に多額の貢納して侵入を阻む→その貢納の一部がクリュニー修道会の財源へ。 それにより北を安定させ、南部のターイファスを統一図ろうとする。 1072年に、アルフォンソ6世は、父王からレオン王国を継承したが、兄のカスティリャ王サンチョ2世(在位1065-1072)に追われ、イスラム王国だったトレドに亡命し(10カ月間)、アル・マームーンから歓待されている(兄の死後レオン・カスティリャ両国の王位についた)。 1075年トレド軍は、旧首都コルドバを占領。アル・マームーン死亡。孫のアル・カーディル(1075-85)即位。 アル・カーディルは有力市民と対立し、アルフォンソ6世の援助を得て(多額の金の支払いと領地の割譲が条件)、復権する。
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キリスト教王国時代 (レオン・カスティリャ) 1085- |
1085年、カスティリャ王アルフォンソ6世が占領、アル・カーディルはトレドを放棄したが、トレド市民は抗戦をつづけ、交渉の末無血開城。 ・トレドにとどまるムスリムの生命、財産、信仰の保証 ・トレドを離れるものの財産の保証 ・抗戦中にトレドを離れたムスリムの財産の回復 ・ムスリムはズンヌーン朝時代以上の税金を課せられないこと。 ・金曜日の大モスクは永久にムスリムの手に残ること 等がアルフォンソ6世に認められた。→クリューニー修道院出身の新しいトレド大司教ベルナルドは画策しモスクを奪い教会に転用する。 アルフォンソ6世は、ズル・ミッタライン「キリスト教徒とムスリムの王」と自らを称してスペイン全土の制圧を目指し、ムスリムを追放したり、改宗させたりする意志のないことを明らかにした。
その後ムラービト朝との激しい抗争はあったが、イスラム側には戻らなかった。 1108年アル・ムラービトゥーン(ムラービト朝)のトレド包囲 1195年アル・ムワッヒドゥーン(ムワヒッド朝)のトレド包囲
キリスト教国カスティーリャにとどまったムスリム住人ムデハルは、その先進性から追放されることはなかった。彼らはイスラーム信仰とイスラーム法の適用を許され、マスジドの建設、軍への参加、土地の購入され許された。 トレドではこのムデハルとアラブ化したキリスト教徒(モサラベ)、そしてユダヤ教徒が、イスラム文化、アラビア語を長く守り続け、宮殿、城門、邸宅、民家だけでなく、キリスト教やユダヤ教の教会も煉瓦造のイスラーム様式で造られた。 (16世紀末のクレタ島出身の画家エル・グレコが見たのはこういうイスラーム風の市街であった)
*トレドの大司教ライムンド(在職1125-50)は、フランスで当時高まりつつあったアラブの学問に対する要求に応じて、東方ムスリムの哲学者「アル・キンディー、アル・ファラビー、イブン・シーナー、アル・ガッザリー」やグラナダのユダヤ教徒「イブン・ガブリオール」の哲学書をラテン語に翻訳させた。 *またイタリア、フランス、イギリス、ドイツからぞくぞくと留学生がトレドに集まり、アラビア語をマスターし、ユダヤ教徒の助けも借りて、「哲学・数学・天文学・光学・工学・科学・医学・錬金術・占星術・魔術」などの難解なアラビア語の書物をラテン語に翻訳した。またアラビア語に徹底的に翻訳されていたアリストテレス、ユークリッド、プトレマイオスなどの古代ギリシャ・ヘレニズムの文献も西欧に紹介された。
13世紀以降、多くのムデハルはグラナーダ王国に去ったが、ドミニコ会は1250年にトレドにアラビア語学校を創設し、ラテン語訳を推進した。また少数のムデハルはモレリアというゲットーに残存し、14世紀までトレドのモサラベやユダヤ教徒はアラビア語を使用し続けた。
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